「田中真紀子」の迷走伝説を記した「外務省極秘資料」を入手! | poohta8のブログ

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2021年02月23日 デイリー新潮

 

 2001年4月26日深夜、この日の最低気温11度。幾分肌寒さを残した夜風に吹かれながら、外務省のある幹部が新しい「主人」を迎えるべく省の正面玄関に立っている。

新世紀が幕を開け、同時にこれまでにないタイプの政治家・小泉純一郎が総理の座に就いた。政界にも新しい風が吹くに違いない。世間の期待は高まっていた。

幹部が待っていたのは、新総理の「生みの母」とも言える人物。

当代きっての人気者で、庶民感覚を持ち合わせたとされる政治改革の切り札。

ワイドショーを中心に、日本中で新しい外務大臣を持て囃(はや)す声が巻き起こっていた。だが、「世間」とは逆に「霞が関」はこの日の夜風の如く冷めていた。

 

 世の期待を一身に集めた改革の旗手である新外相。それはその人物の

本性を知らない部外者の評価に過ぎず、実像を知る霞が関や永田町といった

「インナー」の住人たちは、今回の人事がいかに危険であるかを知っていた。

 

「これから本当に大変ですよ」

新外相を待ち受ける幹部の耳元で、インナーのひとりである記者が囁いた。

実際、この日から9カ月、外務省、そして日本外交は空前絶後の乱気流に

飲み込まれることになる。稀代の破壊女王、田中真紀子によって――。

 

 手元に〈官房勤務雑感〉と題された21ページにわたる「外務省秘密文書」がある。

今回、政府関係者を通じて入手したこの文書の作成者は、01年当時、同省の官房長を務めていた飯村豊。後にフランス大使や日本政府代表(中東地域及び欧州地域関連)などを歴任。インナーでは「真紀子と戦った官僚」として知られる。

「この文書は、『田中真紀子問題』を忘れることなく、教訓として活かすために、

歴代外務次官などの間で受け継がれてきたと聞いています」(外務省関係者)

 

 改めて飯村を直撃すると、

「外務省に記録を残すように言われて文書を作成した記憶はありますが、

内容に関しては昔のことなので、何を書いたかはっきりとは覚えていません」

こう答えたが、そこには先のシーン、つまり飯村その人と記者のやり取りを含め、

当時、田中がいかに外務省を蹂躙したかが生々しく記録されていた。

 

 今から20年前、「外相・田中真紀子」が誕生した。ふた昔も前のことであり、人々の頭から「あの時代」の記憶は消えつつある。しかし、これは決して過去の物語ではない。現在につながる極めて重要な日本政治の問題点を孕(はら)んでいるからだ。

世論受け、人気取り、すなわちポピュリズム。

令和の政界もこの呪縛から逃れられずにもがいているが、

その嚆矢(こうし)でも言うべき存在が田中だった。

 

小泉純一郎

小泉純一郎氏

「一事不再理」って何?

 冒頭で触れた01年4月26日、第87代総理大臣に小泉純一郎が就任する。

永田町の数の論理に従えば、その時「党内主流派」であった平成研究会(旧経世会)の橋本龍太郎が大本命であり、「変人総理」は生まれるべくもなかった。だが派閥

政治に倦(う)む世の中は、「自民党をぶっ壊す」と言い放つ小泉に熱狂する。

そして、彼の人気を支えたのが田中真紀子だった。

 

 ふたりが街頭演説を行うと、どこでも叢雲(むらくも)のような人だかりが

できた。こうして「小泉・田中コンビ」は、玄人筋の予想を裏切り、

世論の後押しを受けて自民党総裁選で勝利する。

「新しい政治」に歓喜する大衆。しかし実は、それは「政治の危機」の

始まりだった。その綻(ほころ)びは組閣の時点で早くも明らかとなる。

小泉を総理の座に押し上げたのは他ならぬ自分である――そんな自負に

取り憑(つ)かれた田中は、重要閣僚のポストを要求。「官房長官をやらせろと

小泉総理側に求めた」( 当時の大手紙政治部デスク )という。

確かに「変人」の名付け親である田中のサポートなく、小泉が総理の座を手に入れることは不可能だった。田中のゴリ押しに抗しきれない小泉。だが、父親である角栄曰く「じゃじゃ馬」の真紀子に、各省庁の調整役である官房長官が務まるはずがない。そこで小泉は “妥協策” として田中に外相の座をあてがう。

 

 その7年前の1994年、田中は科学技術庁長官として初入閣している。

その年のクリスマスのこと。科技庁では、各国の科学技術担当者たちに長官名等で

クリスマスカードを送るのが毎年の慣例となっていた。だが、自分の名前を使った

クリスマスカードが発送されたことに田中は激怒。既に郵便局に渡っていたカードの回収を職員に命じる。

癇癪を起こしたら何をしでかすか分からない危険人物。この時から「変人」は

小泉ではなく田中のほうであることが、インナーでは広く知られるようになる。

だが、世間は違った。

 

「外務省は伏魔殿!」

 歯に衣着せずこう言い切る田中を、主婦層をはじめ世論は圧倒的に支持する。

ワイドショーがそれを煽りに煽る。

運悪く、田中が外相に就任する直前、外務省は「松尾事件」に揺れていた。

要人外国訪問支援室長の松尾克俊が官房機密費を億単位で流用し、競走馬購入や女性への「お手当」に充(あ)てていたことが発覚。ワイン片手に外務官僚が甘い汁を吸っている。世論が沸騰するなか、その「伏魔殿」にじゃじゃ馬が斬り込む形となる。そこにワイドショーが便乗し、一大「真紀子ブーム」が起きたのである。

無論、公金流用という大罪を見逃していた外務省の責任は免れるものではなかった。だが、外務省の仕事は綱紀粛正だけではない。日本外交の舵取りの重責を担う。

田中は前者に関心を持ち、後者に無関心だった。いや、前者にしか興味がなく、

後者に関してはズブのド素人だった。

 

 外務省に乗り込んだ田中は人事に手をつける。

その様子が、先の秘密文書にはこう記されている。

〈 5月初めの連休の谷間の月曜日、私(飯村)は大臣(田中)に面談を求めて

2点申し上げました。ひとつは幹部人事は官邸の了承を得る必要があること。

ふたつ目は、一事不再理の原則に基づいて松尾事件の再処分は考えられないこと、

あるとすれば人事刷新であるとの点を申し上げました 〉

すでに松尾事件に関しては、外務省の幹部たちが減給処分などを受けていた。

しかし、「外務省憎し」の鬼と化し、頭に血がのぼった田中は「自分の手」で

再処分することに固執した。

 文書から続ける。

〈(田中から)「一事不再理についてはどういう意味か」との質問があり、

私の方から字に書いて説明を致しましたが、十分な理解をしていない様子でした。

更に同席していた上村(司)秘書官に辞書を持ってこさせて読んでましたが、

余りピンとこない様子でありました〉

「一事不再理」の意味を解さない組織のトップ……。

この後、田中は我を失い、迷走を極めていく。

〈 上村秘書官に「ブラックリストを持ってらっしゃい」と言って、松尾事件の

処分者リストを手元に取り寄せ、ペンを取って「この人たち、解任よ」と述べつつ、その旨歴代次官、官房長の名前の横に書き込みを始めました。

「退職金なし」との発言もありました 〉

ペン捌(さば)きひとつで次々と官僚たちの「抹殺」を図る田中。

迷走は暴走に変わった。

〈 歴代次官の名前の横に「解任、解任」と書き込んでいるところを見ましたので、

私よりは「大臣、法律に則(のっと)っておやりになる必要があります」と

申し上げると、「うるさいわね」との反応がありました

続けて、「出て行け」と大声で叫ばれた飯村は、官房長という省内のまとめ役で

あり、役所と大臣とのパイプ役でもありながら、以後、前代未聞の大臣室出入り

禁止となる。企業で言えば、社長が総務担当役員の社長室への出入りを

禁じたに等しい暴挙だった。

 

 組織論を専門とする同志社大学教授の太田肇はこう解説する。

「組織の改革は急にできるものではありません。真紀子さんの強引なやり方は

空回りし、結果的に職員との信頼関係を壊すだけになってしまったと思います。

組織のトップに立つ人が、組織の内部の人を敵とみなして上手くいくわけがない。

トップの人間は最終的に組織全体の責任を取る立場にあります。それなのに、

信頼してもいない、ましてや敵視している職員の責任を取ることなどできません」

 だが、人事の囚(とら)われ人となった田中は法律やルールを無視して

「外務省破壊」へとひた走る。その間、肝腎の外交は機能不全に陥る。 

衝撃の指輪事件

 外相就任直後、米国のアーミテージ国務副長官との会談を直前でキャンセル。唯一の同盟国を蔑(ないがし)ろにする、外相としてはあってはならない蛮行だった。

 

 5月、成田空港で北朝鮮の金正男(キムジョンナム)を身柄拘束。

拉致問題を抱える日本にとって、金の身柄を抑えておけば対北政策を有利に展開で

きる。最強の外交カードを手に入れたはずだった。しかし、「パニックになった田中

大臣は、机をバンバンと叩きながら、『大変なことになる。すぐに帰しなさい!』と外務官僚に命じた」(当時の外務省担当記者)

 

 田中によって、外務省ではなく外交が破壊され始めていた。

文書にはその様子も綴られている。

〈 その間、北朝鮮の金正男と思われる人物の出国問題、アーミテージ国務副長官との会見キャンセル問題等矢継ぎ早に田中大臣はトラブルを起こしていきましたが、

基本的な関心は上納問題(機密費問題)へ集中する状況になってきました

〈(田中が)秘書官等を伴い会計課に乗り込んで、(機密費問題の)ファイルを

見せるように要求するとの一幕もありました。また会計課長に秘書官を尾行につけさせたり、或いは連日上村秘書官の自宅に電話をするといったストーカーめいた

行動も見られました

 

 常軌を逸した田中の行動により、ストレスに苛(さいな)まれた

上村が吐血するに至ったのは有名な話である。

「すぐにパニックになる人でした」として、当時、田中の公設第1秘書を

務めていた穂苅英嗣( ほかりひでつぐ )が振り返る。

「日頃から、彼女は全く連絡が取れない人でした。携帯電話に連絡してもまず出ない。急ぎの用件の時は本当に困りました。その年の9月11日、アメリカで同時多発

テロが起きたのは日本時間夜10時のことでしたが、ニュースを観て急いで真紀子さんに電話をしても携帯は繋がらず、自宅の電話にも出ない。ようやく連絡が取れたのは次の日……。また、彼女は記者団にアメリカ国務省の避難先をポロっと漏らして

しまった。深く考えずに条件反射で話してしまったんでしょう。いつものことです」

 

 同年11月、今度はイランの外相との会談に田中は遅刻する。

原因は「指輪」だった。会談直前、田中は上村の後任秘書官である上月(こうづき)豊久とこんな「珍騒動」を起こしている。ふたりのやり取りは外務省の

廊下で繰り広げられたため、複数の関係者が目撃していた。

田中「いやだ。本当に知らないの? ないのよ。(ブレザーの)ポケットに

入れてた指輪がないのよ。あなた、盗ったんじゃないの」

 

 部下を泥棒呼ばわり……。もはや外相としての資質以前に、

田中の人間としての何かが問われる事態だった。

田中「ジェンセン(指輪のブランド名)よ。デンマークにパパ(夫の直紀)と

行った時の思い出の品なのよ。ちょっとデパートに行って買ってきてちょうだい」

上月「どこに行けばいいんですか?」

田中「デパートよ、デパート、早く行ってよ。デパート、7時までやってるんだから。じゃなかったら、(イランの外相との会談に)行かないわよ」

上月「サイズは……」

田中「知らない。わからない。どうぞお出掛けください! 

そんなこと、あーだこーだ言っている間に、早く行ってくればいいじゃない」

 

 支離滅裂、滅茶苦茶、じゃじゃ馬を通り越した単なる駄々っ子。

人気者であることだけを理由に田中を外相に就(つ)けたことの弊害は

明白だった。ポピュリズムが頂点に達し、日本外交は底に沈んだ。しかし小泉は、

「生みの母」であり、「世間受け」する田中を斬ることがなかなかできなかった。

〈ヴィシー派〉の罪

鈴木宗男

鈴木宗男氏

 

 ようやく小泉が決断したのは翌02年1月。田中と、当時の外務次官の野上義二、

そして田中と対立していた衆院議運委員長の鈴木宗男、全員を役職から退かせる

「三方一両損」で決着を図る。小泉が田中更迭に踏み切るまでの9カ月、その代償として、つまり国内向けポピュリズムのツケとして、国際的な〈ジャパンパッシング〉(文書より)が起きていたことを、令和の日本人は決して忘れてはなるまい。

いくら人気者とはいえ、このような「危険人物」を国政の重要場面に携わらせる

リスクを肝に銘じておくべきであろう。その点、当時の外務省の対応は、

教訓として大いに示唆に富む。

 

 文書はこう分析している。

〈 省内では、田中大臣と対峙する体制を維持する必要があるとの考えを持つグループと、彼女との共存を求める融和派に分かれつつあるように見受けられました。

私は、当時からこの融和派の人々をナチスドイツ政権占領下のヴィシー政権に

なぞってヴィシー派と呼んでおりました。特にこのような考え方に沿って積極的に

動いていた局長が2~3名おりましたが、このような考え方の相違が今や省内分裂の

危機を感じさせるところまで来ているとは私自身不覚にも気付きませんでした 〉

「融和」がどんな悲劇を招くかは文書が語る通りだ。とりわけ外務省という

国益に深く関わる舞台で、狼藉大臣を拱手傍観することは罪に等しい。なおナチスの傀儡政権であったヴィシー政府は、ユダヤ人の強制収容所送りなどに「加担」した。

 

 (ひるがえ)って令和の政界はどうか。

 2月2日、総理の菅義偉は記者会見で初めてプロンプター(原稿映写機)を

使用した。支持率低下に歯止めがかからないなか、菅曰く「きちんと情報発信」

するのが目的だった。これにより、手元の原稿に視線を落とすことなく、

カメラ目線で国民にアピールできる。

ワイドショーのコメンテーターたちは、このプロンプター会見を評価した。

これまでより総理の言葉が伝わってきたと。しかし、大事なことは「目線」

ではなく「内容」である。すなわち、会見の「外身」ではなく「中身」。

内実の伴わないパフォーマンス、それをポピュリズムと言う……。

 

 2021年、我々が田中真紀子から「学ぶ」べきことはまだ無限にある。

(敬称略)

週刊新潮 2021年2月18日号掲載

特集「『ポピュリズム』は20年前のこの時から始まった 『外務省秘密文書』入手! 今明かされる『田中真紀子外相』の狼藉」より

 

 

田中真紀子 外相の資質問題、再燃。与野党から交代論

2001/11  イミダス編

 

タナカ・マキコ。小泉内閣外相。衆議院議員(新潟5区)。元科学技術庁長官。
11月2日、与野党は、国会対策協議で、田中真紀子外相の国連総会と主要国(G8)

外相会議への出席を認めないことで合意。国会日程上、補正予算案審議に支障を招くというのが表向きの理由だが、国連総会やG8に外相が欠席するのは、極めて異例。

9月下旬の外遊拒否(田中外相が衛生事情を理由に首相特使としてのパキスタン訪問を拒否)、10月21日のアジア太平洋協力会議(APEC)欠席に続き、小泉内閣の外交

政策決定からの「外相外し」が鮮明化した。11月5日付のワシントン・ポスト紙や

AP通信などの海外メディアも、外相として機能しない田中外相を批判的に報道。


 田中外相と外務省事務方との衝突は、大臣就任以来、数カ月にわたって続いているが、外相の資質を問われるトラブルをまた連発。ひとつは「外務省立てこもり」。

10月29日夜、秋の園遊会に自分の後援会関係者を出席させられなかったとして、

外務省人事課に2時間にわたって立てこもり、女性職員に人事課長の更迭辞令書類の

作成を強要した騒動。もうひとつは、11月1日に起きた「指輪騒動」。

外相の指輪が無くなったとして、秘書官にデパートに買いに行かせ、そのために

イラン外相との会談に30分、遅刻したという騒動。一連の騒動は国会でも

取り上げられ、与野党から「外相交代論」が噴き出している。しかし、

小泉首相は、言動に注意するよう外相をたしなめたものの、外相更迭は否定。


1944年、新潟県出身。田中角栄元首相の長女。夫は田中直紀参議院議員。

早稲田大学卒。早大在学中に、劇団「雲」の研究生となり、女優を志す。

高校時代にアメリカ留学した語学力を生かし、田中首相の外遊に同行。

名ホステスぶりを発揮して脚光を浴びる。ロッキード事件で田中首相が失脚後、

夫と父の選挙運動を支えて、当選させる。93年、衆院選に無所属で立候補し、

トップ当選を果たして、自民党に入党。

94年の村山内閣で科学技術庁長官に。2001年の自民党総裁選で、小泉純一郎候補と

二人三脚で選挙運動を展開し、小泉総裁を誕生させて、小泉内閣の外相に。

父親譲りの毒舌で人気に。

 

科学技術庁長官時代に、田中真紀子さんが「頭がピーマン」と言った発言には、

おもしろくもあり、この人が本当に長官として大丈夫なのかと思っていました びっくりあせる

この言葉は、70年代の流行語だったと調べたら書かれていました 笑ううさぎ パンチ!

 

父・田中角栄が娘に送った人生最高のスピーチ

「父と私」(田中 眞紀子著)の一節より 2017年07月04日

 

父・田中角栄が娘に送った人生最高のスピーチ

         角栄さんにとって眞紀子さんは掌中の珠だった

 

 

 政治家という職業は、後援会でのミニ集会をはじめとして、

国会での質疑応答や街頭演説など公の場でスピーチをする機会が多い。

 “演説力は政治家の命”と言われる所以である。

 私も企業など諸団体の会合や大学での講義など、千人規模のハコもの

(構造物の中でのスピーチを業界用語でこう呼ぶ)をこなしたことも数多くある。
また、選挙応援で宣伝カーの上で両手に持ちきれないほどの数のマイクを

握りしめて、それこそ足を踏ん張って、ズラリと居並ぶマスコミの

カメラの放列の前で不特定多数の聴衆に向かって街頭演説をした経験も多い。

そのほかに冠婚葬祭や各種式典など決まりきった場での急なご指名もこなしてきた。

結婚式で突然父が…

 今振り返ってみるに、生涯忘れられないスピーチがいくつかある。そのなかの

一つに、私の結婚式でこともあろうに突然父が自ら進んで行ったものがある。

 昭和44(1969)年4月。当時、日本鋼管(現JFEホールディングス)社員で

あった新郎鈴木直紀氏は弱冠28歳。官僚の家庭の三男坊としてのんびりと

暮らしていた模様であった。

 お互いの家族は親族が少なかったこともあり、都内のホテルで静かで落ち着いた

雰囲気のなかで神前結婚式を挙げた。引き続き行われた披露宴は、着席形式で

小規模なものを私たちは希望していたのだが、当時の父の社会的な立場もあって

政財官界からの多数の出席者に配慮して立食形式となった。

 時間を有効に使うということは父の人生の重要なモットーの一つであり、

自分の時間はもちろんのこと、他人をむやみに長時間拘束するべきではないと

いうのが持論であった。

 着席形式でお客様が時間を気にしてモジモジしたり、時計をチラチラ見るような

ことになっては申し訳ないという考え方であった。したがって、婚礼といえども

客人同士が自由に交流し、軽い飲食後にはサッと退出できるということに

父は強くこだわっていた。

 そんな大宴会も終わりに近づいた頃、司会者にちょっと手を挙げてから、

突然父がマイクの前にスタスタと歩み出た。いったい何事かとざわめく人々の前で

父は恭しく来賓の方々へ頭を下げてからこう切り出した。
「花嫁の父がスピーチをするなどということは異例であることは充分心得て

おります。しかし、眞紀子の父親としてどうしても直紀君に言っておきたいことが

あります」と述べた。

 “これはいったいなんたること!いったい全体何を言い出すやら……”と、

文金高島田に白無垢、打掛姿の私は大いに動揺した。
 

長男の死と眞紀子の育て方


 「私たち夫婦には正法(まさのり)という長男がおりましたが、仏法の名前負けを

したのか、幼くして肺炎で亡くなりました。眞紀子という名前は訓読みをすると

『まさのり子』となります。年子の兄妹はとても仲良しで、まるで双子のように

して育ちました。正法の死は今も私たち夫婦にとって痛恨の極みであります。

長男の死後は、眞紀子をあえて女の子というよりも、田中家の跡取りとして

男の子のように育ててきました」

 「物事の判断を間違えず、どんな時にも責任を取れる人間として教育をしてきた

つもりです。その点に関してはいささか自信があります。そこで今後、直紀君が

眞紀子に対して料理や掃除など家事一切を普通の女性並みに求めてもらっては

困るのであります。そういう教育はまるでしてありません。君が今後、家事などで

不満がある時には、ウチの妻君やお手伝いさんをいくらでも派遣します」

 この発言に会場はドッとどよめいた。花嫁姿の私は “よりによってこんな時に

何を言い出すやら……。失敬な奴め!” と両手をかたく握りしめた。

ところが続いて父の口からこんな言葉が飛び出した。

 「もう一つだけつけ加えておきます。

それは、この子は誰に似たのか大変口が達者であります」

 この大真面目な断言口調に人々は、遂にゲラゲラと声を出して笑い始めた。
 

「遠慮なく殴ってくれて結構」


 「言わんでいいことをズバリと相手構わず言ってのけます。しかも困ったことに

それが結構的を射ているのであります。しかもさらに続く理屈がこれまた結構

理路整然としているので始末が悪い!かくいう私もかなりひどい目にあっている。

そこで、今後そういうことがあった場合には遠慮なく殴ってくれて結構です」

 ここまで一気に話し終えると父は “ハァ” と一息ついて額の汗をぬぐった。

会場はすでに大爆笑の渦である。チラチラと花嫁たるの反応を観察しながら

抱腹絶倒しているお客様もいる。

 新郎直紀氏のほうをチラリと見ると、困りきった表情で対応不全といった様子で金屏風の前に立ち尽くしていた。困惑しきった生涯の伴侶となる人物と、熱弁をふるう父との間に立った私は“花嫁姿でさえなければ抗議声明の一つでも発表したいくらいだ”と切歯扼腕した。

 「ただし」とさらにつけ加えた。「君は体がでかいから本気でたたかれたらさぞ痛いだろう。殴れとは言ったが、その時は手加減してくれるように頼みます」と言って主人のほうへ向かってお辞儀をしたのである。
 

権力者の姿に会場は万雷の拍手


 世間では権力者と思われていた父のそんな姿に出席者たちは大笑いしながらも、

涙ぐんだりして会場には万雷の拍手が鳴り響いた。

 “こんなに優しい男性がこんなかわいいお嫁さんを殴るなんてあるはずが

ないのに”と勝手に得心しつつも、とにかく“神前ではしっかり角隠しをしておいて

本当に良かったわい”と内心安堵もした。

 ところが次の瞬間、「お転婆娘が今日から私の手を離れると思うと、

こんなうれしいことはあ・り・ま・せ・ん……」と言って父はこともあろうに

絶句したのである。そんな父の姿に会場のどこかから、「ようし、よくわかった!

もういい!角さん、もういいよ!」と声がかかった。

 この温かい笑顔と声援に私は胸が熱くなった。父は深々と礼をして、

スピーチ未完了のまま自席へ戻り白いハンカチーフで目頭と鼻を拭っていた。

この時のスピーチは当時の政財官界でかなり有名な話となった。
 

池田・大平さんたちの記憶


 母と親交の深かった池田・大平元首相の夫人たちは目白に来られるたびに、

「あの時のスピーチを聞いて、田中先生にとって眞紀子ちゃんは掌中の珠。

目の中に入れても痛くないとはあのことね」といつも話題にしておられた。

 日頃は控えめな母が、「あの親子はいつどこで何を言い出すかわからない

ところがそっくりなんです。本当に困ったものです」と応じていた。

 両親亡き後約22年。今や私たち夫婦には孫たちもいる。

この間、主人が私に手をあげたことはただの一度もない。

今ではなんとも懐かしく有難いスピーチであったと父に感謝している。

 

明豊

明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当

 

今年3月に日刊工業新聞社から発売された田中眞紀子さんの著著

「父と私」の中でも特に反響の大きかった結婚式のスピーチの一節です。

娘の視点から等身大の「田中角栄」が描かれている貴重な一冊、

ご関心のある方はぜひ手にとってみて下さい。

 

 

田中角栄さんが、日本と中国の国交正常化を交渉しに行った時に、

同行したのが娘の真紀子さんだったことをTVで観ました。

角栄さんは、危ないので行くことを反対した。お前が息子なら一緒に連れて行くが、頑固な真紀子さんは言うことを聞かなかったので角栄さんは、そんな真紀子さんに

負けて言うことを聞いたと。(私は、そう記憶しています)

 

角栄さんじは、政治家として真紀子さんを育てあげ、父親に似て人を引き付ける

トークは本当に上手でした。小泉さんもそうでしたが・・・。

でも、次第に官僚や周りを振り回すような言葉が目に余ってきました 物申す パンチ!パンチ!

 

そして、時々パニックになって( 指輪事件など )しまうことがありましたが、

官僚も昔のこととはいえ、あまり覚えていないという言い訳はしないでほしい。

でも、覚えていないんじゃなく、忘れさせられているのかもしれませんね ムキー パンチ!パンチ!

 

小泉さんも、郵政民営化だけじゃなく、もっと国民の生活や経済活性化に

力を注いでほしかったです 汗うさぎ おばあちゃん 虹

 

これからの政治家はもっと勉強をして、あまりお金を使わずに経済を立て直して、

いい人材を見つけ育て、良い政治家にして欲しいです。頑張ってほしいです 笑ううさぎ おばあちゃん

 

 

あんまりかわらないので省略します。

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート