人気コラムニストの勝谷誠彦さんですが、2018年11月に3ヶ月間の闘病生活の末に
58歳の若さで死去しております。
この記事では、勝谷誠彦のの経歴や嫁と娘など家族情報に加えて、
死因と言われているお酒エピソードに関してまとめてみました。
勝谷誠彦のプロフィール
名前:勝谷誠彦(かつや まさひこ)
生年月日:1960年12月6日
出身地:兵庫県尼崎市
最終学歴:早稲田大学第一文学部卒業
勝谷誠彦、開業医を営む裕福な家庭に育つ
出典:https://lh3.googleusercontent.com
1960年12月6日に、兵庫県尼崎市に生まれた勝谷誠彦さんですが、
実家は同市で開業医を営む「勝谷医院」でした。
出典:https://manabi-contents.benesse.ne.jp
勝谷さんの父親である勝谷積治さんは大阪医科大学を卒業後、1959年に31歳の
若さで「勝谷医院」を開業するなど、かなり順調に一国一城の主となりました。
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勝谷さんの母親に関しては、元バレリーナの経歴を持っていたうえ、
米女優のオードリー・ヘップバーン似の美女だったらしく、
父・積治さんにとっては自慢の妻だったとか。
勝谷さんの母親は、作家の三島由紀夫さんの大ファンでもあったそうで、その影響により勝谷さんは小学時代から三島さんの著作を読むような文学少年に育っています。
ちなみに、勝谷さんには幼少期に亡くなった兄もいたそうで、
一見幸せそうに見える勝谷家でしたが、不幸な歴史もあったようですね。
少年時代の勝谷誠彦さんはかなりの神童だったようで、中学受験を経て
名門・私立灘中学校に進学しております。内部進学した灘高校時代には、生徒会長を務めるほど目立った生徒だった勝谷さんでしたが、勉強の方は英語や数学が
苦手となってしまい、学内でも落ちこぼれの部類だったとか。
そんな状況下でも「勝谷医院」の跡取り息子として、両親から医学部進学が
求められていた勝谷さんは、神戸大学医学部や日本医科大学などを受験したものの
すべて不合格となってしまいました。とはいえ、灘高校の落ちこぼれでも
世間では秀才の部類ではあった勝谷さんは、1浪後には慶応大学法学部や
早稲田大学第一文学部などに合格し、早稲田大学に進学しています。
勝谷誠彦、実家の「勝谷医院」は弟の勝谷友宏さんが
跡を継いでいた
出典:http://www.cgt.med.osaka-u.ac.jp
勝谷誠彦さんが医学部進学を断念したため、実家の「勝谷医院」は、
和歌山県立医科大学に進学をした弟・勝谷友宏さんが継ぐことになりました。
友宏さんは、和歌山県立医科大学を卒業後は大阪大学医学部の大学院に進学をし、
研究者の道を志しております。
現在では「大阪大学大学院 医学系研究科 臨床遺伝子治療学 特任准教授」の
肩書も持っている友宏さんは、2009年頃に「勝谷医院」の院長に就任しました。
勝谷誠彦、早稲田大学在学に編集プロダクションを起業
ー中略ー
そんな勝谷さんを経済苦から救うこととなったのが、大学在学中に
三尋狂人名義で始めた風俗ライターの仕事となります。
筆が早かった勝谷さんは、風俗ルポ関連の仕事を大量にこなすことが出来た結果、
大企業の管理職並の月給を稼ぐことが出来たそうですね。勢いに乗り、学生の身で
ありながら編集プロダクション「ブレーメン・ファイブ」を設立した勝谷さんは、
リクルートや女性誌などから記事執筆の依頼が来るほどの評判を集めました。
「ブレーメン・ファイブ」は、最盛期には数人の学生ライターを雇うほどの成功を
収めていたと言われております。
勝谷誠彦、早稲田大学卒業後に文藝春秋に就職
早稲田大学を卒業後の勝谷誠彦さんですが、電通に就職したもののすぐに退職し、
文藝春秋に再就職しております。
学生起業家として成功を収めていた勝谷さんが一般就職の道を選んだ理由については、とある企業スキャンダルを掴んだ際に脅しを受け、「ブレーメン・ファイブ」
での活動の限界を感じたためでした。
そこでひとつ大きな企業のスキャンダルをつかんでゲラの状態まで
いってたのを、その出版社が売りやがったんだよね、広告と引き換えに。こっちは子どもだったから、大人の世界ってえげつないなーと思った。
そしたらもう、家のドアに靴跡がべったりついてたり、郵便受けに汚いものが入れられてたり、脅しみたいなことがあって……やばい、これは
殺されるって、一度だけ売り込みに行ったことのある文藝春秋に駆け込んだの。そしたらかくまってくれて、そのスキャンダルも記事になった。
文春すげーなって思いましたね。
引用:なぜ戦う、なぜ生きる
ちなみに、「ブレーメン・ファイブ」解散のための残務整理は、
勝谷さんが文藝春秋に入社した後まで続いたそうですね。
勝谷誠彦、「マルコポーロ事件」で文藝春秋を
退社しコラムニストの道へ
文藝春秋に入社後の勝谷誠彦さんは、「週刊文春」や「文藝春秋」といった看板雑誌に記者として携わっております。「週刊文春」に配属されていた時代の勝谷さんは、「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」も担当しており、編集長だった花田紀凱さんの許可を取り、加害少年たちの実名報道に踏み切った社会派記者でもありました。
記者として順調にキャリアを積んでいた勝谷さんでしたが、ビジュアル誌「マルコ
ポーロ」に移動した1995年2月に「マルコポーロ事件」が起こったことが、
人生を変えるきっかけとなってしまいました。
マルコポーロ事件とは、1995年2月に日本の文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて同誌を自主廃刊
したこと、及び当時の社長や編集長が辞任解任された事態を指す。
引用:マルコポーロ事件
【補足】
リミットを外された=神戸少年A、女子高校生コンクリート事件など
頭に虫でもわいてるんと違うか?(刑事の言葉)=コンクリート事件
取り調べ中、少年Aに刑事に「人殺しはしたらいけない」と言われた後、
手にただれた跡があり、それを見て言った。
被害女性の顔に硫酸を素手でかけたので、手がやけどになったのを刑事が見た。
だから目と鼻、口が分からなかった。親が見ても分からないほどだった。
脳が1/2に縮んでいたのは、硫酸とあの姉妹の技術とパワーでなった
あの少年たち、被害者の目に性器を突っ込んだ!
ドラム缶の中は、コンクリートで固められていたから、被害者は旅行バックに
入れられていたので司法解剖ができた。
出典:https://encrypted-tbn0.gstatic.com
「マルコポーロ」の編集長を務めていた花田紀凱さんが、騒動の責任を取り退職に
追い込まれたことに反発をした勝谷さんは、自身も文藝春秋に辞表を提出しました。
「あれで花田さんが辞めて、僕は辞める必要なかったんだけど、
あの人をクビにするような、追い込んで辞めさすような会社は
クズだと思ったから自分も喜んで退職しましたよ。
引用:なぜ戦う、なぜ生きる
文藝春秋退社後は、コラムニストの肩書でタレント活動もするようになった勝谷さんは、「たかじんのそこまで言って委員会」や「ビートたけしのTVタックル」といった政治討論番組などでお馴染みのコメンテーターとなりました。
2017年には、兵庫県知事選に立候補したものの落選をするなど、晩年はやや不遇
だった感もある勝谷さんでしたが、太く短い人生を生きた人物だったと言えます。
勝谷誠彦の家族情報~離婚した元嫁・森谷明子との間に
子供もいた
勝谷誠彦、作家・森谷明子と結婚し子供も誕生していた
実家話は、良く口にしていたものの、自身の家庭の話には長年口を閉ざしてきた
勝谷誠彦さんでしたが、2007年より開始していた有料メールマガジン
「勝谷誠彦の××な日々。」にて、自身の結婚歴を語ったこともありました。
それによると、勝谷さんは早稲田大学第一文学部の同級生だった、ミステリー作家の森谷明子さんと結婚をしていた時期があり、子供も生まれていたとか。
2人が結婚をしたのは、勝谷さんが文藝春秋に勤めていた記者時代であり、
結婚後も仕事第一だった勝谷さんが張り込みに出かけたきり帰宅しない日々が
続いたことが、離婚の原因となってしまったと言われております。
森谷さんが作家としてデビューをしたのは、2003年に「第13回鮎川哲也賞」を
受賞したことがきっかけだったため、離婚後の森谷さんは司書として働きながら
子供たちを育てていたようですね。
勝谷誠彦、子供(長女)は京都大学卒業の才女だった
勝谷誠彦さんの子供に関しては、「勝谷誠彦の××な日々。」にて長女の話題に
触れた際の「上の娘」という表現を踏まえる限り、森谷明子さんとの間に
2人以上の子供が生まれていることは確実なようです。勝谷さんの長女は香子さん
という女性のようで、京都大学に進学するほどの才女に育っています。
勝谷さんが「勝谷誠彦の××な日々。」にて、突然家族話をし始めた理由については、自慢の長女の話を読者に聞いて欲しかったからという可能性が高いと言えますね。
勝谷誠彦に内縁の妻が発覚~2017年に甲賀瑞穂と
事実婚していた
勝谷誠彦、2017年7月にタレント・甲賀瑞穂との事実婚が
発覚
勝谷誠彦さんは2017年7月5日、タレントの甲賀瑞穂さんと事実婚状態であった
ことが明らかとなっています。
甲賀さんは、若かりし頃はファッション雑誌「ViVi」の専属モデルだった他、
2001年に情報バラエティ番組「トゥナイト2」のコーナーに勝谷さんの
アシスタントとして出演していた過去もあります。
もっとも、出演半年で妊娠が発覚した甲賀さんは、すぐに「トゥナイト2」を降板してしまいましたが、勝谷さんとはその頃から友人関係にあったと言われております。
そんな甲賀さんと勝谷さんの事実婚が発覚した理由は、週刊誌などのスクープでは
なく、甲賀さんが自身のブログにて読者に向けてカミングアウトしたことがきっかけでした。2014年から夫と別居中だった甲賀さんの離婚が2017年1月に成立したことに加えて、2017年7月2日に勝谷さんが出馬していた兵庫県知事選が終了した事が、2人の間で事実婚をカミングアウトするケジメのタイミングとなったようですね。
