斉藤立「お母さん、早く離婚して」“厳しすぎる父” に思わず本音が ポロッと… | poohta8のブログ

poohta8のブログ

ブログの説明を入力します。

柔道が嫌いだった斉藤立のヤンチャ少年時代

「 母を悩ませた “最強の遺伝子” 」

posted2024/05/16 11:01   Number Web

「お母さん、早く離婚して」“厳しすぎる父”に思わず本音がポロッと…柔道が嫌いだった斉藤立のヤンチャ少年時代「母を悩ませた“最強の遺伝子”」<Number Web> photograph by MATSUO.K/AFLO SPORT

 

3月8日、全日本合宿で22歳の誕生日を祝われた斉藤立。

男子100キロ超級の代表としてパリ五輪に臨む   text by 石井宏美Hiromi Ishii

 

 一流アスリートの親はどう “天才” を育てたのか――NumberWeb特集『アスリート親子論』

では、さまざまな競技で活躍するアスリートの原点に迫った記事を配信中。本稿は、パリ五輪・柔道男子100kg超級の代表に選ばれた斉藤たつる(22歳)のエピソードです。亡き父に誓う、

初の親子二代での金メダル……母・三恵子さんにここまでの歩みを訊いた。

亡き父が羽織った真っ赤なブレザー

「まさかこのタイミングに戻ってくるなんて……ずっと、どこかにいってしまって

いたんですよ。だからこれは、主人からのメッセージなんじゃないかって」

亡き父が身にまとったソウル五輪日本選手団公式の真っ赤なブレザーを眺めながら、

母・三恵子さんはしみじみと語った。

 

 国士舘大学の教え子の手元にあったという形見は、昨年、35年ぶりに斉藤家に帰還した。2015年に他界した父の仏壇がある和室に飾られている。

「天国から見ているぞ」なのか、それとも「まだまだ練習が足りんぞ」というダメ出しなのか――息子がパリ五輪代表に内定したタイミングで手元に戻ってきたことに、

運命を感じずにはいられない。

父・仁さんが着用したソウル五輪日本代表選手団の公式ブレザー。息子の活躍を優しく見守っているようだった父・仁さんが着用したソウル五輪日本代表選手団の公式ブレザー。

息子の活躍を優しく見守っているようだった

 

1988年ソウル五輪の閉会式で旗手を務めた斉藤仁。重量級ながら、俊敏かつ精微な技で世界を制した ©︎JIJI PRESS1988年ソウル五輪の閉会式で旗手を務めた斉藤仁。

重量級ながら、俊敏かつ精微な技で世界を制した ©︎JIJI PRESS

 

 斉藤立の父・仁さんは1984年のロサンゼルス大会、1988年ソウル大会でオリンピック連覇を果たした日本柔道界のレジェンドで、全日本代表監督も務めた。

斉藤はその父が得意とし、幼い頃から叩き込まれた「体落とし」を武器に最重量級で台頭。2021年のグランドスラム・バクー大会でシニアの国際大会初制覇を果たすと、

2022年に全日本選手権で初優勝、同年からは2年連続で世界選手権代表にもなった。

 192cm、165kgという、日本人離れした体格も目を見張るものがある。

 

 その片鱗は少年時代から窺えた。

 

 1989年に現役を退いた仁さんは、その後、日本代表男子の監督を務め、2012年からは

全日本柔道連盟強化委員長として後進の育成に尽力した。母校の国士舘大では2007年から

体育学部の教授を務めており、拠点を東京に置いていた。息子たちを三恵子さんの実家がある

大阪に残して多忙な生活を送る仁さんにとって、唯一のやすらぎだったのが幼い息子たちと

過ごす時間。特に柔道を指導することは大きな生きがいだった。しかし、柔道のことになると

スイッチが入る。三恵子さんは「“鬼の斉藤”と変貌した」と振り返る。

家族旅行での一枚。普段はやさしい父だが、道着を身につけると“鬼”に変わった (写真:三恵子さん提供)家族旅行での一枚。普段はやさしい父だが、道着を身につけると“鬼”に変わった 

(写真:三恵子さん提供)

 

 三恵子さんに「5年間だけ自由にさせてほしい」と伝えると、まずは自宅の和室の畳をすべて柔道用に張り替えた。道場での稽古は稽古、それ以外にも自宅でみっちりと兄弟をしごいた。

ミリ単位で踏み出す足の位置までこだわり、出来るまで何度も何度も反復練習。

ときにはベルトやスリッパが息子たちに飛び交うことも。

「暴言も吐いていたので、これはまずいと、通報されないように家の窓を全部閉めたり

したこともありました(笑)。1つクリアできても、『次はこれをやってみろ』と

教えることがだんだん高度になっていって、そしてさらに2時間、3時間と稽古が続く。

家の前にある電柱を使って打ち込みさせられたこともありました。

一郎も立も怒られては泣き、泣いてはまた主人に怒られて……」

父のあまりの厳しい練習に「その辺にしておいたらどう?」と助け舟を出すが、

今度は「うるさい、黙ってろ」と三恵子さんが怒られ、指導はさらに厳しさを増した。

 

「お父さんはいつ東京に帰るの?」

 

 当時、仁さんの熱血指導に、斉藤は毎日のように「辞めたい」と母に泣きついていたという。

「お父さんはいつ(東京に)帰るの?」

 学校から帰宅後、玄関で仁さんの靴を見つけると、家には上がらず、

逃げるように学校へと戻っていくこともあったほどだった。

 

2005年日本代表合宿にて。現役時代、幾度となく対戦した山下泰裕と ©︎Takuya Sugiyama2005年日本代表合宿にて。現役時代、幾度となく対戦した山下泰裕と ©︎Takuya Sugiyama

 

「だから2人には『お父さんもあんたたちに強くなってもらいたいから一生懸命やってんねんで』『あともうちょっとでお父さんはお仕事で東京に帰るからね』とよく伝えてましたね」

20歳になったばかりの斉藤は当時をこう振り返っている。

「柔道をやらされていたという感覚だったし、正直、柔道が嫌いだった。

中学1年の最初の頃までは『なんでやらんとあかんのや』と感じていた部分もあった」

 

 それを聞いた母は、笑いながらも大きく頷いた。

 

「小学校の頃はとくに嫌で、嫌で本当に仕方なかったと思います。ただ、少しでもそういう

雰囲気を感じると、主人はすぐにそれを察するので。『お前ら、優しいお父さんでいいのか、

それとも厳しいお父さんで強くなりたいのか。オリンピックに出られるような選手にして

もらいたいのか。どっちだ』と詰め寄って。そんなこと言われたら、『強くなりたいです』

っていうしかないですよね(笑)。『お、そうか。じゃあこれでいいんだな』といって、

さらに厳しくしていくというような感じでした」

 

斉藤が小学生だった頃に撮影した家族写真(写真:三恵子さん提供)斉藤が小学生だった頃に撮影した家族写真(写真:三恵子さん提供)

 

 だからこそ、ともに厳しい指導を受けていた兄とは強い絆で結ばれていた。

「悩みを共有できますからね。お父さんからどうしたらうまく逃げ切れるか、よく2人で

話していたんだっていうんですよ。私にもよく『早く離婚して』と言っていました(笑)」

全国大会で優勝した矢先に……

 仁さんからしてみれば愛情があるがゆえの厳しい指導だった。しかし、父の思いを

理解するには幼過ぎた。斉藤にとっても兄にとっても、厳しく指導する父・仁さんの

存在はまさに恐怖でしかなかったのだ。だが、父の厳しい指導は実を結んでいく。

斉藤は小学6年時に優勝した全国少年柔道大会の個人戦6試合ではオール一本勝ち。

早くも将来を期待される逸材と評されるようになった。

 

 斉藤家を思いもよらない悲劇が襲ったのは、そこから数カ月後のことだった。

息子たちの指導により力を入れていこうと思った矢先、仁さんが病に倒れた。

 

 

亡き父との約束から9年…柔道・斉藤立の母が明かす、

思春期の息子を“立派な柔道家”に育て上げるまで

「兄弟ゲンカの仲裁に包丁を持つことも…」

posted2024/05/16 11:02

亡き父との約束から9年…柔道・斉藤立の母が明かす、思春期の息子を“立派な柔道家”に育て上げるまで「兄弟ゲンカの仲裁に包丁を持つことも…」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2022年全日本柔道で初優勝を果たし、母・三恵子さん(右)

との記念撮影で笑顔を見せる斉藤立    text by 石井宏美Hiromi Ishii

 

母のスマートフォンに残る、稽古映像

 

 まさかの事態は、斉藤の全国少年柔道大会制覇から数カ月後に起こった。

2013年、父・仁さんが肝内胆管がんを患っていることが発覚。すでに手術を施すことが

できないほどの状態だった。母・三恵子さんは当時を振り返る。

「息子たちには早い段階で病気のことは伝えていました。『お父さんは絶対に治すから、

お前たちは心配しなくてもいいよ』って。その後、かわいそうだからって2人には

『お父さん、もう治ったから』と伝えていたんですけどね」

 

 日に日に痩せていく仁さんの身体。110kgあった体重は80kgまで激減。それでも仁さんは

時間が許す限り、柔道を教え続けた。自分の命を削るように、息子たちと向き合った。

「ひょっとしたらこれが最後になるかもしれない」

 稽古の様子を映像に残そうと、三恵子さんは携帯電話で夫と息子を撮り続けた。

病と闘いながらも、最後まで柔道家であり続けた父・仁さん(写真は2014年11月全日本男子ジュニア強化合宿)©︎AFLO SPORT病と闘いながらも、最後まで柔道家であり続けた父・仁さん

(写真は2014年11月全日本男子ジュニア強化合宿)©︎AFLO SPORT

 

 たとえ夫がいなくなっても、映像を通して、夫といつでも会えるように。

息子たちが壁にぶち当たったり、何かに悩んだときに、大切なことに気付けるように。

9年が経った今も、その映像は三恵子さんのスマートフォンの中に大切に収められている。

 

当時、三恵子さんは病院と自宅を行き来する目まぐるしい日々を送っていた。

徐々に仁さんの病状が悪化し、「昨日できていたことが今日できなくなっている」ことが

増えていくなか、息子たちを遠征や合宿に行かせるかどうか、何度も躊躇ったという。

だが、「ここで行かせなかったとしても、主人は喜ばない」と三恵子さんは2人を

稽古へと向かわせた。「看護師さんに『覚悟されてください』と言われた日も、主人に

『稽古休ませようか?』と聞いたんです。そしたら息子たちに『稽古、行け』と一言。

結局、それが最後の言葉になってしまいました」

 

 仁さんの意識が次第に薄れゆく中、三恵子さんは仁さんに2人の子どもたちを

「立派な柔道家に育てるから安心して」と強く誓った。その言葉が届いたのか、

仁さんの目からは涙がこぼれていた。

 

 身近な人を亡くすという経験のなかった斉藤からすれば、まだ事態をうまく飲み込めて

いなかったのかもしれない。それでも、父と最後の約束をした。

「私は覚えていないんですけど、耳は最後まで聞こえているよと伝えると、

『絶対オリンピックに出る選手になるから。俺、金メダル獲るから』と約束したみたいで」

 

 2015年1月20日。仁さんは54歳という若さで、静かに息を引き取った。

斉藤が中学1年の冬のことだった。

父・仁さんと写真に収まる斉藤立(当時小6)父・仁さんと写真に収まる斉藤立(当時小6)

“父親役” も担った母の覚悟

 仁さんにかわって父親役も担うことになった三恵子さんが大切にしたのは、

息子たちを甘やかしすぎないことだ。「真似はできても、私は絶対に主人の代わりには

なれない。ただ、『嘘をついてはいけない』とか『弱いものいじめをしてはいけない』とか、

主人が口うるさく言っていたことは同じように言い聞かせていました。

 

 今はすごく仲がいいのですが、兄と立が半年ぐらい口を利かない時期があって。

私もその時はすごく悩みましたね。お互いライバル心を持っていたので喧嘩も激しかった

です。『いい加減にしないと、警察に電話するよ』と言ってみたり、私も包丁を持って

仲裁に入ったり、そんなことがしょっちゅうありましたね。こんな時主人がいたら、

『おい、お前ら』の一言で終わっていたのにと思うことも何度ありました」

 

2人の息子を育て上げた三恵子さん。フランスの航空会社で客室乗務員として勤務していたこともあり、パリ五輪には特別な思いを抱く2人の息子を育て上げた三恵子さん。フランスの航空会社で客室乗務員として

勤務していたこともあり、パリ五輪には特別な思いを抱く

 

 仁さんが亡くなった後、三恵子さんの目からみても、斉藤の柔道への向き合い方は

明らかに変化していったという。「強くなりたい、そのためにはどうしたらいいのかを

すごく考えるようになりました。朝練もサボらずに行き、最後まで残って稽古するように

なりました。実は立は主人と全中(全国中学校柔道大会)で優勝することも約束していた

らしいんです。その約束が実現できたときに初めて(仁さんの母校でもある)国士舘高校に

行く資格ができるんだと思っていたみたいで。だから、中学時代は “全中制覇” という

目標に邁進していました」

 

 実は、仁さんは斉藤を国士舘中学に進学させることを視野に入れていた。だが、小学生の

頃はすごく甘えん坊で母にべったりで、何かあれば母親を探すような子どもだったことで、

三恵子さんは「立にはまだ早いし、とてもじゃないけど(親元を離れるのは)無理」と判断。

仁さんには内緒で国士舘中学柔道部監督の川野成道氏にうまく断りを入れていたのだという。

だからこそ、そんな斉藤が高校では「強い人が多くいる東京でやりたい」と

自ら上京することを決断した時、感慨深いものがあった。

 

お父さんの仁さんは、柔道に関して厳しい人だったから、お母さんに甘えていたんですね びっくり

 

名古屋経済大学高蔵高校で教員を務める兄・一郎さん(中央)と一緒に (写真:三恵子さん提供)名古屋経済大学高蔵高校で教員を務める兄・一郎さん(中央)と一緒に

(写真:三恵子さん提供)

「親子で五輪代表」は柔道界初の快挙

 あれから9年。幼かった息子も、この春には国士舘大学を卒業して社会人となった。

「これからは本当に自分の力でやっていくんだって思うと嬉しいような、寂しいような

気持ちですね。小さい頃はあんなに『お母さん大好き』って言っていたのに、上京して

一度もホームシックになったことがなかったって言うんですよ。

心配していろいろ聞くと、『俺はもう社会人やで。大人やで』という始末です(笑)」

昨年8月にはパリ五輪代表が内定した。

親子で五輪代表となるのは日本柔道界で初の出来事となる。

 

パリ五輪・柔道日本代表内定会見で意気込みを語った斉藤立 ©︎MATSUO.K/AFLO SPORT パリ五輪・柔道日本代表内定会見で意気込みを語った斉藤立 ©︎MATSUO.K/AFLO SPORT

 

 仁さんは怪我と戦う苦悩の日々からも、強靭な精神力で復活し、世界の頂点に立った

日本柔道界のレジェンド。同じ重量超級ゆえに、そんな父とこれまでも何かと比較される

ことも多かった。

 

 父をリスペクトしながらも、息子には自分の道を進んで欲しい。三恵子さんはそう願う。

「もちろん主人が残したものは大きいし、私も尊敬していますが、全く別のものだと

思っていて。主人の生きざまや柔道に対する向き合い方に、立が自分のエッセンスを加えて、“立ブレンド”、自分の道を作って欲しいなと思うんです。

周りの方々からいろいろ言われることもあると思いますが、それすらも飲みこんで、

超越して、進むべき道を進む、それだけを考えてほしいですね。きっと、比べられるのは

主人だって嫌だと思うんですよ。絶対に『立は立だ』と言っているはずです」

仁さんが生きていたらオリンピックの経験者、先輩として聞きたいことも

たくさんあっただろう。「『お父さんがおったら聞きたいこといっぱいあるよね?』って

いったら『それなー』と話していました。今だったら主人が当時言っていたことももっと

理解できると思うんです。『あ、こういうことだったのか』って。だから残念と言えば

残念だけど、主人がいなかったからこそ成長できたのかもしれません」

 

 首を振りながら歩いて畳に上がり、両手を大きく上げて挑んでいく姿は仁さんを

彷彿とさせる。父譲りの柔らかな身のこなしと豪快なスタイルだと、仁さんを知る

人たちから言われることも増えた。

 

リネールに挑む斉藤立 (2024年グランドスラム・アンタルヤ)©︎L'EQUIPE/AFLOリネールに挑む斉藤立 (2024年グランドスラム・アンタルヤ)©︎L'EQUIPE/AFLO

 

「顔自体はあまり似ていると思わないんですが、見る角度によっては私も “うわっ” と

驚くことがあります。手の形や足の形、太もものフォルムが気持ち悪いぐらいそっくり。

あと意外と繊細なところもよく似ているんですよ」

 

 特に仁さんの得意技だった体落としをかけている写真を見比べた時、三恵子さんは

「足の角度がほぼ一緒」と驚いた。「主人にしか見えないと思うときもあるんです」

最近は、その姿がより仁さんと重なって見える。

「やっぱり親子なんですね。遺伝子ってすごいなと」

 柔道界最強のDNAを受け継ぐ22歳。亡き父と、成長を見守ってくれた母、

そして戦友でもある兄に、パリで恩返しを誓う。

 

パリオリンピックでは、斉藤立選手は3位決定戦で負けましたが、頭がボーっとしたのか

プレッシャーがかかったのかは分かりませんが、団体戦でも東京から2回目の銀メダル。

それも相手がフランス。最後の大一番で斉藤選手に決まり負けましたが・・・パンチ!パンチ!

 

次回のロスオリンピックでリベンジを。絶対に金メダルをとってほしいです 笑ううさぎ 虹

 

 

斉藤仁さん、石井慧選手育てた熱血指導 

「殺されるかと思った」 

 

柔道の男子95キロ超級で1984年ロサンゼルス、88年ソウルと五輪2連覇を達成した

斉藤仁さんが死去しました。国士舘大学柔道部監督として育てた石井慧選手は、

08年の北京五輪で金メダルを獲得後、総合格闘技の世界で活躍しています。

 

師弟関係だった斉藤仁さん(左)と石井慧選手

師弟関係だった斉藤仁さん(左)と石井慧選手出典: 朝日新聞

 

 柔道の男子95キロ超級で1984年ロサンゼルス、88年ソウルと五輪2連覇を達成した

斉藤仁さんが20日、54歳で死去しました。89年の現役引退後は、2004年アテネ五輪で

日本代表男子の監督を務め、メダルラッシュに貢献しました。

母校の国士舘大学柔道部監督として育てた石井慧選手は、08年の北京五輪で

金メダルを獲得後、総合格闘技の世界で活躍しています。

 

ソウル五輪柔道男子95キロ超級決勝を戦う斉藤仁さん(左)=1988年10月1日

ソウル五輪柔道男子95キロ超級決勝を戦う斉藤仁さん(左)=1988年10月1日出典: 朝日新聞
 

 教え子の石井選手は斉藤さんの指導法について、多くを語っていません。

ただ、「オリンピックのプレッシャーなんて、斉藤先生のプレッシャーに比べたら、

への突っ張りにもなりません。全日本のチャンピオンなので、自分が負けたら日本の負けだと、斉藤先生から耳にたこができるくらい言われていました」と話していました。

 

多分、石井選手のこの言葉、斉藤先生のプレッシャーと言っていますが、本当は

あの長女の力でプレッシャーがかかったんです。それが良い証拠に、パリオリンピックで

男子柔道、阿部一二三選手が同じプレッシャーを感じた (鼻血の時) と思います ムキー パンチ!パンチ!

 

北京五輪柔道男子100キロ超級決勝で投げ技をかける石井慧選手=2008年8月15日

北京五輪柔道男子100キロ超級決勝で投げ技をかける石井慧選手=2008年8月15日出典: 朝日新聞

 史上最年少で制した06年の全日本柔道選手権では、最後に時間稼ぎをして勝った

準決勝の試合後、石井選手は斉藤さんに「あんなのはお前の柔道じゃあないだろう」と

怒られたといい、「殺されるかと思った。出来れば、やり直したい」と振り返っています。

 

パリオリンピック男子柔道56キロ級?相手に首を抑えられ失神した時に、判定負け後に

聴こえてきた言葉「殺されると思った!」あの三女が言わせたんだと思いました プンプン パンチ!パンチ!

 

古式の形を披露する斉藤仁さん(奥)=2011年4月29日

古式の形を披露する斉藤仁さん(奥)=2011年4月29日出典: 朝日新聞

 

 石井選手がプロの総合格闘技に転向した後も、斉藤さんはエールを送り続けました。

2009年12月31日、柔道五輪金メダリスト同士の対決となる吉田秀彦戦でプロデビュー

します。対戦前、斉藤さんに「試合を見にきてほしい」とのメールを送ると、斉藤さんからは「プロの世界は勝ってなんぼ。自信を持って戦え」との返信が届いたと、日刊スポーツは伝えています。石井選手は「ありがとうございます。勝負にこだわります」と返したそうです。

 

吉田秀彦の右フックを顔面に受けた石井慧(左)=2009年12月31日、日刊スポーツ提供

吉田秀彦の右フックを顔面に受けた石井慧(左)=2009年12月31日、日刊スポーツ提供

 
ルール改正に振り回され、なかなか世界で好成績を挙げられない近年の日本柔道。
斉藤さんは体調を崩して昨年末から入院していましたが、全柔連強化委員長として、
日本柔道の再生を願っていました。
 
大学で講演する斉藤仁さん=2014年2月15日

大学で講演する斉藤仁さん=2014年2月15日出典: 朝日新聞

 

 石井選手は20日夕、自身のツイッターで「遠くオランダの地で訃報をきき驚いています。

心よりご冥福をお祈り致します」とつづっています。

遠くオランダの地で訃報をきき驚いています。心よりご冥福をお祈り致します。

— Satoshi Ishii | 石井 慧 (@SatoshiIshii) 2015,1月20

 

 

「斉藤仁」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

 

日本柔道の沽券を保ったソウル五輪柔道無差別級決勝は伝説!「斉藤仁」の散り際とは?
この記事では斉藤仁の晩年と散り際について解説していきます。

「斉藤仁」とは?簡単に説明

ロス五輪、ソウル五輪2大会における95キロ超級の金メダリスト。
特にソウル五輪では初日にロス五輪の金メダリスト「細川伸二」氏が不可解な判定で敗退。
71キロ級では人気実力を兼ね備え、五輪選手団の中でも屈指のスター選手であった

「古賀稔彦」氏が破れ、不穏な空気が漂うなかで金メダルを獲得。
各競技での日本人選手へのブーイングの渦や不可解な判定で燻っていた

日本人の溜飲を下げる特筆すべき活躍を見せました。
「山下泰裕」氏には勝てなかったもの、日本柔道界の沽券を保った活躍は

より評価を受けて然るべきでしょう。
 

「斉藤仁」の晩年

2002年に夫人の実家のある大阪に家を購入。
子供たちの生活を優先して、拠点を大阪に移しました。
日本代表監督を退いても12年には全日本柔道連盟強化委員長に就任。

13年にはジュニア世代の人材の強化育成、そして人材確保のため強化合宿を

スタートさせています。さらには07年より母校である国士舘大学体育学部の教授を

務めるなど多忙な日々は相変わらずのままでした。
それでも13年5月には二男が全国少年柔道大会で優勝するなど、

公私に渡り充実していたのはまちがいありません。
しかし好事魔多し、それから7ヶ月後の12月に肝内胆管癌が発覚。
そして既に末期で手術を施すことができないほど進行していると告知されてしまうのでした。
 

「斉藤仁」の死に様

2015年1月20日2時56分に大阪府東大阪市内の市立総合病院で永眠。54歳没。
死因は13年に発覚した肝内胆管癌の進行による癌性胸膜炎によるものでした。

【補足】

 54歳。あまりにも早すぎる。五輪2大会連続の金メダリストで、引退後は全柔連強化委員長として柔道日本の復権に尽力していた斉藤仁氏が20日未明、生涯を終えた。

「柔道ひと筋で生きてきた人ですから。人生に悔いはないと思います。

最後はおだやかに、苦しむことなく、旅立っていきました」パンチ!パンチ! 星

 東大阪市内の病院で長男・一郎さん(16)、次男・立(たつる)さん(12)とともに、

看取った夫人の三恵子さん(50)が最期の様子を大阪市内の自宅で明かした。

 

 1年前に医師からがんを宣告されていた。昨年11月の講道館杯に姿を見せた際には「やる

ことが山積みだから、やせちゃったよ」と話していたが、年末に体調が悪化、入院していた。
 

「斉藤仁」の死に様の信憑性

重量級の選手でしたから、現役を引退した場合は身体が細く見えてしまうのは

仕方ない事だといえます。しかし14年11月に道場でのトレーニングで

見せた姿には衝撃を受けた方も多いことでしょう。
頬の肉が完全に落ち、喉仏周辺の窪みにも異様な痩せ方を見せていました。
斉藤氏はインフルエンザ、胃潰瘍と話していたようですが、それが嘘なのは一目瞭然。
それもそのはず13年末に110キロあった体重は1年で30キロ落ち、

80キロになってしまったからです。
死の間際まで時間があれば柔道の稽古に参加。
そして息子達に場所を問わず柔道のアドバイスを送っていたと言います。
亡くなる前日にも薄れゆく意識のなか2人の息子を稽古に送り出した事が明かされました。
二男の「斉藤立」氏が20歳にて全日本選手権を制覇。
24年パリ五輪の代表有力選手になっていることから、今後新たな逸話が出てくるものと

考えられます。
実際に22年10月にはスポーツドキュメンタリーの老舗『情熱大陸』で前述した件も

取り上げられました。
 

まとめ

2015年1月20日2時56分に東大阪市立総合病院で逝去。54歳没。
死因は13年に発覚した肝内胆管癌の進行に伴う癌性胸膜炎によるものでした。
斉藤氏の闘病生活は17年に『結婚したら人生劇変!〇〇の妻たち』

22年に『情熱大陸』で少し語られています。
二男の立氏がパリ五輪代表の有力選手でもあるだけに今後散り際について

新たな情報が語られる可能性は高いといえるでしょう。

 

斉藤選手の現役時代(五輪)を観ていましたが、指導者になってもいい選手を育て上げて、

息子もオリンピックに出場できるまでに育ち、もう少しでメダルに手が届くまでに・・・。

天国から日本の柔道選手を応援して見守っていて下さい。お願い おばあちゃん 虹

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

伊勢物語絵巻六一段(染河)



むかし、をとこ、筑紫までいきたりけるに、これは、色好むといふすき者と、
すだれのうちなる人のいひけるを、聞きて、
  染河を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ
女、返し、
  名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島浪のぬれぎぬ着るといふなり

(文の現代語訳)
昔、ある男が筑紫までいったところ、これは色好みで評判の風流人だと、簾の中の人が
(うわさをして)言った。男はそれを聞いて、(次のように歌った)
  染河を渡ろうとする人は誰でも、どうして色に染まらないでいることがありましょう
これに女が返して歌うには、
  名前の通りだと言うなら、たはれ島は浮気であるはずだ、
(ところが実際には)波の濡れ衣をきているだけだといいます

(文の解説)
●色好むといふすき者:色好みで評判の風流人、
●染河:筑紫の国の、大宰府近くを流れている河、藍染河ともいう、
●色になる:色に染まる、●名にしおはば:名前の通りなら、
●あだにぞあるべき:浮気であるはずだ、●たはれ島:肥後の国の海中に浮かぶ島の名前、

(絵の解説)
男が往来を歩いているところを、簾の中から女たちが覗いている、

(付記)
染河とかたはれ島とかいった地名を生かして歌の贈答をしたもの。
たはれ島のたはれには風流と言う意味合いがあったようだ。この歌のおかげで、
島の名は有名になり、以後、枕の草紙はじめ、さまざまな文学作品の中で引用される
ようになった。なお、すだれの中から声高に呼びかける女は、遊行婦かもしれない。


いつもありがとうございます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート