2020年5月30日(土)。快晴。

「品川道」は、府中・調布・狛江の各市において、武蔵野台地の立川面と多摩川沿いの沖積面との間のいわゆる「ハケ」(府中崖線もしくは立川崖線)の上(即ち立川面上)を、大雑把には東西に通っている道です。名前のとおり、この道は品川まで続いて行きます。

昨年末に品川宿を訪ねた際(品川宿)、「大國魂神社」の神官が「くらやみ祭り」に先立って、南品川の鎮守「荏原神社(旧名品川貴船社)」にて禊を行うという解説がありました。また、「品川道」は「筏(いかだ)道」とも呼ばれていて、奥多摩で切り出した木材で筏を組み、多摩川の流れを利用して河口まで運んだ帰り、筏乗りはこの道を辿って再び奥多摩方面に戻って行ったということです。江戸時代初期には、「甲州街道」の一部としても使われていました。この「品川道」は、現在の自治体によって、名称が少しずつ違います。調布市においては、「旧品川みち」です。

狛江市においては、「品川道」です。ちなみに、府中市では、「品川街道」です。

調布市で「旧」と言うのは、たぶん新しい「品川通り」が整備されているからだと思います。

新しい「品川通り」も、「旧品川道」の経路を辿っているため、道端には小さな稲荷や地蔵がなどがあります。

「赤稲荷」と呼ばれる小さな社。

さて、狛江市の「品川道」を進んで行き、少し「品川道」から逸れた所にあるのが「伊豆美神社」です。

ここは、旧北多摩郡和泉村の鎮守です。

大きな鳥居の次に小さな石の鳥居が建っています。参道は木立に囲まれており、厳かな雰囲気です。

この鳥居は、江戸時代の初めに和泉村を知行地としていた旗本・石谷家の石谷貞清により寄進されたもので、「慶安四年辛卯初夏穀旦」という文字が刻まれています。慶安4年は1651年になります。

この神社の境内には、いろいろな見所があります。まずは「拝殿」です。祭神は「大國魂大神」で、府中と同じく「六所宮」と称していたものを、明治維新後に「伊豆美神社」に改称しています。「伊豆美」は「和泉」からですね。

「神楽殿」もあります。

そして「故正四位上左近衛中将井伊直弼公敬慕碑」。あの「安政の大獄」の、あの「桜田門外の変」の彦根藩主・大老井伊直弼を敬慕する碑なのです。建てられたのは1901(明治34)年です。井伊直弼と併せて、彦根藩の儒家であった小町雄八(和泉村出身)の遺徳を伝えています。世田谷・豪徳寺が井伊家の菩提寺あるように、旧荏原郡や多摩郡には彦根藩の領地の村があり、現在の狛江市内では猪方村や岩戸村、そして和泉村(天領・旗本領・寺社領と混在)がそうだったのです。

そして、私が瞠目させられたのが、「靖国神社」と名付けられた境内社に祀られていた砲弾です。

私は、この砲弾と酷似したものを、都心・神谷町の「葺城神社」で見たことがあります。今や「葺城神社」は、森トラストにより新しく開発された「東京ワールドゲート」というビルの敷地の中で再建されていますが、あの砲弾は見当たりません。「葺城神社」から数百m離れた「西久保八幡神社」の境内に、その砲弾の置かれていたところまでは確認していましたが、今や「西久保八幡神社」までもが社殿建替工事に入ってしまって、現在の砲弾のありかは確認できないのです。どこにあるのか、新しい「葺城神社」に安置されないのでしょうか?

工事前の「葺城神社」に鎮座していた時(2014年)の砲弾。

「西久保八幡神社」の境内に置かれていた時(2019年)の砲弾。

話が横道に逸れてしまいました。。。

「伊豆美神社」の近くに、「兜塚古墳」という墳丘があります。土師器や円筒埴輪が出土しており、6世紀前半頃に築造された、この辺りの盟主の墓と考えられています。

墳丘の上に登ってみました。滅多に人が入らないのか、カラスが警戒の啼き声をあげていました。