2021年4月3日(土)。天気晴れ。

新年度になりました。コロナはリバウンドで、宮城県、大阪府、兵庫県では、まん延防止等重点措置が実施されることになりました。

先日は、多摩川をはさんで、「府中市押立」と向かい合う同じ地名の「稲城市押立」に行きました。

今日は、同じく多摩川をはさんで、「調布市布田」と向かい合う「川崎市多摩区布田」を行きます。

「布田」とは、甲州街道の「布田五宿」など、調布においてたいへん由緒ある地名ということになっています。調布の子供は、調布の「調」は「租庸調の調」、調で布を納めていたから「調布」と言うのですと、学校で習います。しかしながら、大人になってから考えると、この地名の由来はやけに説明的なのです。そもそも「租庸調」なんて、教科書でしか見たことのない言葉です。「調布」は、1889(明治22)年の大合併時、国領村、上ケ給村、下布田村、上布田村、小島分村、下石原村、上石原村、飛田給村が合併して北多摩郡調布町が成立した際に名付けられた地名です。同時に、西多摩郡調布村(現・青梅市)、荏原郡調布村(現・大田区)にも「調布」が多摩川沿いで誕生していることから、当時は気の利いた名前という感じだったのかも知れません。

この「調布」と比べると、「布田」はたいへん素朴です。布田の鎮守は「布多天神社」なので、実は字はどうでも良いのかも知れませんが、「布を作っている所」というくらいの意味なのでしょう。

この素朴な「布田」の地名は、まさに調布のコアであり、「調布以外に布田があるなんて許せない」という勝手な気持ちを持ってしまう調布市民がいるかも知れませんが、実は密かに多摩川対岸の川崎市多摩区にも布田があります。この布田も、多摩川の流れが変わったことにより、対岸に取り残されてしまった飛地です。

「稲城市押立」は戦後間もなくに稲城に編入されましたが、こちらの布田は、1912(明治45)年には、既に神奈川県橘樹郡稲田村に編入されていますから、調布と縁が切れて100年以上が経過しています。一方で、「上布田」、「下布田」の住居表示での使い分けが、1991(平成3)年まで残っていました。そんな川崎市多摩区布田を訪ねました。

出発は、南武線「中野島駅」です。中野島村は、江戸時代は多摩郡の村でしたが、1875(明治8)年に橘樹郡に編入され(この時点では同じ神奈川県)、その後、1889(明治22)年に稲田村に統合されたことで、本格的に現在の川崎市多摩区への道を歩んでいくことになります。

最初に、「中野島稲荷神社」を訪ねます。

日清戦争の記念碑がありました。見事な桜の花に隠れてしまっていますが。

社殿。

「中野島駅」近くには、「新多摩川ハイム」という巨大なマンションがあります。ここの住所は中野島です。

しばらく進むと、梨畑越しに「新多摩川ハイム」を望むのどかな光景が拡がります。この辺りは既に布田になっています。

こちらは「川崎市立下布田小学校」。

「二ケ領用水」沿いの遊歩道。

「二ケ領用水」に架かる「ふだっ子ばし」。

「上布田公園」。

「上布田住宅」。

「三沢川」の多摩川への流入口にある水門。

こちらは「二ケ領用水」に架かる「布田橋」。この辺りは、「三沢川」と「二ケ領用水」の流れが交差しています。

「布田橋」の表示がある信号。多摩川の対岸は調布です。

「セブンイレブン川崎布田店」。

多摩川の河原に出ると、雄大な光景が望めて、気分もすっきりしてきます。

対岸は、調布市です。実は、調布市の多摩川原には、今も「上布田」、「下布田」の地名が残っています。

かつ一部、「調布市上布田町」が川崎側(多摩川南岸)にもあるのです。

高層ビルは、国領駅前の「コクティ」ですね。