「銅メダルも逃した」北京五輪で大エラーしたG.G.佐藤に 星野仙一がかけた言葉 | poohta8のブログ

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「飛行機が落ちれば」とさえ思った… 2020/09/03 9:00

「エラーするかも」洩らした不安

日本代表は五輪前に合宿と壮行試合を行った。

佐藤は合宿からレフトの守備についたが、驚くことの連続だった。

澤宮優『世紀の落球「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ

 

「これはやばいぞ。ライトとは予想よりも違うぞ」

右利きの佐藤は、レフトだと、左打者の切れる打球を逆シングルで捕ることになる。しかも

捕球したあとは、体が二塁ベースとは反対方向を向くので、切り返す動きが入ってくる。

佐藤は壮行試合で、左打者の打球をトンネルして二塁打にしてしまった。

「思った以上に切れ方が大きかったですね。これは気を付けなければならないなと思いました」

そこに不運も重なった。合宿の初日にノックを受けたとき、佐藤は張り切って二塁へ全力で

投げた。その際、肩に急激な痛みが走った。

「ビカンという感じの痛みが走りました。それまで感じたことのない激痛でした」

以後、送球の不安を抱えることになり、それは守備に対しての自信を失わせた。捕ったら

すぐに投げて、送球の弱さをカバーしようと考えたが、それでは確実に捕ることに徹せない。

北京へ向かう飛行機の中で佐藤は村田修一(横浜ベイスターズ)に「自分はエラーするかも

しれない」と不安を洩らしている。その不安が的中することになる。

焦りが捕球をおろそかにさせた

日本チームは予選リーグを4位で準決勝に進んだ。ここから試合形式は総当たりから、

トーナメントに変わる。

準決勝の相手は、予選で負けた韓国である。佐藤は7番レフトでスタメン出場した。

日本が2点をリードした4回裏。先頭は左打者の李容圭。

李は先発・杉内俊哉(福岡ソフトバンクホークス)の球を流し打ち、レフト前に運ぶ。

打球は大きく切れながらレフト線寄りに落ちた。佐藤はライン際に走ってゆく。肩が痛いので、捕ったらすぐに二塁に投げなければならない。その焦りが、捕球をおろそかにさせた。

ボールはツーバウンド目で、彼のグラブをかすめて左足に当たり、ファウルゾーンへ転がった。トンネルだった。

その間に李は悠々と二塁まで進んでいた。杉内はその後ヒットを打たれ、

次打者の内野ゴロの間に1点を失った。2対1となった。

「自分でも“何これ、なんで捕れないの”と思いました。わけがわからなくなって、

トンネルした自分を疑い出してしまって。“どうしたんだろう今日は”と思うようになり、

こんなゴロも捕れないのだから、とフライを捕る自信も失ってしまったんです」

 

急に肩に激痛が走ったのは、あの姉妹がそうさせたんです 物申すパンチ!パンチ!

「どうせならホームランになってくれ」

日本代表は追加点を奪えないまま、7回裏に同点に追いつかれた。

そして8回裏、李承燁に2ランを打たれ、ついに勝ち越される。なおも二死一塁で、

バッターボックスには7番高永民。

涌井秀章(埼玉西武ライオンズ)の速球を思い切りスイングすると、打球は左中間の深い場所に飛んだ。レフトの佐藤とセンターの青木宣親(東京ヤクルトスワローズ)がともに追いかける。

4回にトンネルをして弱気になっていた佐藤は「青木、捕ってくれ」と思ったが、

佐藤のほうが先に打球に追いついた。フェンスにぶつかりながら捕球しようとしたが、

ボールはグラブからこぼれてセンターへ転がった。

青木がすぐに拾って返球したものの、一塁走者は三塁を回ってホームインした。

佐藤は膝をついてしばらく立つことができなかった。

「難しい打球でしたが、グラブに触っているので捕れた当たりだと思います。

ただ飛んで来たときには、どうせならホームランになってくれとも思いました。

青木に捕ってくれと考えているようじゃ駄目ですよね。自信がなかったんですね」

阿部慎之助に抱きかかえられてバスに乗った

これで韓国にダメ押しの5点目が入った。佐藤はベンチに戻るのが怖かったという。

最終回の日本の攻撃時も佐藤はベンチの隅にうなだれて座っているだけだった。

誰も声をかける者はいなかった。

韓国に敗れた日本は金メダルの可能性が消え、3位決定戦に回ることになった。

試合後、佐藤は涙が止まらず、阿部慎之助(読売ジャイアンツ)に抱きかかえられて

バスに乗るのがやっとだった。

その夜、森野将彦(中日ドラゴンズ)と阿部が食事に誘ってくれた。二人で「負けたのは

お前だけのせいじゃない。気にするな。明日勝って銅メダルを獲ろう」と励ましてくれた。

しかし佐藤は、明日は自分の出番はないと考えた。

「金メダルが目標でしたからね。自分のエラーで負けたので気持ちが切れてしまったんです。

二度エラーした私を星野監督が翌日も使うわけはないと思い込んでいました」

ところが翌日、彼にとって予想外の出来事が待っていた。

 

星野監督の恩情が裏目に出てしまった

翌日の米国との3位決定戦の日。朝食会場の壁に貼られたスターティングメンバーを見て、

佐藤は仰天した。そこに自分の名前があったからだ。

「レフトはお前で行くぞ」

星野にも打撃コーチの田淵幸一にも声をかけられた。佐藤の喉からは「嘘でしょう」

という言葉が出かかった。

星野は「佐藤の野球人生をダメにしたくないからチャンスを与えたい」とコーチ陣に

洩らしていた。だがこの状況では、星野の恩情は佐藤にとって逆に作用した。

「ふつうならチャンスをもらって意気に感じる場面なのでしょうが、僕には『やばい』

という気持ちしかありませんでした。なぜ僕を先発で使うのか、と。

気持ちがへこんでいたので試合に出る自信がなかったんです」

佐藤は、昨日は弱気になっていたので、今日は守備でももっと積極的にいかなければ

ならないと肝に銘じた。試合が始まった。日本代表の先発は左腕の和田毅

(ソフトバンクホークス)。日本は3回表を終わって、4対1と試合を優位に進めていた。

任せるべき打球を深追いしてまたも落球

3回裏、米国の先頭打者1番バーデンの打球は、和田の球威に押され、ショート中島裕之

(埼玉西武ライオンズ)の後方に上がった。中島が捕球体勢に入ろうとしたが、そこへ

佐藤が声を上げて勢いよく前進してきた。中島は急いで二塁方向によけ、佐藤に任せた。

佐藤は逆シングルで捕球しようとしたが、ボールをグラブの先に当てて落としてしまう。

またもや騒然となる球場。落ちたボールはレフトフィールドを転がる。

「強気にいこうという気持ちが空回りして、本来中島に任せるべき打球を

無理に捕りにいきました。積極性が裏目に出てしまいました」

バーデンは一気に二塁へ進んだ。和田は次打者を歩かせ無死一、二塁に。

一死後センター左へ3ランを打たれ、4対4の同点となった。

5回裏に和田をリリーフした川上憲伸(中日ドラゴンズ)も打たれ、ついに逆転され、

その後4対8と突き放された。日本は挽回できず、米国に敗れ、銅メダルも逃した。

試合後、星野は「すべては自分の責任」と報道陣に語った。

「飛行機が落ちてくれないか」とさえ思った帰路

試合後、日本代表は帰国の途についた。飛行機に乗る前に佐藤は妻に携帯電話から

メールを送っている。そこには「死にたい」と書かれていた。

現在のG.G.佐藤氏

現在のG.G.佐藤氏(画像=著者撮影)

 

飛行機に乗っている最中も、帰国後にマスコミから取材攻勢を受けることを考えると

 

気が重かった。不謹慎だが、飛行機が落ちてくれないかとさえ思った。

他の乗客のことまで頭が回る状況ではなくなっていた。

空港に着くと、談話をとるため佐藤のもとに新聞記者が駆け寄った。

翌日からは「G.G.佐藤、A級戦犯」「エラーのE.E.佐藤」などと書かれた。

佐藤は、町を歩いていても、常に誰かから見られている思いがした。

プライベートのときも記者に追いかけられた。そんなとき妻は明るく励ましてくれた。

「野球でまた見返していこうよ」

佐藤は回顧する。

「バッシングもすごくて、常に追いかけられている感じが1カ月くらいあったと

記憶しています」

「所沢の空が北京の空に見えました」

佐藤の復帰は、あの落球から3日後、本拠地である西武ドームで行われた

東北楽天ゴールデンイーグルス戦だった。

佐藤は、観客からひどい野次を受けるのではないかという不安を覚えていた。

しかし球場に行くと、観客席には「G.G.立ち直れ」「どんなときもG.G.はG.G.だ」

「G.G.俺たちはいつもお前の味方だ」と大きく書かれたプラカード、貼り紙があちこちに

掲げられていた。

「うれしかったですね。本当に勇気づけられました。頑張らなければいけないと思いました」

試合前に佐藤の名前がアナウンスされたとき、誰よりも大きな歓声が上がった。ポジションは

慣れたライトである。2回に楽天ホセ・フェルナンデスの打球がライトに上がった。

平凡なフライだったがこのとき球場全体がどよめいた。

「こいつフライ捕れんの? みたいな雰囲気があったんでしょう」

佐藤は苦笑する。無事にキャッチすると、大きな歓声が上がった。佐藤はガッツポーズを

して見せた。イージーなフライで観客を沸かした選手は自分だけかもしれないと思うと

おかしくもあった。

試合後、「所沢の空が北京の空に見えました」とコメントして、ファンの笑いを誘った。

佐藤は、帰国直後に星野に手紙を書いていた。〈すべては私のせいです。申し訳ありません〉と思いのたけを綴ったが、このとき星野から返事はなかった。

この年は9月に左足首痛で戦列を離れたが、21本塁打、打点62、打率3割2厘(ベストテン7位)と素晴らしい成績を残した。チームもオリックスを振り切ってリーグ優勝し、日本シリーズでも巨人を破り日本一になった。この年の優勝は佐藤なしではありえなかっただろう。

 

「自分の野球人生を全うして、野球界に貢献しろ」

 

翌年3月のヤクルトとのオープン戦のときだった。試合前に北京五輪で主将を務めた宮本慎也が話しかけてきた。彼は佐藤に「星野さんに手紙書いたんだって?」と尋ねた。佐藤が頷くと、

宮本は言った。宮本は星野と会っていたのだ。

「星野さんからの伝言だけどな。あのことは気にしなくていいから、自分の野球人生を

全うして、野球界に貢献しろと言っていたよ」

佐藤は胸が熱くなった。

この年、佐藤はプロ生活でキャリア・ハイの成績を残す。4月に長女が生まれ、家庭生活も

さらに安定した。とくに9月は打率4割、9本塁打を記録して、2度目の月間MVPを獲得した。

シーズンを終わってみれば、ほぼ全試合に出場して、25本塁打(リーグ5位)、自己最高の

83打点(リーグ6位)、打率も2割9分1厘を残した。年俸も1億円を超えた。

星野の言った「野球人生を全うすること」を自分なりに体現したのだった。

星野の言葉を胸に、現役にこだわった

しかし翌22年、シーズン途中に左肩を故障し、さらに両肘も痛め戦列を離れた。

翌年は二軍暮らしが続きシーズン後に戦力外通告を受けた。それでも佐藤は諦めなかった。

24年はイタリアのチーム(8月に解雇)、さらに富山県のクラブチームでプレー、

この年の11月に千葉ロッテマリーンズのテストを受け合格、入団する。

そこまでして現役生活に固執したのも星野の言葉が彼の中で生き続けていたからだろう。

あるとき、試合前に佐藤が挨拶に行くと、星野は笑顔で冗談を飛ばした。

「元気か? 今日もフライ落としてくれよ。うち勝てるから」

佐藤は恐縮するばかりだった。

平成26年のオフ、彼は現役引退を決めた。すでに36歳になっていた。

苦しい時を支えてくれた妻に伝えた。

「これで引退するね。本当にありがとう」

妻の頬には涙が流れていた。

 

 

北京五輪で痛恨の落球…「死にたい」と漏らしていたG.G.佐藤に

亡くなる直前の野村監督がかけた言葉「エラーしたお前の勝ちや」

PRESIDENT Online  長谷川 晶一

 

「言葉の人」として記憶に残る野村克也の言葉

後に西武ライオンズに入団し、プロ野球選手として活躍したG.G.佐藤。現役引退後に父の経営する千葉県内の大手地盤調査会社トラバースに入社し、現在では従業員約200人を擁する組織の取締役副社長として、新規事業育成に日々奮闘している。

社内には野村克也から贈られた直筆の色紙が飾られている。

――念ずれば 花開く。

野村による筆文字が力強い。

「全国優勝したときの卒団式だから、平成5年12月ですね。《日本一記念》と書いてあるんですけど、野村監督が直接書いてくれて一人一人手渡されました。僕は大事に額に入れて、高校にも持っていきましたし、今でもこうして飾っています」

直接の指導は受けなかった。けれども、野村のことを師として尊敬する思いは常に抱き続けてきた。

「野村監督からは、“我以外皆我師なり”という言葉ももらいました。自分以外の人はみんな師匠だと思って、一度は意見を採り入れてみなさい。拒絶するのは簡単だけど、それを受け入れるかどうかはお前次第だ。最初から殻を閉じることはやめなさい。そんなことを言われました。僕にとっての野村さんは《言葉の人》です。言葉の力は本当にすごいなと思います。だから僕も、子どもたちに発する言葉には責任が伴うと思っているので、安易で無責任な言葉はかけないようにしています」

G.G.佐藤の北京五輪の苦い思い出

2008(平成20)年北京オリンピック―─。

G.G.は野球日本代表に追加招集され、その後、正式に代表入りを果たした。しかし、北京では生涯忘れることのできない「痛恨のミス」を犯してしまった。慣れないレフトを任され、準決勝の韓国戦では3失点に絡む失策を、3位決定戦となるアメリカ戦でも3失点に絡むエラーを記録してしまった。

「E.E.佐藤」「戦犯」の声に一時は「死にたい」とまで思った

 

星野仙一監督率いる日本代表はメダルを逃すことになる。「戦犯はG.G.佐藤だ」と言われ、「エラー」を意味する「E」をもじって、「E.E.佐藤」と揶揄されることになった。一時は、「死にたい」と周囲に漏らすこともあったという。

「帰国後にも、いろいろ批判は受けました。しばらくの間はかなり引きずりました。すごく病んでいたんですけど、ある日のワイドショーでの沙知代さんの言葉に救われました」

当時、ワイドショーのコメンテーターとして活動していた野村沙知代は、北京オリンピックの話題の際に彼を擁護した。彼女が話したのはこんなことだった。

「この子、私の教え子なのよ、そんなに責めないでよ、守備は本当は上手なんだから」

G.G.の白い歯がこぼれる。

「あの言葉は本当に嬉しかったですね。中学時代はさんざん厳しい言葉をかけられたし、ぶっ叩かれることもあったのに、まさか、沙知代さんからあんなに優しい言葉をかけてもらえるとは思わなかったですから(笑)。僕が港東にいたということを認識してくれているのも嬉しかったし、僕のことをフォローしてくれたのも嬉しかったし」

G.G.佐藤選手

G.G.佐藤選手(写真=Nsgok/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

G.G.佐藤に亡くなる直前の野村克也がかけた一言

さらに、G.G.は野村からも北京の一件で優しい言葉をかけられている。

野村克也

野村克也(写真=shi.k/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

「亡くなる数日前に、テレビ番組の収録で野村監督とご一緒しました。お会いした瞬間、自分でも意外なことに涙が一気にあふれてきました。野村さんがいたからこそ、僕は高校でも大学でも野球を続けることができ、プロ野球選手にもなれたと思っています。そうした感謝の思いが、涙になって出てきたのでしょう。このとき、北京五輪の話題が出ました。野村監督は僕の目を見ながら、こんな言葉をかけてくれました……」

野村はG.G.に諭すように告げたという。

「エラーしたお前の勝ちや。北京オリンピックに出たメンバーで、誰が世の中の人の記憶に残っている? お前と星野の二人だけや。名を残したお前の勝ちや……」

北京五輪からすでに11年半が経過していた。心の傷はかなり癒えていたものの、このときの野村の言葉によって、G.G.は完全に救われた。

「野球は失敗のスポーツです。10回打席に立って3回ヒットを打てば一流打者と呼ばれます。つまり、7回の失敗が許されるスポーツです。ならば、その7回の失敗をどうやって次に生かすかが大切になります。また、失敗するというのは行動しているということの証明でもあります。バットを振れば三振も凡打もあるけど、バットを振らなければ絶対にヒットは生まれない。失敗を恐れて何も行動しなければ、何も結果は生まれない。北京でのエラーによって、心に深い傷を負ったのは事実だけど、野村監督の言葉によって、僕はようやく前向きな気持ちを取り戻し、“過去の失敗を生かしつつ生きていこう”と決意できるようになったんです」

G.G.佐藤の胸の内には今でも野村克也、沙知代の言葉が息づいていた。

 

 

G.G.佐藤は痛恨のエラーからどうやって立ち直ったのか 

WBCを前に「失敗」との向き合い方を考えた

2023年3月3日 16時00分  東京新聞

WBCを前に日本代表へエールを送るG.G.佐藤さん=東京都千代田区で

WBCを前に日本代表へエールを送るG.G.佐藤さん=東京都千代田区で

 

 3月8日に開幕するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。

今回の日本代表は「史上最強」との呼び声も高いが、想像を絶する重圧の下、

最高峰の選手でもミスをすることはある。2008年の北京五輪で痛恨のエラーをした

元プロ野球選手、G.G.佐藤さん(44)はその失敗をどう受け止め、立ち直ったのか。

今回の代表へのエールとともに体験談を語ってもらった。(宮畑譲)

 

 G.G.佐藤 本名・佐藤隆彦。2003年、西武ライオンズからドラフト7巡目で指名され入団。日本のプロ野球で通算8年プレーし、打率2割7分6厘、507安打、88本塁打を記録した。

 

現在は実家の測量会社で役員を務め、会社主催の野球教室で子どもたちに教えている。

◆「実力さえ発揮できれば間違いなく勝てる」

埼玉西武ライオンズに所属していた頃のG.G.佐藤さん埼玉西武ライオンズに所属していた頃のG.G.佐藤さん

 

 現役時代から約30キロ痩せたという佐藤さん。身長185センチ、

スマートなジャケット姿で、苦い過去もにこやかに語ってくれた。

 

 今回のメンバーには、大谷翔平選手やダルビッシュ有投手ら現役大リーガー、

昨季三冠王を獲得した村上宗隆選手らがそろい、優勝の期待が高まる。

佐藤さんも「実力さえ発揮できれば、間違いなく勝てる」と太鼓判を押す。

ただ、「力を出せることが前提。選手がやりやすい環境をつくる必要がある」と力説する。

それは準備不足で力を出せなかった自身の経験があるからだ。

 

 北京五輪には、追加メンバーとして急きょ招集された。メンバーの構成上、守り慣れていた

ライトではなくレフトの守備に就くことになった。心身とも準備できていなかった。

本番直前の練習では肩を痛め、送球に不安が生じた。「いくら言っても言い訳」と振り返るが、重圧がかかる国際大会。百戦錬磨の選手たちが試合前、瞑想めいそうしたまま動かなくなったり、

吐き気を催したりするほどの緊張感だったという。

◆そして「事件」は起きた

北京五輪準決勝の韓国戦後、目頭を押さえるG.G.佐藤さん㊥北京五輪準決勝の韓国戦後、目頭を押さえるG.G.佐藤さん㊥

 

 「とにかく俺のところに飛んでくるな!」。そう念じていた準決勝・韓国戦で

「事件」は起きる。左翼線に転がった打球を後逸。さらには左中間のフライを落球した。

いずれも得点につながり、韓国に敗戦した。

 

 普段は目立つのが好きなのに、緊張や不安から消極的になった。この2失策で翌日の

米国との3位決定戦は出場しないだろうと高をくくっていたら、先発メンバーに名前があった。

慌てていつも以上に「強気でいくぞ」と自分にハッパをかけたが、裏目に出る。

ショートが捕ってもおかしくない浅いフライを無理に捕りに行き、再び落球。

試合も負け、チームはメダルなしに終わった。

「まさに負のスパイラル。気持ちが普通じゃなかった。

普段から『飛んできてほしくない』という消極的な人はそのままでいい。

心のルーティンを変えちゃ駄目。いつも以上のプレーはできないんだから」

 

 今大会前にはダルビッシュ投手が「戦争に行くわけではない。日本に帰れないという

マインドで行ってほしくない」とツイート。今は選手も適度な緊張感が大事だと理解している。

しかし、当時の佐藤さんは準備不足や不安を打ち明けることができなかった。「不安じゃない

選手なんていない。役割分担をきちんとして、まずいと感じたことは言える環境が大事」

国際大会が「勝ってこそ評価される」のは仕方がないとしつつ、必要以上にバッシングを

しない、選手が緊張しない雰囲気づくりを求める。「失敗、チャレンジに優しい、

何があっても守ってくれる、そんな社会をつくるべきだと思う。プレーヤーを鼓舞、

奮い立たせる国、国民であってほしい」

◆野球を続ける中で失敗と向き合えた

 北京五輪当時のショックは大きかった。帰国前、妻に「死にたい」とメールを送った。

「今でも完全に立ち直ってはいない。悔しいし、首にメダルを掛けたいと思うこともある」

 

 それでも、今では失敗談を人前で話せるようになった。立ち直るのに特別なきっかけが

 

あったわけではない。変わらずに接してくれる家族や応援してくれるファンに癒やされたのは

確かだが、野球を続ける中で、失敗と向き合えるようになったことが大きいという。

野球は3打席に1回、安打を打てば好打者と言われる。好打者でも凡打を重ねる。

「何が悪かったのかは、失敗からしか学べない」。

多くの凡打をいかに生かすかが大切だと思うようになった。

 

 あのエラーを今ではこう考えている。

「チーム内で唯一、僕のエラーを許せなかった人間がいる。それは自分自身なんです。

『こんなはずじゃなかった』って。自分への期待は必要だけど、し過ぎは禁物。まずは自分を

許すことが立ち直りの第一歩。許すことさえできれば、何回でもチャレンジできる」

◆「失敗しないのは何もしていないのと同じ」

 引退後、実家の会社で経営に携わる。若い社員を指導する際に野球で得た教訓が生きている。「失敗する環境をつくるようにしている。失敗しないのは何もしていないのと同じ。

そのために裁量権を持たせて任せる。失敗したら、何がいけなかったかを話し合って

課題を見つけていけばいい」今では、エラーをネタにSNSで発信したり、

講演したりするようになった。「勇気をもらえた」と好意的な反応もある。

「死にたいと思ったことすら経験してよかった」と考えるようになった。

「よいことと悪いことは両方降り注ぐ。失敗をどう捉えるか。『失敗だらけの人生』と

落ち込むか、『どう生かそう』とするか。向き合い方次第で過去は変えられるんです」

◆理由を分析、教訓を共有する仕組みを

WBCを前に日本代表へエールを送るG.G.佐藤さん=東京都千代田区で

WBCを前に日本代表へエールを送るG.G.佐藤さん=東京都千代田区で

 

 佐藤さんほど重圧がかかる場面を経験する一般の人はそういないだろう。しかし、

誰しも仕事などで緊張し、失敗してしまうことはある。どのような精神状態で臨み、

失敗にどう向き合えばいいのか。

 「これはけっこう難しい問題なんです」と言うのは、精神科医の和田秀樹さん。

緊張する、不安になる人ほど「成功したい、成長したい」という気持ちが強く、

完璧主義に陥りがち。こういう性格的な部分を直すのは簡単ではない。

「いかに『失敗してもいい』という気持ちを持つことができるか。失敗した後に理由を分析する、同じ失敗を繰り返さないようにする。それでいいと考える習慣をつけるしかない」と話す。

佐藤さんも言うように、自分を責めることは立ち直りにプラスには働かないという。

和田さんは「自責はうつ病の要因の一つでもある。

自分を責めても、残念ながら人はあまり成長しない。真面目な人ほど一人で悩んでいる

ことが多い。話せる友人、家族を持っておくことも大切」と処方箋を紹介する。

 

 会社などの組織では失敗をどのように生かせばいいのか。NPO法人「失敗学会」の

飯野謙次副会長は「失敗した本人が責任を感じて引きずっても周りに悪い影響が残る。

失敗を必要以上に責めず、教訓を共有する仕組みをつくることが大切だ」と指摘する。

一方で、こうしたことも容易ではなさそうだ。「外国人は比較的『教えてもらってないから

自分は悪くない』などと言える。日本は昔から『人のせいにするな』という文化、風土がある。これが徐々に変わっていかなければ難しい」

◆デスクメモ

 WBC期間中にあの節目を迎える。3.11だ。深刻な汚染をもたらした原発事故。

万単位の人々が故郷を追われた。だが政治家や官僚は原発活用に傾く。

あの失敗がなかったかのように。似た事態が起きないかのように。

やはり失敗は向き合ってこそ。現実逃避すれば教訓は得られない。(榊)

 

 

 

伊勢物語-第六十九段 狩の使

  

 

 

(原文)

むかし、男ありけり。

 

その男、伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮さいぐうなりける人の親、

「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、

親の言なりければ、いとねむごろにいたはりけり。

 

朝には狩にいだしたててやり、夕さりはかへりつつ、そこに来させけり。

かくて、ねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。

女もはた、いとあはじとも思へらず。

されど、人目しげければ、え逢はず。

使ざねとある人なれば、遠くも宿さず。

女のねや近くありければ、女、人をしづめて、子ひとつばかりに、男のもとに来たりけり。

男はた、寝られざりければ、外の方を見いだしてふせるに、

月のおぼろなるに、小さき童をさきに立てて人立てり。

 

男いとうれしくて、わが寝る所にて入りて、子一つより丑三つまであるに、

まだ何ごとも語らはぬにかへりにけり。

男いとかなしくて、寝ずなりにけり。

つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、

いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、

女のもとより、詞はなくて、

 

和歌(126)

君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか

 

男、いといたう泣きてよめる、

和歌(127)

かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ

 

とよみてやりて、狩にいでぬ。

野にありけど、心は空にて、今宵だに人しづめて、いととくあはむと思ふに

、国の守、斎宮さいぐうのかみかけたる、狩の使ありと聞きて、

夜ひと夜、酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、

男も人しれず血の涙を流せど、えあはず。

夜やうやう明けなむとするほどに、女がたよりいだす盃のさらに、歌を書きていだしたり。

 

取りて見れば、

和歌(128上)

かち人の渡れど濡れぬえにしあれば

と書きて末はなし。

 

その盃のさらに続松の炭して、歌の末を書きつぐ。

和歌(128下)

またあふ坂の関はこえなむ

 

とて、明くれば尾張の国へこえにけり。

斎宮さいぐうは水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬これたか親王みこの妹。

 

(現代訳)

昔、男がいた。

 

その男が伊勢の国に狩りの使いとして派遣されたとき、その伊勢の斎宮さいぐうである人の親が、

「いつもの使いよりもこの人をよくお世話しなさい」と言い送っていたので、

親の言いつけということで、たいそう心をこめてお世話をした。

朝には、狩りに支度を整え送り出し、夕方に帰ってくると斎宮さいぐう自らの御在所に

来させたのであった。こうして、心を込めてお世話をした。

 

男が泊まってから二日目の夜、男は強く「逢いたい」と言う。

女もまた、絶対にに逢うまいとも思っていない。

しかし、侍女たちの目もあり、逢うことができない。

男は、狩りの正使である人なので、斎宮さいぐうの御在所から遠い所に宿をとっているわけではない。

女の寝所に近くにいたので、女は侍女たちがが寝静まるのを待って、

夜中の十二時前に男のもとにやってきた。

 

男もまた、女のことを考えてか寝付けずに外のほうを見て横になっていたところ、

月がぼんやりと照る時分に、小柄な童を前に立てて人が立っている。

男はたいそう嬉しくて、自分の寝室に女を連れて入って、夜中の十二時前から

夜中の3時前まで共に過ごしたが、何も語り合わないうちに女は帰ってしまった。

男はたいそう悲しくて、寝ないまま夜が明けた。

 

翌朝、女のことが気がかりであったが、自分のほうから女のもとに使を出すわけにも

いかないので、たいそう頼りない気持ちで待っていると、夜が明けてしばしたった頃、

女のもとから手紙に詞はなく、次のような歌があった。

和歌(126)

貴方がいらしたのでしょうか。私が伺ったのでしょうか。はっきりと覚えておりません。

夢なのか現なのか。寝ていたのか覚めていたのか。

 

男はたいそう泣いて次のように詠んだ。

和歌(127)

混乱して真っ暗になった私の心は、よく分からない闇の中に迷っていました。

夢か現かは、今夜いらしてはっきりとお決めてください。

と詠み送って、狩に出た。

 

野を狩りであちこち歩いても、心はうつろで、せめて今夜だけでも周囲が寝静まるのを

待ってなんとしても一刻も早く逢おう思っていたが、伊勢守と斎宮寮頭を兼任している男が、

狩の使が来ていると聞いて一晩酒宴を開いたので、全く逢うことも叶わず、

夜が明ければ尾張の国を目指して出発することになるので、女も男も嘆き悲しんだが、

逢うことはできなかった。

 

夜が次第に明けてくるころ、女の方から送られてきた盃の皿に、歌を書いてよこしてきた。

受け取って見ると、

和歌(128上)

この斎宮寮の入江のように、徒歩で河を渡る人ですら衣の裾が濡れないくらいの、

私と貴方の縁は、結ぶには至らない浅い御縁だったので…

と書いて、歌の上の句だけ書いて、下の句はない。

 

男はその盃の皿に松明たいまつの燃え残った炭で、下の句を続けて書いた。

和歌(128下)

…ここでは諦めますが、また逢坂の関を越えて、お逢いしましょう。

と書いて、夜が明ければ尾張の国へ山を越えて行ったのであった。

 

この斎宮さいぐうは、清和天皇の御代の斎宮さいぐうで、文徳天皇の御娘で、惟喬これたか親王みこの妹である。

  • 斎宮さいぐう

天皇が即位すると占いにより選ばれた伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女。

絶対不可侵の存在であり、当然恋愛なども御法度。

 

   惟喬

 

 

 

 

 

 

これたか親王

 

 

 

 

 

 

みこの妹

 文徳天皇の御女である恬子やすこ内親王。

比較的分かりやすい話であり、この第六十九段は、

「伊勢物語」の名が付いた由来となっているとも。

そういう意味でも第四段、第五段の高子たかいことの物語と並び伊勢物語の中心となる段です。

 

絶対不可侵の存在であり、自らも操を守らなければならない斎宮さいぐうに、業平は、

禁断の恋を抱き、相手もまんざらでも無いが、タイミングが合わず、泣く泣く別れを迎える。

 

共にした夜は、物語を素直に読む限り、二人の間に関係は、なかったようにもとれるが…

 

 

2014年12月7日(日)ジュピター占い師の淡雪さんからのメール

私が望むものを手に入れるチャンスが訪れます。

今までは欲しいものは、なかなか手に入れられないと感じたと思います。

私がもっているものを周囲の人たちがうらやましいと思っていても、

私にとって本当に欲しいものは、別にあって物足りなさを感じる。

そんな状況だったように思います。

私は、自分が持っているものを周囲がうらやましいと思っていたのに、

自分は何も、持っていないと思っているようにも感じます。

それは、私が心から欲しいものを手に入れていないからです。

しかし、これから本当に欲しいものを手に入れるチャンスが訪れます、

私が心から望むものを手に入れられた時、今まで自分が手にしてきた

多くのものにも気付けるでしょう。

 

今は、自分に無いものや人が手にしている幸せに目がいっていますが、

物足りないと感じている思いも消えていきますよ。

そうして、私が心から幸せを感じられるようになるのです。

近づいているチャンスの前に黒い影のようなものが見えているのですが、

私がそのチャンスをつかむためには、課題があるようですね。

 

黒い影のようなものは、私から出ています。

無意識かもしれませんが、私から出ているということは、

私がなくすことができるということです。

まずは、その黒い影が何なのかを知る必要がありますね。

私に近づいているチゃンㇲを見させていただいた時、

反応したタロットカードが3枚あります。(略)

 

 

毎日メールが送られてきましたが、当てはまるところが無かったのが

段々と当てはまるような出来事が・・・。この前日は、魂ラジが来年3月末に終了を発表。

この日も黒い影など感じなかったのが、お風呂掃除をしていたら、

急に胸がモヤモヤしてきたので、この事を言っているの?と勘違いをしていました 汗うさぎパンチ!パンチ!パンチ!