隠してはないけど
わざわざ自ら言わなくても良いと思っていたのですが
何かの時に、発覚してから言い訳みたいにしたくないので
公表させて頂きますね
私、甲賀瑞穂は
コラムニストでもある
勝谷誠彦氏と
パートナー関係にあります
引用:私のパートナーです
ちなみに、甲賀さんは前夫との間に2人の子供がいたため、子供たちが成人する
までの間、勝谷さんとは同居をしない方針でもありました。
甲賀さんの2人の息子に関しては、2018年時点で長男が高校2年生、次男が中学3年生という年齢だったため、勝谷さんと甲賀さんの同居生活は、実現するにしても
かなり先の話だったということになります。
勝谷誠彦が2018年11月に病気で死去~死因はアルコールによる肝不全
勝谷誠彦、2018年11月28日に57歳の若さで死去
勝谷誠彦さんは、2018年11月28日に57歳の若さで肝不全のため病死しております。
テレビ番組のコメンテーターなどで活動したコラムニストの勝谷誠彦
(かつや・まさひこ)さんが28日、肝不全のため死去した。57歳だった。通夜は28日午後7時、葬儀は29日午後1時から兵庫県尼崎市西長洲町
3の7の7の阪神平安祭典会館1階式場で。喪主は弟友宏さん。
元々勝谷さんは、2018年8月頃に右脇腹に激痛が走り、病院で診断を受けた結果「劇症肝炎」であることが発覚し、集中治療室へ即日入院の憂き目となっていました。
勝谷さんは8月21日に自身のメールマガジンで、「まえ屈みだと、右脇腹に激痛が走る」などと明かし、緊急入院。翌日には公式サイトでスタッフが、勝谷さんが集中治療室に入っていることを明かしたほか、その後の
一部報道では勝谷さんが劇症肝炎を患っているとの報道があった。
いわゆる、肝不全症状に見舞われる劇症肝炎。わが国の患者数は年間
約400人と推定され、これは急性肝炎患者の約1%にすぎない稀少例だ。
1カ月後の生存率は50%の重症。
緊急入院後は容態が持ち直し、2018年10月1日から「勝谷誠彦の××な日々。」の
配信を再開していた勝谷さんは、同月の10日には病院から退院するなど、
一時期は病も回復傾向にありました。しかしながら、同年の10月下旬になると勝谷
さんの体調は再度悪化してしまい、以降は回復に向かうこともなかったようですね。
ただ、10月31日には公式ブログに、「勝谷の体調悪化にともない、
11月からは新体制のもと、新しい内容にてメールをお送りします」と、
メルマガの内容が変更されるとのメッセージが掲載され、その4週間後と
なる11月28日に、勝谷さんは帰らぬ人となった。
勝谷誠彦は重度のアルコール依存症だった
内縁の妻を残して、57歳の若さでこの世から去ってしまった勝谷誠彦さんですが、「劇症肝炎」を患ってしまったそもそもの原因はアルコールとなります。
15歳の頃からお酒を飲み始めたという勝谷さんは、休肝日を作ることもなく、
毎日お酒を飲み続けるタイプの酒豪でした。そのため、文藝春秋の記者時代に
既にアルコール中毒状態になっていた勝谷さんは、1990年代中盤頃には、
お酒を飲むと幻覚が見えるという症状が出ていた時期もあったそうですね。
勝谷:いや、会社には夕方にしか行かないから。で、朝にまず飲んで、
もう一回寝ていると、バスの「ピンポン、ピンポン」っていう音が
聞こえてくるんですよ。それから、突然お巡りさんが自分を逮捕しに
くるっていう幻覚も見えてくる。
中川:それって左翼が「公安がオレを見張ってる」って
言い始めるみたいなことですか?
勝谷:そういうのと同じなんだけど、僕の場合は殺人罪で
(警察が逮捕をしに)くるんだよなあ。これは最悪でしたね。ただ、
アルコールの量からいうと、そこまで飲んでいたわけでもなかったので、いろんな精神的な状況のせいだと思うねえ。
2019年頃に、急に人の声が聞こえて来て、それも男女数人。
そして、鬱でもなく精神状態が悪く、幻覚や幻聴が聴こえてきました
心療内科で診てもらいましたが、2クリニックとも、病名を教えてくれませんでした。
あの三女があの子の体調不良を持って来ていたの分かりました
出典:https://utsucheck.cocooru.com
2015年頃にうつ病を発症していたこともある勝谷さんですが、今から考えると
アルコールが起因だった可能性が高く、その時点で禁酒などの措置を取っていれば、また運命も変わっていたのかもしませんね。
勝谷誠彦について総まとめすると…
・勝谷誠彦は離婚時期は不明だが、過去に早稲田大学第一文学部の同級生だった
作家の森谷明子さんと結婚していた。
・勝谷誠彦には子供は2人以上いると推測され、長女は京都大学卒の才女である。
・勝谷誠彦は2017年7月、タレントの甲賀瑞穂と事実婚状態にあることが発覚した。
・勝谷誠彦は2018年11月28日、57歳の若さで死去。
死因はアルコールが原因の肝不全だった。
2018年11月に57歳の若さで亡くなってしまった勝谷誠彦さんですが、
甲賀瑞穂さんとは最後まで恋人関係が続いていたようですね。
甲賀さんは立派な息子が2人いる身の上ですので、勝谷さんも自分が死んだ後の
ことを心配をする必要もなかったのでしょうが、正式な結婚を果たせなかった
心残りなどはあったものと思われます。
勝谷さんのご冥福を祈りながら、この記事のまとめを終了させて頂きます。
勝谷誠彦さんの盟友が語る、壮絶なアルコール依存との闘い
2019.01.17 11:00 女性セブン
情報番組の辛口コメンテーターとして活躍していたコラムニストの勝谷誠彦さん
(享年57)の訃報が報じられたのは昨年11月28日。死因は、急性肝不全だった。
しかし、「死の魔の手は3年以上前から忍び寄っていた」と言うのは、勝谷さんの20年来の盟友で出版社『世論社』の代表・高橋茂さん。高橋さんは、勝谷さんの死後、彼がアルコール依存症に陥っていたことをウェブメディア『JBpress』に寄稿している。「勝谷が命を絶たれた原因は、長年の飲酒によるものです。2015年3月に
情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)を降板。編成の切り替え時期でもあり、
1か月ほど仕事がまったくない状態になりました。その頃うつを発症。
次第に酒量が増え始め、昼間から飲むようになりました」(高橋さん・以下同)
勝谷さんは真面目でストイックな人だった。文筆業で締め切りを一度も破った
こともなければ、取材やテレビ出演で約束の時間に遅れたことなどもない。
しかし、心のどこかで孤独を抱えていたようで、電話で高橋さんを呼び出し、
不安を訴えることも多かったという。
「彼は離婚をしているのですが、その時、『おれさぁ、離婚した時も多分、
うつだったと思う。なんだか全部、嫌になっちゃって』と話していました。
そのうえ、ぼくが知り合う前にアルコール依存症が原因で母親を亡くしている。
彼は母親が大好きだったので、その時も相当なショックを受けたのでしょう。
さらに、心の拠り所だった父親も2015年2月に病気で倒れ、1年ほど意識が戻らない
まま帰らぬ人に。そのあたりから余計に酒に走るようになったのです」
冗談か本当かは不明だが、勝谷さんはよく、周囲に『おれは中学生の頃から
飲んでいたよ』と話していたという。
「40年以上、まったく休肝日なしで飲んでいたのも、彼にとっては自慢でした。でも、仕事がある時は、『この後、原稿書かなきゃいけないから、酒飲むのやめとく』と言って、プロだなあと感心していたのですが…」
◆肝臓は5倍以上に膨れ上がり、腎臓が機能しない状態に
仕事の変化、親の病気、自身のうつも重なり、勝谷さんは昼間から酒を飲む
ようになっていく。
期間は忘れましたが桑名正博さんも、長期的に高額な治療費が掛かった・・・
あの子がよく「全部、嫌になった」と言っているのを聞いていました。
そして、あの母親、若い時、ご飯も作らずに昼間からお酒を呑んでいたと
2018年入院中の勝谷さん。体調回復を待ちつつ、メルマガの執筆を行っていた
「2015年にうつを発症した時には、抗うつ剤を酒で流し込み、2017年の
兵庫県知事選挙落選後は、仕事のない日は昼から飲むようになりました」
そして、異変が訪れた。
「この頃から認知症のような症状が表れ始め、特に酒が入ると自分がいる場所や状況がわからなくなる。昔のことはよく覚えているのに、さっきあったことが思い出せない。地方の講演に行く時も、マネジャーが飛行機のチケットを渡して、待ち合わせの時間を告げてもすぐに忘れて、『おれはどうしたらいいんだ?』と電話やメールがくる。10回くらい同じことを言わないと飛行機にも乗れない状況だったそうです」
もともとスリムな体形ではあったが、2018年に入ると、さらにやせ細っていった。食事はほとんどとらず酒ばかりをあおる日々。口にするのは居酒屋でひじきか
れんこんのきんぴら、少量のご飯のみだった。
深刻な状態であると、周りが判断したのはその年の8月10日。軽井沢(長野県)に
ある勝谷さんの自宅で配信されたネット番組『血気酒会』。
異常なほどの顔色の悪さが話題となったのだ。
「黄疸がひどく、やせているのに腹だけ出ている。周囲は『栄養失調じゃないか』とはじめは笑っていましたが、尋常ではないと思い直し、病院に行くことを勧めました」勝谷さんの出身地・兵庫県尼崎市にある実家は病院で、弟が医師として勤めて
いる。大阪での用事を済ませた勝谷さんを弟が診断した。
その結果、同月21日に都内の大きな病院を訪れることになった。
「病院では『重症アルコール性肝炎』で、『劇症肝炎』と診断され、そのままICUに入って緊急入院。検査をするのが1日でも遅れていたら、救急車で搬送され、
最悪、そこで絶命していたかもしれません」
手が施せるような状態ではなく、肝臓医療の国内最高峰、慶應病院に転院。
膨れた腹は肝臓の腫れによるもので、通常の5倍以上になり、他の臓器を圧迫。
腎臓も半分以上、機能していなかった。
「がんやそのほかの合併症は見つからず、アルコールを断ち、肝臓の機能が元に戻れば退院もできる。最初は意識ももうろうとしていましたが、酒を断ち、次第に意識が戻ってきた9月5日からは、毎朝病室からメールで日記を配信するようになりました」
多少、認知症のような症状はあったものの、次第に自力で歩けるまでに回復し、
10月9日には晴れて退院した。が、すぐに飲酒を始めてしまった。
私も経験したので分かりますが、あの三女が脳の中枢神経を触ってくるので、
記憶障害になったと思います。肝臓も腫れもあの姉妹にされたと思います
2018年10月、退院後のネット番組『血気酒会』では足元がおぼつかない状態だった
「10月16日の復帰記念のライブ配信では、話ができたものの、配信が終わるとフラフラ。それなのに、『行きつけの飲み屋でいっぱいやろう』と言う始末。『酒はダメだろう』と注意をすると『じゃあ、いい』とマンションにしぶしぶひとりで帰って行きました」
その後、ネットで毎日配信されていた日記も判読不明になり、休載を余儀なくされてしまった。
◆再び入院。病室で隠れて酒を飲んでいた
10月20日に尼崎で講演があり、そのまま弟家族のもとへ。禁酒生活に入ったものの、腹水はたまる一方だった。尼崎中央病院で腹水を抜き、再び慶應病院に入院した。
「この時、家族やぼくたち友人は、肝臓の状態がよくなったら、依存症治療の施設に入所させようと話し合っていました。しかし、本人はまだ自分を依存症とは認めていなくて…」
肝臓の数値がよくなり、退院の兆しが見えてからしばらくして、病院での飲酒が発覚した。隠れて外のコンビニに行き、ウイスキーなどを買い込み、病室で飲んでいたところを看護師に見つかったのだ。
「これには私たちも大きなショックを受けました。病院でもさじを投げられるような状態で、実家の病院へ。依存症治療施設への入所を検討していましたが、その矢先、状態は急変。28日午後1時48分に息を引き取りました」
生死をさまようになっても酒をやめることができなかった勝谷さん。高橋さんをはじめ、周囲は今もなお「なんとかできなかったか」と、悔やむ日々を送っている。
※女性セブン2019年1月31日号
勝谷誠彦氏 28日未明に死去 57歳 公式サイトが発表
[ 2018年11月28日 08:04 ] スポニチ
コラムニストや写真家として活躍した勝谷誠彦(かつや・まさひこ)氏が
28日午前1時48分、肝不全のため生まれ故郷の兵庫県尼崎市内の病院で死去した。
57歳だった。同日、公式サイトで発表された。
公式サイトには「勝谷誠彦は11月28日に死去いたしました 勝谷誠彦は、
2018年11月28日午前1時48分、生まれ故郷の尼崎で57歳の生涯を閉じました。
生前、応援していただきました皆様、お世話になった皆様に厚く御礼を
申し上げます。どうもありがとうございました。」と記された。
勝谷氏は8月21日、毎朝メール配信する有料配信コラム「勝谷誠彦の××な日々。」で「腹痛と膨満感で、3分ほども座ってられない」「まえ屈みだと、右脇腹に激痛が走る」などとつづり、緊急入院。アルコール性の劇症肝炎と診断された。
その後、10月9日に退院し、同14日にはパーソナリティーを務めるFM香川
「怒れるおっさんラジオ」(日曜後6・00)に復帰(同13日に収録)。
番組冒頭「恥ずかしながら帰ってまいりました」とあいさつし、当初は黄疸がひどく「横断歩道みんなで渡れば怖くないと言いますが、僕の黄疸(横断)歩道は1人で
三途の川を渡ろうとして、すごく怖かったです」とコメントした。同20日には
退院後、初の公の場となる「尼崎市民医療フォーラム」に参加していた。
勝谷氏は1960年兵庫県尼崎市生まれ。早稲田大学第一文学部在学中に
フリーライターとしての活動を開始。大学卒業後は文芸春秋に入社し、
「週刊文春」の記者を経て、フリー転身後はコラムニスト、写真家として活躍。
読売テレビ「そこまで言って委員会」、日本テレビ「スッキリ!!」など
多数のテレビ、ラジオ番組に出演し、辛口コメンテーターとして人気を集めた。
17年7月には兵庫県知事選に立候補し、落選した。
勝谷誠彦さん、死去2ケ月前の病室からのラストメッセージ
週刊SPA!編集部
11月28日午前1時48分、コラムニストの勝谷誠彦さん(57)が肝不全のため
亡くなった。 テレビのコメンテイターとして活躍したほか、週刊SPA!でも長年、
巻頭コラムを連載していた。
今年8月21日から緊急入院していた勝谷さんだが、実は週刊SPA!10月2日発売号で “病室インタビュー” をさせてもらった。テーマは『新潮45』の休刊について。
外出禁止・絶対安静の状態だったが、とても元気で精力的に語ってくれた。
10月16日には「勝谷誠彦の『血気酒会』~地獄からの生還~」と題する動画をアップしたものの、その後、再入院してかえらぬ人となってしまった。勝谷さんの思い出は多すぎるのだが、追悼に代えて、ここにインタビューを公開する。雑誌文化を
愛してやまなかった勝谷さんのラストメッセージは、「言論には言論を」であった。
病室で妄想に駆られていた
勝谷:はじめに断っておくと、俺は新潮45の問題記事を全部読んだわけじゃない。右脇腹に激痛が走って8月に緊急入院してから集中治療室で生死をさまよっていたんだから。40年間365日、一日も休まずに一定量のアルコールを摂取し続けた結果、がこれ。多臓器不全を起こしてすぐに死んでもおかしくなかったから、病院に運び込まれてすぐに「ご家族の方を呼んでおいてください」ってなったんだから。 肝性脳症といって、肝臓機能の低下による意識障害も起きていたの。カルト教団に監禁されている妄想に駆られて、ベッドの上では暴れまくり。そのせいで拘束具をつけられて2週間以上寝たきりになった。今でも、病室内を歩き回るのも禁止されていて、動き回らないように飼い犬のリードのようなものを最近までつけられていたの。そんな生活で本も持てないほど筋肉が弱ってしまって、ロクに雑誌も読めなくなってしまったんだよ。 でも、新潮45がミスを犯した理由ははっきりしているんだよ。一つは、俺に書かせなかったこと(笑)。新潮45は途中から完全に二構造分解していたんです。だって、とり・みきさんの「プリニウス」や佐伯啓思さんの「反・幸福論」とか、新潮45の連載ものはめちゃめちゃ極上なんですよ。この文芸と報道の温度差が生じていた。 新潮社の編集者は超インテリなもんだから、クソなことをやろうとすると徹底的にクソなことを極めようとするわけ。俺ほどじゃないけど、頭がよすぎるのも考えものだね。クソな特集を完璧に作るために、名前も知らないような書き手を引っ張ってきて、構想どおりの特集を作っちゃったのが「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」なんだよ。
マルコポーロ廃刊事件の裏側
<勝谷氏は文藝春秋の編集者だった1995年、月刊誌『マルコポーロ』の廃刊を経験した。当時の編集長は花田紀凱氏(現『月刊Hanada』編集長)。ホロコーストに関する陰謀史観的な寄稿文を載せ、国際的な批判を浴びたためだ。> 勝谷:俺が経験した「マルコポーロ事件」と今回の新潮45は、突然の廃刊という共通点はあるけど、事情はまったく異なる。新潮45はドメスティックで時事的な反発を受けたけど、マルコポーロは国際的な批判を浴びた。新潮45は検証特集を掲載したけど、マルコはそれさえできなかった。なんで、あんな記事を載せてしまったかというと、年末校了で忙し
かったというのがある。バタバタで、全員が原稿に目を通しているけども、みんな “通したフリ”。発売日に阪神・淡路大震災が起きたから、批判を受けて対応する余裕もなかった。俺は「天下の文春が総括号を作らないのはどういうことだ!?」「廃刊は言論の放棄だ!」と抵抗したんだけど、上層部には聞き入れられなかった。というのも、マルコポーロ事件は “花田一派” の排斥に利用されたという一面もあったの。
文藝春秋内の醜い権力闘争とも密接に関係していた。だから、花田さんは窓際の社内編纂資料室に飛ばされ、俺は取材費も制作費もないような第二文庫部に飛ばされた。このときに悪夢の出会いがあったんだよね。『日本酒の愉しみ』(文春文庫)という本を作ったら、あっという間に全国の有名酒蔵と人脈ができて、ますます酒量が
増えちゃったわけ。
俺なら、抗議にきたLGBTの人の声を全部載せる
<勝谷氏はその後フリーのコラムニストに転身し、テレビや雑誌で活躍。
昨年7月には兵庫県知事選に出馬(64万票も獲得したが、惜しくも落選)。
この際、杉田水脈議員からは「応援メッセージ」をもらったという>
2009年の著書『代案を出せ!』
勝谷:俺はどんなメッセージをもらったのかまったく覚えてないんだけど、杉田水脈の秘書が手紙を届けてくれたらしい。杉田は安倍さんの熱心な応援団員らしいけど、「LGBTは生産性がない」という主張は、保守らしくない。「保守とは教養である」というのが、俺の考え方。保守は単に伝統を重んじるだけじゃない。故・西部邁さんの言葉を借りれば、変わり続ける日本の対処法を伝統のなかから導き出すのが保守主義。その点でいうと、LGBTは世界に誇れる日本の文化とも言えるんです。織田信長と森蘭丸の恋愛的関係しかり、同性愛文化は日本で連綿と受け継がれてきたもの。キリスト教文化じゃないからこそ、排斥されることなくひっそりと育まれてきたんです。 それを「生産性がない」と切り捨てるのは、あまりにも下品。その後に口をつぐんでいるのもみっともない。俺が編集長だったら、「杉田水脈に西部邁の覚悟はあった
のか?」というテーマで一流文化人に書いてもらったでしょう。週刊新潮あたりで、「小川榮太郎の論文も含めて主張が下品すぎる」と切って落とせば、LGBTに関する
議論はいい方向に盛り上がり、これほど大ごとにはならなかったはず。当の新潮45は、新潮社前に抗議活動にやってきたLGBTの人たちを片っ端から取材して、
その主張を全部載せてやる。特集のタイトルは「『杉田問題』私はこう思う」。
これは “花田組” の常套手段ね。なかなかスポットを浴びることのないマイノリティの声を5行ずつでもいいから全部掲載する。小川榮太郎みたいな教養人ぶった人間に
書かせるより、はるかに説得力があるでしょ。
言論には言論を、がマスコミのあるべき姿
勝谷:言論には言論を、がマスコミのあるべき姿。マルコポーロもそうだったけど、言論での事態収拾を図らずに、いつでもできる「廃刊」という収拾策を取って
しまったのは残念で仕方がない。ただ、新潮社に一つだけ提案したいことがある。
新潮45には俺が尊敬してやまない著者があまりに多い。彼らの別媒体への “移籍” を積極的に支援してほしいんです。連載執筆陣の「フリーエージェント宣言」ね。
優れた作品を新潮45と共に葬ってしまったら、言論文化の大いなる損失。
フリーエージェント宣言した著者らが共同記者会見でもしたら、むしろ以前よりも
言論空間が活性化する可能性もある。今から取れる最善策に期待したい。 ===========================
インタビュー当時、絶対安静なのに病室からメルマガ「勝谷誠彦の××な日々。」を配信していた。主治医も驚くほどの回復力を見せており、「10月からは完全復活する。命の危機に瀕しても『廃刊』は頭にない」と語っていた勝谷さん。
スタッフが書いたメルマガの2018年11月28日号は、こんなタイトルだった。
「勝谷誠彦 生まれ育った尼崎にて旅を終える」 <文/週刊SPA!編集部>
勝谷誠彦さん57歳急死、もう聞けない辛口コメント
テレビの辛口コメンテーターとして活躍したコラムニスト、勝谷誠彦(かつや・まさひこ)さんが28日午前1時48分、肝不全のため、兵庫県尼崎市内の病院で亡くなった。57歳。今年8月にアルコール性の劇症肝炎で緊急入院し、10月10日に退院。驚異的な回復で仕事復帰も果たしていた。今月5日のラジオ収録を最後に検査入院したが、回復に向けて治療を続ける最中に体調が急変。弟友宏さん(53)にみとられ、息を引き取った。
回復に向かっている中での急変だった。愛飲家の勝谷さんは8月21日、アルコール性の劇症肝炎で都内の病院に緊急入院。黄疸(おうだん)や腹水の症状があったが、驚異的な回復で10月10日に退院していた。同20日には、尼崎市内で毎年恒例の講演会で、車いす姿で舌鋒(ぜっぽう)鋭い勝谷節をさく裂させた。
退院後は尼崎市内で医院を開業している弟友宏さんの自宅で療養。今月5日には、大阪市内でレギュラーラジオ番組を収録していた。徒歩で移動するなど、体調面に問題はなく、翌6日に都内の病院へ検査入院。回復傾向にあったため、同23日から地元の尼崎市内の病院へ転院した。
容体が急変したのは26日深夜。肝硬変の症状が急激に進み、酸素濃度が低下。27日には緊急集中治療室(ICU)に移されたが、回復しなかった。10年間を共にしてきた担当マネジャーは「まさか死ぬとは思わなかった」と、急死の現実を受け入れられない様子。最後の仕事となった5日のラジオ収録時も勝谷さんから「(体調は)大丈夫だよ」と聞いていたという。
この日、尼崎市内で通夜が行われ、喪主友宏さんは、勝谷さんが「ただ生きるな、よく生きよ」とのモットーをまっとうし「ある意味燃え尽きた」。勝谷さんらしい人生を振り返った。
物おじしない発言は番組のスパイスとなり、日本テレビ系「スッキリ」や、地元の読売テレビ「たかじんのそこまで言って委員会(当時)」カンテレ「胸いっぱいサミット」などに出演。夕方の報道番組でも活躍した。
昨年7月には兵庫県知事選へ出馬。その数カ月前に亡くなった母親は「政治家と宗教家にはなるな」と遺言していたと言いながら、現職の井戸敏三知事と争い、敗れた。友宏さんによると、勝谷さんは「地元尼崎だけは勝った」と、誇らしげに話していたという。
葬儀・告別式は29日午後1時から尼崎市西長洲町3の7の7、阪神平安祭典会館で行われる。喪主は弟友宏(ともひろ)氏。
勝谷誠彦さん、重症アルコール性肝炎で死去
病室でこっそり飲んで見つかったことも
スポーツ報知
勝谷誠彦さんの祭壇(カメラ・石田 順平)
テレビなどで辛口コメンテーターとして活躍したコラムニストの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)さんが28日午前1時48分、肝不全のため、兵庫県尼崎市の病院で亡くなった。57歳だった。週刊誌記者、テレビ朝日系「ビートたけしのTVタックル」や雑誌連載など幅広く活動した。最近は重症のアルコール性肝炎で入退院を繰り返していたという。この日は尼崎市内で通夜が営まれ、報道カメラマンの宮嶋茂樹氏(57)ら約300人が参列。29日に葬儀・告別式が執り行われる。
開業医の弟・友宏さん(53)によると、勝谷さんは入院していた尼崎市内の病院で、2日ほど前から意識レベルが低下。再び意識が戻ることなく息を引き取った。「そろそろ病院を出られるんだ」などと会話をしていた矢先だったという。
勝谷さんは、8月21日に腹痛のため病院で検査を受け、そのまま緊急入院。重症アルコール性肝炎と診断されたという。友宏さんは「(重症―は)致死率30~40%の病気。医者なので最悪の場合はこうなるという予想はしていましたが、本人もここまで悪いとは思っていなかったと思う」と説明した。
意識がない状態が続いたが持ち直し、10月9日に退院。同20日には尼崎市内で開催された医療フォーラムに車いすで出席していた。退院後に配信した動画では、「勝谷は残念ながら消えません。ちょっと肝臓が縮んだり、ひげが生えたり、声が小さくなりましたが、戻ってまいりました」と話していたが、顔は浅黒くむくんだ様子だった。
病に倒れるまで「一日も休んだことがない」(勝谷さん)という大好きなお酒を断つことはできなかった。10月下旬には都内の病院に入院したが、大量の酒を買い込んで一人部屋の病室でこっそり飲んでいるところを見つかったこともあったそうで、ほどなく尼崎市内の病院に転院した。
勝谷さんのメールマガジン「勝谷誠彦の××な日々」を発行する高橋茂氏(58)によると、メルマガの文章が支離滅裂だったりミスが目立つようになったそうで
「内臓疾患があると依存症の施設には入れてもらえないそうで、肝臓が良くなったら…という話はしていたんですが」と無念そうに言葉を絞り出した。
勝谷さんは早大卒業後、文芸春秋に入社。「週刊文春」などで記者として活躍。
96年に退社後もフリーランスとして様々な取材をこなした。
一方で、テレビ朝日系「ビートたけしのTVタックル」、「たかじんのそこまで言って委員会」などテレビ番組に出演。歯に衣着せぬ言動で人気となった。2017年には兵庫県知事選にも立候補したが落選した。
この日夜に営まれた通夜には、約300人が出席。勝谷さんとの別れを惜しんだ。
◆勝谷 誠彦(かつや・まさひこ)1960年12月6日、兵庫県尼崎市生まれ。実家は開業医で、灘中・高から早大第一文学部に進み、卒業後に文芸春秋入社。主に週刊誌を担当し、96年からフリーとして活動。テレビ、ラジオ、雑誌を中心に辛口な社会時評に定評があった。
コラムニストの勝谷誠彦さん死去 57歳、肝不全
医師の弟「好きなことやった」
[ 2018年11月29日 05:30 ] スポニチ
テレビ朝日の「ビートたけしのTVタックル」などで辛口コメンテーターとして
活躍したコラムニストの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)さんが28日午前1時48分、肝不全のため兵庫県尼崎市の病院で死去した。57歳。尼崎市出身。
同日夜、尼崎市の阪神平安祭典会館で通夜が営まれ、田井地直己マネジャー(42)が報道陣に対応し闘病生活などを説明した。「おなかが張る」と漏らし8月21日に都内の病院に入院。10月上旬に退院し、喪主で弟の勝谷友宏(ともひろ)氏(53)の尼崎市の自宅で療養していた。同20日に「尼崎市民医療フォーラム」に車椅子で出席し、20分間の講演。医師でもある友宏氏は「私が食事の管理をした。ウチにあったお酒を全部廃棄した」と話した。だが「重症肝炎(劇症肝炎)なので、1カ月禁酒したぐらいでは…」と言葉を詰まらせた。今月6日に再検査のため都内の病院へ入院。一度友宏氏の家へ戻ったが、26日夜に容体が急変した。最期をみとったのは友宏氏1人だけだった。
勝谷さんは灘高時代、同高史上初めて1年生で生徒会長に就任。NHKなどでも取り上げられた。早大卒業後、文芸春秋に入社。記者として活躍後にフリーとなり、テレビ番組や雑誌で幅広く活動した。2017年の兵庫県知事選に立候補したが落選した。
勝谷さんは「ただ生きるな、良く生きろ」をモットーにしていたという。友宏氏は「面倒見のいい兄でした。変わってて、目立ちたがりだった。人生50年、好きなお酒をしっかり飲んで、好きなことをやって亡くなった。燃え尽きたんでしょう」と無念そうに話した。葬儀・告別式は29日午後1時から同所で営まれる。
◆勝谷 誠彦(かつや・まさひこ)1960年(昭35)12月6日生まれ、兵庫県尼崎市出身。実家は開業医の勝谷医院。進学校の灘中、高校から早大第一文学部に進学した。在学中から風俗関連を専門とするフリーライターとして活動。大学卒業後は文芸春秋に入社し、その後フリーとなった。日本テレビ「スッキリ!!」、TBS「サンデージャポン」などにも出演。趣味は朝日新聞研究、立ち飲みなど。
≪「かっちゃんパパ」ももクロも弔問≫勝谷さんを「かっちゃんパパ」と呼んでいた、アイドルグループももいろクローバーZの玉井詩織(23)、高城れに(25)も弔問。番組共演で知り合い、勝谷さんはももクロのコンサートにも度々足を運んだ。玉井は「今年5月の10周年のライブにも来てくださった。お元気そうだった。成人したら焼き鳥屋さんに飲みに行こうと言ってたのに」と涙を浮かべた。