宝塚のトップスター、シャンソン歌手、ミュージカル女優、映画女優など

ジャンルを問わずスケールの大きなエンターテイナーぶりを見せつけた越路吹雪

 (こしじふぶき)さん。『 愛の讃歌 』『 サントワマミー 』といったシャンソンを

日本の風土に浸透させた第一人者でもありますね。

1980年に56歳の若さで急逝しましたが、まずはその死因に迫ります。

さらに、結婚した夫や父、家族についてもみていきます。

越路吹雪の死因

圧倒的なパフォーマンスと歌唱力で人々を魅了したシャンソン歌手・越路吹雪さん。

1924年2月18日に当時の東京府東京市麹町区、現在(2023)の東京都千代田区麹町に

誕生しました。大正13年生まれです。

 

本名は内藤美保子さん。

子供の頃から歌が好きで、ラジオから流れる曲をよく歌っていたそうです。

宝塚時代は喫煙したり、門限破りをしたりする異端児。

やんちゃで自由奔放なところがあったのでしょう。

 

 

一方では面倒見がよく、多くの人に慕われていたそうです。

退団後は、ミュージカルで活躍するかたわら、歌手としてシャンソンをカヴァー

するように。作詞家であり、翻訳家であり、マネージャーでもあった

岩谷時子さんとタッグを組んで多くの名曲を日本に紹介しました。

 

度胸の据わった姉御肌のように見えますが、ステージに臨む際は極度の緊張から、

観客は猫、あなたは虎と岩谷時子さんに暗示をかけてもらっていた話は有名です。

また、「あなたの燃える手で」と始まる『 愛の讃歌 』は、すでに数えきれないほど

歌唱しているにもかかわらず、歌うたびに心を砕いていたのだそう。

稽古場で、愛する人の手とはどういうものかを想像しながら、自分の手を見つめて「あなたの燃える手で」「あなたの燃える手で」とつぶやく越路吹雪さん。

何千回歌いこんでいても満足することなく、この詞はどういうイメージなのか、

それをどう表現するかを突き詰めていたのでしょう。


1980年3月、ライフワークだった日生劇場のリサイタル閉幕後、

『 古風なコメディ 』の福岡・東京公演を行った越路吹雪さん。

 

すでに胃に不調を抱えており、西武劇場での公演終了後に緊急入院。

重度の胃潰瘍とされ、7月に胃の大部分を切除する手術を受けました。

その後は入退院を3回繰り返し、11月7日に56歳で急逝しています。

後日、本当の死因は腹膜まで転移した末期の胃がんとの発表があり、

本人には告知していなかったことが判明。

これ以降、夫・内藤法美さんと岩谷時子さんは、二つの疑問を

何度も自問自答することになります。

彼女は自分ががんであることを知っていたのか?

だとすれば、いつ頃から気づいていたのか?

病名を告げなかったのは、意外にメンタルが弱い越路吹雪さんに真実を告げれば、

絶望して死期を早めることになりかねないという恐れからでした。

 

 

二人は、きっと気づいていたと異口同音に語っています。

「きっと知っていましたよ・・・

 

夫の内藤があるインタビューでこんな言葉を残している。

「彼女は、自分に嘘をつかなかったし、他人の嘘も見破る特殊な感覚がありました。第六感というのでしょうか?」

彼女は、舞台上の堂々としたイメージとは真逆で、とても精神的にもろいところが

あった。自分が癌だと知れば、絶望的になるのが分かりきっていた。

そうなれば、坂道を転げ落ちるように何もかも自暴自棄になってしまう。それが

一番怖かったのだ。内藤は、身内としての辛さを押し殺して顔色一つ変えずにこう

応えていた。「たいしたことはない。」また、彼女と長年連れ添った岩谷も語る。

「怖いほど感のいい人でした。共済病院に入院してから頻繁にお見舞いに来てくだ

さっていた親友の一人に小島春子さん(アイリスメガネ社長夫人)という方がいらっ

しゃいました。ある日、越路は ”春子さん、今日は来ないわよ” というんです。

私が ”どうして?” と訊くと ”うん、どうしても” と答えるだけでした。」

あとでわかったことだが、その日、小島夫人は愛車のジャガーで病院へと

お見舞いに来る途中に接触事故を起こしてしたという。

その他にも、「コーちゃんは感が良かった!」という話は山ほどあるという。

だから、そんな越路に対して周りがいくら癌を隠しても気付かぬはずがないというのだ。その年の夏、7月3日に夫の内藤は主治医の中川圭一院長から別室に呼ばれた。

「越路さんの胃痛は、総合的な所見から胃がんによるものと思われます。

切ってみないと分からないのですが、相当進んでいるようです。」

 

その時の気持ちを内藤は克明に憶えていた。

「頭の中が真っ白になりました。それと同時に彼女には絶対に気づかれぬように

しなければならないと思ったんです、もしも彼女に気づかれたら、あの性格だと

死期を早めることになると思い ”癌” という言葉を胸に飲み込みました。

彼女には何気なく ”今度再検査するらしいけど胃潰瘍らしいよ、こじれたら面倒

だからいっそ早めに切っちゃおうよ” と、こともなげに言いました。」

彼女は、しばらく黙り込んだまま内藤の顔をじっと見つめたと言う。

その表情からなにか読み取ろうとしていたのだろう。

翌週の7月8日、彼女は胃の2/3を切り取り手術を受ける。

 

内藤は、再び主治医の部屋に呼ばれる。

「やはり胃がんでした。予想以上に転移が進んでいます。制癌剤を使うしかありま

せん。切らなければ3ケ月。ただし、薬の効く人・効かない人がいます。今後の経過

次第では延命もできるでしょうが・・・当然のことですが、もう舞台は無理です。」

覚悟はしていたものの、内藤にとっては死刑の宣告に似た言葉だった。

「とにかく彼女に気づかせないようにしなければ・・・」と、

そのことばかりが頭の中で渦巻いていたという。

「悪い病気じゃなかったんでしょ?」

手術後、病院のベットで目覚めた彼女は開口一番に内藤に訊いた。

その横にいた岩谷の顔色も推し量りながらも、彼女は病室に入ってきた

婦長とこんなやりとりをしたという。

 

「私、癌ですって!?ようし!それなら今すぐここから飛び降りてやるから!」

と、ベットから降りるマネをした。

内藤と岩谷が、そんな彼女の笑えない冗談に言葉を返せないままでいたところ・・・

機転を利かせた婦長が笑いながらこう応えた。「どうぞどうぞ、私が後ろから

押してさしあげますわ。そんな患者さん、うちの病院ではいりません。」

彼女は、ほんの一瞬だけ何とも言えないような目をみせたあと、

すぐに笑顔で言い返したという。「そうよね・・・そんなわけないわよね。」

内藤は、この時のことを婦長に感謝しているという。そんなやりとりがあって、

ちょうど4ヶ月後に彼女は同じ部屋のベットの上で永眠した。

死期を悟って逝くこと。知らぬまま逝くこと。

それを伝える人。伝えることなく見送る人。

逝く者にとっても、見送る側にとっても、辛い選択であることには変わりない。

だが、たとえ死が彼女の肉体を奪ったとしても・・・その歌声は変わらぬ

輝きを放ちながらに人の心の中で生き続けている・・・。

 

越路吹雪が結婚した夫は音楽家の内藤法美

70年代、最もチケット入手が困難な公演といわれた越路吹雪さんの

日生劇場リサイタル。

1969年以降は、およそ1か月に及ぶロングリサイタルとして開催されてきました。

越路吹雪さんのリサイタルやディナーショーの音楽構成、指揮、作曲などを

務めてきたのが夫の内藤法美さんです。

作曲家やピアニストとして活躍していた内藤さんの才能に惚れ込んだ越路吹雪さんが好意を抱いたのだそう。

岩谷時子さんによると、越路吹雪さんはピアニストに弱いところがあったのだとか。

二人は1959年の秋に結婚。5歳年上の姉さん女房でした。

子供には恵まれませんでしたが、おしどり夫婦として知られていました。

内藤法美さんは1988年7月9日、 肝臓がんのため58歳で他界しています。

越路吹雪の父や家族は?

5人兄弟の3人目として誕生した越路吹雪さん。

両親が姉の看病をする必要があったため、祖父母に預けられていた時期が

あるようです。芸名を「越路吹雪」とつけたのは父・友孝さん。

歌が好きな娘のために宝塚歌劇団への入団を勧めたのも友孝さんでした。

 

 

友孝さんの職業は東京電燈のエンジニア。

東京電燈は1883年に設立された日本初の電力会社です。

母の益代さんは、おそらく姉の看病にかかりきりだったのでしょう。

1965年、越路吹雪さんが日本レコード大賞歌唱賞を受賞した年に

がんで亡くなっています。翌年の2月には友孝さんもがんで他界。


越路吹雪さんは、両親と実兄と夫を自身と同じがんで亡くしているのですね。

日本人離れした芸風とキャラクターで、「シャンソンの女王」と呼ばれた

越路吹雪さん。あまりにも早すぎた死でした。

 

 

越路吹雪の歌手としての評価と死因。子供は?

名曲「愛の讃歌」「バラ色の人生」「サントワマミー」の

誕生秘話は? 【一部抜粋】

 

 

 歌手としての評価については、宝塚音楽学校出身で宝塚でも活躍しましたが宝塚

音楽学校での成績は悪く先生にも心配される生徒でしたが、東京に出てミュージカルスターになりシャンソンを歌いこなす日本を代表とする歌手となりました。

紅白歌合戦にも15回出場、また劇団四季の創設者浅利慶太氏は真実を歌うことが

出来る歌手であること、心の中の愛や悲しみ、祈りを歌うことが出来る歌手と

評されていました。

 

「愛の讃歌」作詞、エディット・ピアフ 

作曲、マルグリット・モノー

 

この歌はエディット・ピアフが知り合ったボクサーの、マルセルセルダンと恋仲に

なっていたのですが、相手には妻がいたためこの恋に終止符を打とうとした歌です。この歌にはもう一つ説があり、マルセルが飛行機事故で亡くなりそれを悼んだ歌という説もありましたが実際は、恋に終止符を打とうとした歌といえます。

日本では越路吹雪、美輪明宏、宇多田ヒカル他多数がカバーしています。

それぞれのアーティストの感じ方が違うでしょうから同じ曲でどんなアレンジに

なるのかを楽しみに聞いてもらうと面白いと思います。

「バラ色の人生」作詞 ピアフ、作曲、ルイギ

和訳を読むと女性が意中の男性を見て勝手に盛り上がっている歌というイメージですが、ピアフの歌声で聞くとファンには何か響くものがあったのでしょう。またこの曲も多くの日本人アーティストにカバーされており歌い継がれています。

今後もいろいろなアーティストが歌い継いでいくと思います。

ちなみに越路吹雪さんが歌ってどの程度売れたのかなどは判りません。

 

「サントワマミー」作詞、岩谷時子、

作曲、サルヴァトール・アダモ

 

原曲は少年時代の失恋を描いた歌になっていますが、岩谷時子さんの訳詞では

女性に置き換えて女性の恋の歌になっています。越路吹雪盤は25万枚の売り上げを

誇っています。この曲もまた日本人アーティストにたくさんカバーされています。

今後もこの曲は、歌い継がれていくことになるでしょうし、後世にまで名曲として

語り継がれていくでしょう。また日本ではこの歌を聞くたびに越路吹雪さんの名前を思い出すことになると思います。

因みに原曲は、サルヴァトール・アダモでエディット・ピアフではありません。

 

 

越路吹雪の身長体重は?病気は胃がん?墓は川崎にあり?

 

シャンソン歌手として、著名な実績を残した越路吹雪さん。
1980年に、この世を去る最期の言葉は

「いっぱい恋したし、美味しい物も食べたし、歌は歌ったし、もういいわ」
と言われています。

 

越路吹雪の最期の病気とは?


越路吹雪さんは昭和のシャンソン業界の草分け的な存在として、第一線を
走り続けましたが、その苦労は越路吹雪さんの体を蝕んでいました。

越路吹雪さんは、1980年11月7日にこの世を去りますが、
それまでに苦しい闘病生活を余儀なくされたのです。
1980年6月の劇場に出演中、急に胃に激しい痛みが走り、
深刻な病気の疑いがあるとされ、緊急入院します。
その際、病気の検査を受けたそうですが、胃潰瘍という診断を受けました。
7月には、胃潰瘍の手術として胃の5分の4を摘出
しました。
美味しいものを食べるのが趣味だった越路吹雪さんにとって、

病気で胃を摘出するというのは苦渋の決断だったでしょう。
そして胃の手術後、リハビリに励んで再び舞台に、ステージに立つこと
を夢見ましたが越路吹雪さんも病気には勝てませんでした。


越路吹雪さんは、56歳という若さでこの世を去ります。

実は、越路吹雪さんの病気は胃潰瘍と診断 ”された” ことになっていたのですが、

本当の病気は胃がんだったそうです。しかも末期の胃がんだったそうで、
腹膜にもガンが移転してしまっていたそうで、越路吹雪さん本人には、
本当の病気は伝えられなかったそうです。

越路吹雪さんの両親や実の兄もガンで、この世を去っていることから
一種の遺伝なんでしょうか・・・。
越路吹雪さん自身も遺伝が怖く、ガンを含む病気の検診を欠かさなかったと

言われていますが、この世を去る前年だけは多忙のため、病気の検診を

受けなかったそうなんです。(先延ばしにしていたという)

越路吹雪さんが、この世を去る前の有名なエピソードがあります。
越路吹雪さんが意識が朦朧とする中、

「法美さんにコーヒーを」

と越路吹雪さんの夫内藤法美さんを最期まで気遣ったというエピソードです。

越路吹雪さんは、シャンソン歌手として活躍する一方、

家庭の家事は全て完璧にこなしたと言われています。
そんな越路吹雪さんですが、最期病気には勝てずに、その人生に幕を閉じました。

シャンソン歌手として、女優として、そして夫内藤法美さんの妻として、
人生を全うした越路吹雪さんの功績は、現在にも受け継がれています。

【補足】

死後、死に化粧は親友の一人で生前永きにわたり交友のあった淡路恵子によって

施された。葬儀の後、火葬場に向けて走っていた霊柩車が途中でコースを変えて、

越路が幼い頃から気にいっていた中野区・旧陸軍電信隊のコスモスの原っぱを

スピードを落として走り出した。これは、自らの死期を悟った越路が内藤に、この

原っぱの思い出話をしていたことなどから、内藤が取り計らったものだという。

 

越路吹雪の墓はどんなところ?


1980年に胃がんでこの世を去った越路吹雪さん。
そんな越路吹雪さんの墓は、現在神奈川県川崎市にあります。
越路吹雪さんの墓があるのは、日蓮宗初香山本遠寺というお寺です。
緑豊かなお寺で、越路吹雪さんの墓以外にも

たくさんの方々が眠ってらっしゃいます。

本遠寺とは、1275年に開かれた由緒正しいお寺で、この一角に夫内藤法美さんと

ともに越路吹雪さんの墓が設置されているのです。

越路吹雪さんの墓は、本遠寺境内の見晴らし良い高台。
越路吹雪さんにとっては新たな「舞台」「ステージ」となっていることでしょう。
越路吹雪さんの墓には、現在でも音楽関係者や越路吹雪さんの

ファンがたくさん訪れるといいます。

 

死後、岩谷の意向により東京都港区元麻布にある浄土真宗本願寺派麻布山善福寺に「越路吹雪の碑」と名づけられた石碑が建てられた。

石碑には代表曲『愛の讃歌』の歌詞が刻まれている。

死後、2014年に古巣・宝塚歌劇団が創立100周年を記念して創立された

「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たした

 

 

偶然「徹子の部屋」を観ていたら、ゲストに美川憲一さんが出演し、

淡谷のり子さんから越路吹雪さんを紹介してもらったと言っていました。

そして、越路吹雪さんが44年くらい前に出演していた回を観れました 笑ううさぎ おばあちゃん 虹

 

越路さんのイメージと内面が真逆。例えば繊細でメンタルが弱い。

越路さん一家は、がん家系なので毎年検査をしていたのに、亡くなる前年には、

仕事で忙しく、引き延ばしになって結局受けなかったが、胃が急に歌くなり病院へ

行き検査した結果、胃癌と告知されたと知りましたが、そんなに急に胃癌になる?

急性なので末期になる?気をつけて毎年人間ドックで検査しないと 汗うさぎあせる

 

旦那さんも8年後に癌で亡くなり、天国でも夫婦仲良く暮らしていそう 照れ ラブラブ

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

いつもと変わらないので省略 + あの2人視野や心が狭いし、厳しいところがあるので

もっと視野と心を広く持ち、気持ちに余裕をもってすぐ動かないで、言わないで。

早とちりは止めて、ちゃんと相手の言い分も聞いてほしい ムキー 爆弾 パンチ!パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート