2018.04.07(Sat) がめら参上!! より

 

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宮川左近ショー(みやがわさこんしょー)は、昭和期に活躍した

松竹芸能所属の浪曲漫才トリオ。出囃子は『吉良の仁吉』。


宮川左近(四代目)(みやがわ さこん)(、1925年1月20日 - 1986年9月21日)

本名:佐久間 利三。節回し担当。リーダー。北海道函館出身。立ち位置は向かって中央。最初は故郷で本名の名で民謡一座に属し天才少年民謡歌手として売り出される。当時三橋美智也と並ぶ人気を得たという。1938年三代目宮川左近に入門、二代目宮川左近丸を名乗る。同年新潟県湯沢の旭座で初舞台。同年9月に師匠が没した為、

子役座長で地方を巡業するようになる。三代目左近門下には宮川左近坊という同じ

子役浪曲で競い合い嘱望されていた兄弟弟子がいたが、1950年に四代目宮川左近を

襲名。台本も担当。著書には随筆集『浪曲半世紀』があるが、執筆中に健康を害して中断したまま未完に終わった。晩年(1980年代)関西演芸協会副会長。

大阪警察病院で死去。弟子には宮川大助、宮川青丸等がいる。

実子にアコーディオン奏者の富永豊一がいる。

 

笑福亭松鶴師匠が9月5日、肺炎に伴う呼吸不全と心不全のため、入院先の大阪市

天王寺区の大阪警察病院にて死去。68歳没。この日は奇しくも父・5代目松鶴と

長男・5代目枝鶴の誕生日に当たっていた。同じ時期に同じ病院に宮川左近ショー

宮川左近が入院しており。その後左近は、松鶴が過ごした個室に入ったが、その数日後の9月21日に亡くなった。病名は明かされていません。


暁照夫(あかつき てるお)(1937年5月17日 - 2015年5月29日)1937年5月17日 - 2015年5月29日)本名:浜田 登志夫。三味線担当。徳島県出身。立ち位置は向かって右。浪曲師一家に生まれ、1948年に二代目東洋軒雷右衛門に修行に出され、入門翌日に東洋軒雷坊で宇和島の融通座で初舞台。天才少年浪曲師として売り出される。芸者に三味線を教わっていたが、変声期に喉を傷めたため1954年に照雄の名で曲師に転身。東京に出て三門博に付いたり、大阪で河内音頭の鉄砲光三郎と組んで鉄砲節の開発に邁進したりした。ショウ加入後は和夫、一夫と揃えるため照夫に改名。


松島一夫)まつしまかずお)1929年12月25日 - 2013年4月2日)本名:大饗 健一。ギター担当。立ち位置は向かって左。佐賀県唐津市出身。姉婿で盲目の長谷川伸の

世話をしているうちに浪曲に興味を持ち、1945年に二代目京山小円に入門して

京山小さん、1947年に松島一夫と改名。1949年に今治大衆劇場で初座長。

その後も大阪の主要劇場には出演せず、初代京山幸枝若と共に地方巡業をする。

歌謡曲『会津の小鉄』の作詞でも知られる。またキングレコードより

『釜ヶ崎情け節』をリリースしている。弟子には松島ひで夫・ひで丸等がいる。

2013年4月2日、午前2時50分、慢性閉塞性肺疾患のため大阪府内の病院で死去。

享年83。59年宮川左近ショーを4人で結成したが、間もなく1人が脱退し、故宮川

左近さんと暁照夫とのトリオになった。テーマ曲「毎度皆さまおなじみの…」で

始まる軽妙な浪曲ショーで人気を博し、72年には上方漫才大賞を受賞した。
宮川さんの名調子、暁の女形キャラと華やかな三味線とは対照的に、

松島さんは泥臭い芸風。珍妙な表情やだみ声で挟む合いの手で、笑いを誘った。

86年、宮川さんの死去により解散後は、歌手活動などをしていた。

訃報を受けた暁は、「宮川左近ショーとして共に過ごし、兄弟以上の付き合い

だった。一人残され寂しいですが、一緒に活動できて幸せでした」と悼んだ。


高島和夫(たかしま かずお、1907年 - ? )本名:高嶋 和夫。アコーディオン担当。小西二郎の下でピアノを修行し、1928年に姫路劇場で初舞台。結成直後の1年のみ

在籍、脱退後はバンドマンに転向した。妻は浪曲の曲師、実子に『宗右衛門町既に

浪曲師として大看板を張っていた宮川左近だったが、松竹芸能の勝忠男と長谷川幸延が三波春夫の歌謡浪曲やタイヘイトリオの浪漫ショウ路線に刺激を受け、

更にローオンレコードの加藤精一のひと声もあり、歌謡浪曲ショウ転向を決意。

1958年に巡業先で4人で仮結成し、実戦を重ねて翌年神戸松竹座のトリで正式

デビュー。翌年メンバー中最高齢の和夫が去り、更に翌年一夫も脱退して、妻と友人で『大中小』という浪曲漫才を始めたため、ギターの助っ人を呼んでいたが、

一夫は間もなく復帰し、以降、左近・照夫・一夫の三人で固定する。

 「♪毎度 皆様 お馴染みの お聞き下さる 一節は 流れも清き 宮川の 水に漂う 

左近ショウ…」で始まるテーマソングは広く知られて、左近の語る『姿三四郎』

『無法松』『宮本武蔵』『瞼の母』『桃中軒雲右衛門』といった名調子に、

各々ピンでも唸れる上声・胴間声の二人が絶妙の「間」で絡む、バランスと

ノリの良さは子供達にまで真似される人気を誇った。

音楽的評価も高く、憂歌団やCharらとも競演歴がある。


 左近の声・節とともに、照夫の三味線速弾きも絶品で、ひとしきり見事な

爪弾きを聴かせた後、「いやー、なんで私ってこんな巧いんかしら」と頬に

手を当てて女形風に振舞ったり、また左近が節のサワリ(佳境)を唸っている

合間に、一夫がスタンドマイクの前面に出て、珍妙な顔をしながら懸命にギターを

掻き鳴らして邪魔をし、そこから扇子の奪い合い・叩き合いに発展するなど、

細かい定番ギャグでも笑いを取った。


 なんばで暁照夫見たことあったなあ!なつかしかった。

 

 

漫才師の暁照雄さん死去 「宮川左近ショウ」産経新聞 

産経新聞

 

 暁照雄氏(あかつき・てるお、本名・浜田登志夫=はまだ・としお=漫才師)

29日午前4時32分、下咽頭がんのため大阪市内の病院で死去。78歳。

葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は長男で大阪府高槻市長の剛史(たけし)氏。

 

 少年時代から天才浪曲師として知られ、その後三味線の曲師として活躍。

昭和34年、宮川左近さん、松島一夫さんらと浪曲漫才トリオ「宮川左近ショウ」を

結成し、卓越したバチさばきと「もう何でこんなにうまいんやろ…」のギャグで

人気を博した。

 トリオ解散後は、弟子の光夫さんとのコンビで三味線漫才を続け、

平成20年には文化庁芸術祭大賞を受賞した。

 

 

暁トリオお披露目口上 音曲漫才の灯を消したくない

 昭和の上方演芸史で一時代を築いた「宮川左近ショウ」で活躍し、昨年5月に

亡くなった暁照雄さん(享年78)の遺志をくみ、弟子3人で結成した

「暁トリオ」が2日、大阪・道頓堀角座に出演し、お披露目口上を行った。

 

 トリオは、照雄さんと「暁照雄・光雄」を組んでいた暁光雄(53)が、

弟弟子になる暁明夫(42)暁輝晶(あきら)(43)を連れて結成。

「音曲漫才の灯を消したくない」として、再スタートを切った。

 

 口上には、ベテラン漫才コンビ酒井くにお・とおるが「後見人」として同席。コンビは「暁の名前を残して、活動していくことになりました」と、トリオを紹介した。

輝晶は「 “輝” く水 “晶” のように、透き通った芸人に」と誓い、明夫は「( 美形で 

知られた )師匠に似ていると言われるので、ビジュアル部門で」と笑いを誘った。

また、天才少年浪曲師としてデビューし、宮川左近らと音曲漫才に転じた師匠の

照雄さんから浪曲、三味線をしっかりと仕込まれた光雄は「中でも、一番(習得したの)は、おかまのしぐさ。惜しみなく発揮していきたい」。上品な立ち居振る舞いが女性らしく、個性だった師匠の芸風を継ぐと宣言し、爆笑と拍手をさらった。

 

 口上後には、ネタも披露。師匠の照雄さんは天才的な三味線の速弾き、バチさばきを披露した後に「なんで、こんなうまいんやろ」と自画自賛し、笑いを奪う

決めギャグを持っており、トリオは、師匠へのオマージュからのネタも作成。

 

 明夫が音程を外して「高校三年生」を歌い、「なんで、こんなにへたなんやろう」

と言い、客席をわかせていた。

 

 

宮川左近ショーは、幼い時にTVでよく観ていました。

三味線やギターが上手く、歌も凄く面白い3人なのを思い出しました 照れ おばあちゃん 虹 

 

リーダーが亡くなり、数年後?にお弟子さんと組まれていたのをTVで観ていました。

また、そのお弟子さんが弟弟子と組んで音曲漫才を始められているようで、

またTVで観れるのを楽しみにしています。頑張って下さいね 笑ううさぎ 音譜

 

3人が亡くなり淋しいですが、お弟子さんが後を継いでくれて良かったですね。

天国で左近ショーをして、みんなを楽しませていますか?

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

伊勢物語あらすじ

 

六 芥川
むかし男がいた。
とても手に入れられそうにない高嶺の花の女性を
何年もかけて口説き落としてやっとのことで盗み出し
たいそう暗い夜にまぎれて連れて来た。
芥川という川のほとりを連れて行くと
女性は草の上に置いた露を見て
「あれは何かしら」と男に聞いた。
先はまだ遠いし夜も更け
そのうえ雷もひどく鳴り
雨まで激しく降ってきたので
男はまさかそこに鬼がいるとも知らないで
荒れてがらんとした蔵の奥に女性を押し入れ
弓を持ち 矢の筒を背負って戸口に座った。
「早く夜が明けてくれ」と思いながら座っていると
すばやく鬼が女性を一口で食ってしまった。
女性は「いやっ」と悲鳴を上げたが
雷が鳴っていて聞えなかった。
次第に夜が明けてきたので中を見ると
連れて来た女性がいない。
悔しがって地団駄踏んで嘆いてもどうしようもない。

 「あれは真珠 それとも何」と            白玉か
何ぞと人の
 聞かれたときにためらわず                 
問ひしとき
 「はかなく消える露」と答え
                露と答へて
 
消えてしまえばよかったな              消えなましものを

これは二条の后が従姉の女御のところに
お仕えするようなかたちで暮らしていらっしゃったのを
とても美しい方でいらっしゃったので
男が盗んで背負って逃げたことがあった
ところが
后の兄堀河の大臣と長兄国経の大納言が
まだ位も低くたまたま宮中に参内なさるときに
ひどく泣いている人がいるのを聞きつけ
引き止めて后を取り返された
それをこのように鬼にたとえたのだ。
后がまだとても若くて
普通の人でいらっしゃったときのことだという。

 

 

あんまり変わらないので省略します。そして、邪魔をしないで 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート