30年前、僕は大学生で九州にいました。3月に卒業を控え、卒業後は地元の関西に戻る予定でした。
1月17日の朝、起きてテレビをつけると建物が倒壊してあちこちから煙が上がっている神戸の街が映っていました。「マジかよ」実家が西宮だったので家族や友人が無事か心配になるが、電話をかけてもつながりません。その日の夜、実家から「大丈夫やで」と電話がありました。ただ、電気やガスが来なくなっていて、家の壁にヒビがはいっていたため、しばらくは実家を離れることを余儀なくされました。
すぐに実家へ帰りたかったが、電車も地震のため動いていません。そのうえ学校の単位を少しではあるが残していて、卒業がかかった試験が間近に迫っていました。親にもう1年学費と仕送りの負担をかける訳にはいかなかったので、試験が終わったら帰ろうと決めました。
試験が終わり、実家に帰る頃には電車も通っていました。テレビで見てはいましたが、電車の窓から被害の甚大さを目のあたりにして愕然としました。震災直後は避難所で過ごしたり親戚のところに身を寄せていた家族も僕が帰る頃には実家に戻ってきていました。
幸い家族や親しい友人は無事でしたが、西宮市も1146名の方が亡くなられています。幼稚園のとき同じクラスだった人や同級生のご家族で亡くなられた方がいました。あれから30年、慣れ親しんだ街があんな状態になったそのとき、自分はその場にいなかったことに対する負い目に近いものが今でも自分の心の中にあります。
その16年後、東日本大震災がありました。僕はそのとき仕事中で車で外を回っていて、車のラジオで震災の発生を聞きました。その数日後、上司から宮城の事業所に応援に行ってくれと言われました。福島の原発のことなど不安はありましたが、阪神・淡路大震災のときも東北の方から多くの支援をいただいたし、少しでも役に立ちたいという思いから自分の中に断るという選択肢はありませんでした。
そうして行った宮城県。事業所は内陸部にあったので表立った津波の被害はありませんでしたが、沿岸部に近いところでは多くの家が津波で壊され、無数の車が流されて散乱していました。地元の方が以前の風景を思い出せないほどの惨憺たる状態でした。
この2つの震災から実感したことは、「今普通に生活できてるのは決して当たり前ではない」ということです。命があって家族がいて仕事も趣味もある・・・それだけですごく幸せなことなんやと。宮城県に行ったとき「いつか必ずもう一度この地を訪れるんや」と決意し、2017年に新しく開催された「東北・みやぎ復興マラソン」に出場しました。その後も趣味のマラソンを通じて被災地を応援したいという思いから、これまで「東北・みやぎ復興マラソン」に3回、「熊本城マラソン」に1回出場しました。これからもそれは続けていきたいと思います。あとは今年新コースになるであろう神戸マラソンに当選して、セレモニーでの「しあわせ運べるように」の合唱をテレビではなく現地で聴きたいっすね。
今日は休みだったので、ランニング前に西宮震災記念碑公園を訪れて追悼之碑に手を合わせてきました。生きたくても生きられなかった方々に対して恥ずかしくない生き方をできたらいいなと思います。




