2019年12月29日(日)。

いよいよ今年も残り僅か。年末といえば、やはり「芝浜」ではないかと思い当たり、京浜急行の「北品川駅」に向かいました。実際には「芝浜」は、今の「田町駅」あたりのことを言うようですが、川島雄三監督の「幕末太陽傳」(主演:フランキー堺、1957年)の舞台・品川宿の「相模屋(土蔵相模)」がこの辺りにあったので、江戸の海というと、品川というつもりになってしまうのです。ですから、本当は落語でいえば、「芝浜」ではなくて、「居残り佐平次」や「品川心中」です。

「品川駅」は年末年始の帰省客でごったがえしていましたが、京浜急行に一駅だけ乗って着いた「北品川駅」

は本当に閑散としています。よく言われることですが、「品川」の一つ先ということは、南に向かって来たはずなのに「北品川」とは」?本当はここから、「新馬場駅」、「青物横丁駅」にかけての旧東海道沿いが「品川宿」であり、現在の「品川駅」は「品川」ではないのです。住所も港区というのは有名な話です。

ともあれ、現在の東海道(国道15号=第一京浜)は、広々とした道路になっています。

こちらが旧東海道。「土蔵相模」は、「北品川駅」から直ぐの辺りにあったそうです。今は解説の標識しか残っていません。

旧東海道からさらに海の方に出てみました。映画や落語のイメージでは、東海道沿いの宿屋・遊郭の裏手は海になっていましたので。「大正14年9月竣工」の銘がある「北品川橋」に出ると、屋形船の船溜まりがありました。「品川駅」周辺の高層ビルとのコントラストが印象的です。

旧東海道沿いには、江戸時代とは言えないですが、戦前の建築と思われる風情のある建物が残っていま

す。

「品海公園」の花壇?に利用されている石積みは、かつての海岸線の土留めに使われていたものだそうです。

旧東海道沿いにある真言宗智山派「豊盛山延命院一心寺」。東海七福神の寿老人に指定されています。

元は洲崎弁天境内にあったものが、維新後の神仏分離で北品川に移ってしたそうです。

「一心寺」の対面、旧東海道から路地を少し入った所にある天台宗の「明鏡山善光院養願寺」。

こちらは東海七福神のうちの布袋様を祀っています。

品川宿本陣跡の「聖蹟公園」。五街道のうちの東海道は、日本橋を発した後の最初の宿場町が品川であり、もしくは逆ルートで来れば、江戸に着く直前の宿が品川であり、とにもかくにも岡場所としてたいへん賑わった一帯でした。特に幕末は、江戸に流入しようとする過激尊攘派の潜伏先にもなっていて、もしくは鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が最初に上陸したのも品川宿でした。今はそのような騒乱の時ははるか彼方の風情です。

「聖蹟」というのは何かと言えば、明治天皇が京都からの東幸にあたって宿泊したからです。私にとっての「聖蹟」とは、やはり明治天皇が兎狩りをしたという「聖蹟桜ヶ丘」ですが。

「聖蹟公園」を過ぎて、新しく開かれたのであろう「山手通り」を渡ると、やがて目黒川に架かる「品川橋」に出ます。品川宿は、「品川橋」を境に、北品川と南品川に分けられます。南品川まで行くのは次の機会にすることにしたいと思います。

「品川橋」を目黒川沿いに少し西に行くと、「荏原神社」に行き当たりました。この神社は、南品川の鎮守ということですが、目黒川の北岸に位置しています。これは、今でこそ真っ直ぐな流路になっている目黒川も、かつては曲がりくねった形であったため、「荏原神社」のある場所が目黒川の南側から北側に変わってしまったことによるようです。元々は「品川貴船社」といって、明治になってから「荏原神社」に名称を変えました。この神社は、府中の「大國魂神社」との由緒があって、河内源氏の源頼義・義家親子が平安時代後期、11世紀中頃の前九年の役で奥州の安倍氏と戦った際、「大國魂神社」と「品川貴船社」とで必勝祈願をしたことから、現在でも「大國魂神社」の「くらやみ祭」の際には、「大國魂神社」の神官が当社で禊を行うことになっています。東海七福神のうちの恵比寿様を祀っています。写真では、鳥居に隠れてしまっています。

再び「第一京浜」に戻って、道を渡った方にある「品川神社」です。こちらは、北品川の鎮守になります。高台に建っていて、かなり立派な構えです。こちらは東海七福神の大黒天を祀っています。

境内の「浅間神社」に付属する形で富士塚があります。関東では、かつて富士講が盛んで、富士山を模した富士塚があちこちに造られていました。

こうして見上げると、かなり険しい山に見えます。

富士塚の頂上から望む品川宿の街並み。手前は「第一京浜」と「京浜急行」です。

旧東海道を歩いていると、昔ながらの街並みという感じがするのですが、こうして見てみると、埋立と高層化が進んでいることがよく分かります。

境内には、乃木希典将軍揮毫の「忠魂碑」がありました。弾丸の形をしているこの「忠魂碑」を見て、かつて神谷町の「葺城神社」にあった砲弾の御神体を思い出しました。「葺城神社」は、「虎ノ門パストラル」跡の再開発区域の中に取り込まれて、現在は改築中という扱いです。私は当該の砲弾が「西久保八幡」の境内にあることまでは確認したのですが、その後、頼みにしていた「西久保八幡」まで改築工事中になってしまい、今その砲弾がどこにあるのか分かりません。

「品川神社」の裏手は、沢庵和尚の創建した臨済宗大徳寺派「東海寺」の塔頭であった「高源院」(関東大震災後に千歳烏山に移転)の境内が、取り残された形になっています。そこに、ひっそりとお墓があります。

ですから、このお墓は神式のお墓ではありません。

誰のお墓かと言うと、横に名言の碑があります。

「品川神社」から「御殿山」に出ました。現在は、「東京マリオットホテル」などで構成される「御殿山トラストシティ」の一部になっていますが、かつては将軍の鷹狩り休息所がありました。幕末には英国公使館など、外国公館をここに建設する予定になり、長州藩・高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文、品川弥二郎らによる「英国公使館焼討事件」が発生しました。

さらに大崎方面に進んでいくと、ミャンマー大使館が現れました。ミャンマーを訪問して既に長い年月が経っています。きっとすっかり変わってしまっているだろうと思います。

再び目黒川を渡って、大崎駅の方に向かいます。

「ゲートシティ大崎」の建物の中に入ります。

かなり贅沢な空間の使い方で、それこそ東南アジアのショッピングセンターみたいな感じでした。

ミャンマーもこんなになっているんだろうかと思いました。

「大崎駅」に続くペデストリアンデッキ。

乗った電車は、相模鉄道の12000系でした。「海老名行き」。すごい。