さんま芸能界引退の危機も?
明石家さんまさんは1955年7月1日生まれ、現在68歳のお笑い芸人です。
1974年に笑福亭松之助さんに弟子入りし、1976年に生放送番組
「20歳の性熟度ピンクテスト」に出演しテレビデビューを果たしました。
その後1977年にバラエティ番組「ヤングおー!おー!」に出演したことや1981年に「オレたちひょうきん族」に出演したことをキッカケに人気となっていきました。
そんな明石家さんまさんの弟の死因が現在話題になっているようです。
そこで今回は明石家さんまさんの弟や母の死因について、
やばい家系図についてなど詳しく解説していきます!
明石家さんまの弟は焼身自殺?!
実家全焼で芸人引退の危機にも?
これまで様々なバラエティ番組などで活躍を見せてきた明石家さんまさん。
そんな明石家さんまさんの弟は、一体どのように亡くなってしまったのでしょうか?
また、実家が全焼して芸人引退の危機になったということですが、どういうこと
なのでしょうか?
ここでは、明石家さんまさんの弟の死因や弟とのエピソードについて解説して
いきたいと思います!
さんまの弟が火事で死亡!実家全焼で死因は焼死?
明石家さんまさんの実家は1983年4月18日に全焼してしまいました。
そして実家が火事になったことが原因で明石家さんまさんの弟が亡くなってしまったそうです。
当時弟は、19歳で高校卒業後に実家家業を継ぐことが決まっていましたが
亡くなってしまい、明石家さんまさんは泣き崩れてしまったとのことでした。
さんまの弟の死の真実とは!?
悩みを抱え自殺した可能性も?
明石家さんまさんの弟は焼身自殺をしてしまったそうです。
当初は事故として処理されていましたが、検証の結果自殺になったそうです。
- 逃げようとした痕跡がない
- 弟の着衣に灯油がかけられていた。
- 家族に出火を知らせようとしなかった
以上のことから弟は焼身自殺とされたとのことです。
さんまの弟の悩みとは!?
兄さんまには打ち明ける事ができなかった?
明石家さんまさんの弟の自殺の理由は、家業を継ぐことに悩んでいたからとされて
います。しかし、理由について明確にはなっておらず、明石家さんまさんは
「悩んでいたなら仲のいい私に相談するはず」と言っていたとのことです。
また、遺書がないのも不自然だったとのことで、弟の自殺は明石家さんまさんを
苦しめたそうです。
明石家さんまは弟の自殺を否定?
明石家さんまさんは、弟の自殺について「自殺するような人間ではない」と否定
していました。また、弟さんは明石家さんまさんをずっと尊敬していたそうです。
- 明石家さんまさんの発言は全て正しいと感じていた
- 誰に対しても素直に何でも話せた
- サッカーでインターハイに出場するほど精神力が強い
上記から考えても明石家さんまさんには、自殺であれば相談するはずだと
言われているようです。
さんまは弟の死で引退寸前だった!?
まさかの人物がさんまを救う?
明石家さんまさんは、弟の死から引退を考えていたそうです。
そんな時、同期芸人のオール巨人さんと舞台で一緒になり
「お前の家、弟焼いたらしいな」と舞台上で言われました。
自分を励ましていることに気づいた明石家さんまさんは
「材木切れたから焼いたんや」と返し観客を大爆笑させました。
弟の死から思うように笑いが取れず悩んでいた明石家さんまさんですが、
泣いている人を幸せにしたいとして引退を考え直したそうです。
触れてはいけないような話題ですが、オール巨人さんの気遣いから
立ち直ることができました。
明石家さんまの家系図がヤバい?
母の死因と継母との確執も?
ここまでは、明石家さんまさんの弟の死因や弟とのエピソードについて
解説しました。明石家さんまさんの弟は家業を継ぎたくなかったことから焼身自殺で亡くなったとされており、明石家さんまさんは自殺を否定し苦しみましたが、
オール巨人さんのおかげで立ち直れました。
ここからは、明石家さんまさんの家系図についてや母親の死因、
父親や義母についてなど解説していきたいと思います!
明石家さんまの複雑すぎる家系図とは?
明石家さんまさんの弟ですが、実は父親の再婚相手の連れ子だったとのことです。
また、明石家さんまさんには実の兄がおり、スナックを経営しているそうです。
父親は2009年に亡くなっているとのことでした。
さんま母は幼少期に死亡!
継母に愛されることは一度もなかった?!
実の母親は、明石家さんまさんが3歳の時に病気で亡くなってしまったそうです。
そして明石家さんまさんは継母と生活を始め、可愛がってもらおうと必死に笑いを
とろうとしました。しかしある時、お酒を飲んでいる継母が「愛しているのは
この子(弟)だけ」と言っていたことを聞いてしまい、明石家さんまさんと兄は
2段ベッドで大泣きしたそうです。
明石家さんまの父親の職業とは?芸名の由来になった?!
明石家さんまさんの父親は、水産加工業を営んでいました。
明石家さんまさんの芸名は、秋刀魚の加工などをしていたところからとったそうです。ちなみに父親の名前は杉本恒さんといい、会社名は杉本食品という名前という
ことです。
さんまは父の葬儀にある芸人を呼んでいた?
葬儀会場が爆笑の渦に!?
明石家さんまさんの父親は、2009年に心肺停止で亡くなりました。
葬儀の際に明石家さんまさんと仲のいい芸人の間寛平さんを呼んだそうです。
間寛平さんは、奥さんから葬儀用の服を受け取ったそうですが、
そこにはブラウスが入っていたため仕方なく着ていきました。
しかし、明石家さんまさんにばれてしまい奥さんから服を受け取ったことを
説明すると、会場が大爆笑になってしまったそうです。
明石家さんまと継母との現在の関係は!?
さんまが完全に拒絶している?
明石家さんまさんと継母の現在の関係は分かりませんでした。
継母は一般人なので現在どのようにしているのかも分かりません。
年齢については、前後くらいで介護施設にいるという噂もありますが、
真相は不明です。
複雑な家庭環境が現在のさんまやIMALU・大竹しのぶとの
関係に影響?
明石家さんまさんは1992年に離婚した大竹しのぶさんと今でも会っているようです。
娘のIMALUさんや大竹しのぶさんの連れ子の二千翔さんと一緒に誕生日会を
今でも行うとのことでした。また、明石家さんまさんは二千翔さんを大変可愛がっているようで、明石家さんまさんと継母の関係のようにしたくないという気持ちが
あるからではないかと言われています。
明石家さんまの弟は焼身自殺の可能性が高い
今回は明石家さんまさんの弟や母の死因について、やばい家系図について
など解説しました。
明石家さんまさんの弟は家業を継ぎたくなかったことから焼身自殺で亡くなって
おり、明石家さんまさんは弟の自殺で苦しみましたが、オール巨人さんの励ましで
立ち直れました。
また、明石家さんまさんの弟は父親の再婚相手の連れ子で、実の母親は3歳の時に
亡くなっており、継母とは確執があったということも分かりました。
さらに、明石家さんまさんの芸名は父親の水産加工業が由来となっていて、父親の
葬儀の際には間寛平さんが参列し、会場を爆笑させていたことも分かりましたね。
そんな明石家さんまさんですが、現在もバラエティ番組などで活躍されています。
明石家さんまさんの今後の動向も是非チェックしてみてください!
明石家さんまの弟と兄の現在は?死因は実家の火事?
2024最新 【一部抜粋】
以前、「誰も知らない明石家さんま 初のロングインタビューで解禁」という番組で、明石家さんまは、日本国民や芸能人からの質問に答えていたことがあります。
そのときの番組内容は、「さんまと共演NGと噂の芸能人は誰なのか?」、
「自らの生い立ちや家族のこと」。それと再婚について。
ただ、あのさんまさんが本当に真面目に答えていたのかには、疑問が残ります。
そんな明石家さんまさんは、3兄弟の次男。
生い立ちに関しては、ウソか本当か分かりませんが、けっこう波乱万丈な
人生を歩んできたと語っています。
その生い立ちですが、さんまさんによると3歳で母親を亡くし、
以来、兄と共に継母に育てられたのだとか。
そして、継母の連れ子だった弟が19歳の時、実家の火事で亡くなったといいます。
さらに、明石家さんまさんは、大竹しのぶさんとの間に授かった子供までも流産で
亡くしているのです。そのため、本来ならIMALUのほかにも実子がいるはずでした。
産まれてくるはずの子供は男の子だったのか、女の子だったのかは不明ですが、IMALUにとって流産で亡くした子供は、お兄ちゃんかお姉ちゃんになっていたのです。
そこで今回は、家族に縁がない明石家さんまさんの生い立ちや、弟の死因、
共演NGと噂の芸能人などについて調査してみました。
明石家さんまの兄の現在
結局、明石家さんまさんは、大竹しのぶさんと4年間の結婚生活でした。
しかし、本来、さんまさんにはIMALU以外の子供がいるはずだったのです。
大竹しのぶさんは、さんまさんの前に82年に結婚した夫・服部晴治氏が
いたのですが、87年に死別。その1年後にさんまさんと再婚したのです。
当時の大竹しのぶさんは、さんまさんの子供を妊娠し、プロポーズを受けて
再婚を決めたそうなのですが、迷いもあったとか。
そして、ようやく結婚を決意したその時に流産してしまったのです。
それでも大竹しのぶさんは、流産したことを伏せたまま、
さんまさんとの結婚発表会見に出席。
一方のさんまさんは、あまり自分のプライベートを真剣に語りませんが、
思えばこれまでいろんな不幸に見舞われてきたのです。
ちなみに、明石家さんまさんは大竹しのぶさんと離婚してバツ1ですが、
顔のそっくりな兄の正樹さんはそれを上回るバツ3。
(兄の正樹さん)
現在、兄はかなり年下(30歳年下)の嫁と再婚し、地元の奈良で
カラオケ & ダーツバー「カラオケさんま」を経営しているようです。
明石家さんまの共演NGは誰?
ところで、明石家さんまさんの共演NGと噂されているのは、一体誰なのでしょうか?
噂によれば、1人や2人ではなさそうなのですが、とりあえず共演NGと
言われているのは、大物司会者の徳光和夫さんだといいます。
徳光和夫さんとの共演NGは、さんまさんが徳光司会の『 24時間テレビ 』について、「チャリティなのにギャラが出るのはおかしい」と出演を拒否したことから始まったとか。その話を聞いた徳光が『 さんまさんを見て一度も笑ったことがない 』と
反撃に出たそうです。
そのことが業界で一気に広まり、以来、一切共演のオファーがない状態だとか。
そのほかにも長渕剛さんとは共演NGの噂があります。
長渕剛さんの場合は、以前「さんまのまんま」にゲスト出演した際、性格が合わな
かったのか、お互い自分の意見ばかりで相手のことを尊重し合わなかったとか。
そのことが引き金となり、収録中は終始微妙な空気に。
収録後の編集も大変だったらしく、それ以来、さんまさんと長渕剛さんが共演した
ことは一度もないそうです。
そして、さんまさん自ら共演NGを出しているのが、娘のIMALU。
やはりIMALUとの共演オファーは頻繁にあるそうなのですが、
さんまさんは、すべて断っているといいます。
IMALUの方も、以前さんまさんが女性スキャンダルを写真誌に掲載されたりしたことに激怒しているといい、「ああいう記事が載ると、こっちもツライんだからね」と
文句を言っているとか。
なので、お互いが共演することを嫌がっているということです。
明石家さんまの弟の死と生い立ち。若い頃から現在までの
年収と自宅 14分48秒
長年芸能界のトップに君臨し続ける明石家さんまさん。
いくつ年を召しても衰えないお笑いセンスは圧巻で、現在もリアルタイムで
売れてる若手と台頭かそれ以上の絡みを見せる、まさに”お笑い怪獣”です。
明石家さんまさんは、若手芸人には ”芸人はどんなことがあっても泣いては
いけない”と教育されていますが、実はこの言葉の裏にはとんでもない
美学が隠れていたのです。
今日は、さんまさんの若い頃から現在までの経歴や悲しい過去を振り返るのと
同時に、現在までの年収や立派な自宅について書いてみたいと思います。
明石家さんまの経歴と生い立ち。
家族兄弟と悲惨な弟・母との死別
本名 | 杉本 高文(すぎもと たかふみ) |
愛称 | さんまさん、さんまちゃん、さんちゃん、若、ミスター27時間 テレビ、眠らない九官鳥、お笑い怪獣、笑いの窃盗犯 |
生年月日 | 1955年7月1日 |
出身地 | 奈良県奈良市 |
血液型 | B型 |
身長 | 172センチ |
体重 | 61キロ |
出身高校(最終学歴) | 奈良県立奈良商業高等学校 |
職業 | お笑い芸人、司会者、俳優、ラジオパーソナリティー、構成作家 |
趣味 |
映画観賞、洋裁、日曜大工、スポーツ観戦、他多数 特技:サッカー、水泳、手品 |
明石家さんまの家族構成
父親 |
杉本恒。さんまの加工業。さんまが50歳の頃に心肺急停止で死去。 |
母親 | さんまが3歳の頃に死去。 |
継母 | 父が再婚した従姉。さんまとは折り合いが悪い。 |
兄貴(5歳年上) | 杉本正樹。「カラオケさんま」を経営(父が最後に経営していた)。 嫁は30歳年下。 |
義弟 | 杉本正登。父の再婚相手の連れ子。奈良育英高校サッカー部でキャプテンとしてインターハイ出場。さんまは大切に可愛がっていた。 |
嫁 | 女優:大竹しのぶ。さんまの2歳年下。1988年に結婚し1992年に離婚。 |
長男 | 二千翔(にちか)。1985年1月29日生まれ。大竹しのぶの連れ子だが さんまは離婚後も我が子のように可愛がる。慶應義塾大学卒業後にアメリカで就職しその後は大竹しのぶとイマルのマネージメント。 |
長女 | IMALU。1989年9月19日生まれ。 |
さんまは3歳の頃に実母と死別。
継母と年の離れた義弟がやってくる
明石家さんまさんは奈良県で生まれ、奈良で育ちました。
家族はさんまさんと両親とお兄さんとの4人家族でしたが、3歳の頃に実の母が
亡くなりました。
母が亡くなった後、さんまが小学4年の頃に父が従姉と再婚し継母が連れ子と共に
やってきました。(連れ子はさんまの年下で”義弟”ができた)
さんまさんは年の離れた弟を ”チビ” と呼んで可愛がり、大変喜んでいました。
しかし、継母は義弟ばかり可愛がり、さんまと兄のことは可愛がってくれなかった
そうです。それでもさんまさんは継母に好かれようと、たくさんのギャグとボケを
家で披露して頑張ったそうです。
それがさんまさんのお笑いの原点になったそうです。
継母が酒に酔って「うちの子はこの子だけや」。
兄と布団を被って泣いた
ある日、継母が酒に酔って「うちの子はこの子(義弟)だけや」と言ったのを
隣の部屋で聞いてしまい、兄と2段ベッドで布団を被って泣いたそうです。
これがきっかけで、明石家さんまさんは現在もお酒が苦手で、お酒を飲む女性も苦手になりました。また、大竹しのぶさんと結婚した際、連れ子の二千翔くんを我が子のように可愛がったのも、子供時代の継母とのことがあったからだとされています。
離婚した後も一緒にご飯に行くなど、現在も本当に自分の息子だと思っている
みたいです。継母に関しては、テレビでほとんど言及することはないですが、
楽しい逸話が少ないせいでしょう。
本当の母のような愛情は貰えなかったとしても、決して憎んではいないようです。
本人ではなく、親戚ベースの記事によると、
”小学生の頃は母の料理が美味しすぎて太っていた”
”着物を仕立ててもらった”
”実家へ帰ったときは贈り物をしていた”
など、微笑ましい逸話もあるみたいです。
父・恒は心肺急停止で死去。兄・正樹は現在スナック
「カラオケさんま」を経営
さんまさんは3歳で母を亡くし、小学4年生まで父の手1つで育ちました。
女好きで母性を欲しがる理由が分かる気がしますね。
そんな父も2006年にさんまさんが50歳の頃に心肺急停止で亡くなりました。
当時は報道陣を一切寄せ付けず、大袈裟な取材もすべて断ったそうです。
お父さんは亡くなる前までにスナック「カラオケさんま」を経営していました。
死後は兄の正樹さんが経営を引き継いでいます。
兄の正樹さんは2010年に「さんま・清の夢競馬2010」に出演し、”似てる”と話題になりました。
また、2010年当時で31歳年下で29歳の奥さんと3回目の結婚をし、
奥さんは妊娠中だと話していました。
番組の中でさんまさんは「奥さんが母親の面倒を見てくれている」と語り、
現在は兄夫婦が継母の面倒を見ていることが分かっています。
さんまの弟は19歳の頃に実家全焼で死去。
焼身自殺の説も・・・
明石家さんまさんは実の母と父の間に産まれた次男で、純血の兄弟は兄貴ただ一人です。
ぼくのことを、昔から、すごく尊敬してくれるやつでね。
弟の杉本正登さんは、母が亡くなった後に父が再婚し継母の連れ子です。
さんまさんは弟の杉本正登さんと仲が良く、ずっと可愛がっていました。
ぼくがいうことは、すべて正しいと思っていたみたいですよ。
現在のさんまさんはサッカーが大好きで、サッカー関係のトークが得意であったり、サッカー関係の番組を任されることがあります。
さんまさんのサッカー好きは、実は弟の杉本正登さんが奈良育英高校サッカー部で
キャプテンとしてチームを引っ張り、インターハイ出場まで進んだ経歴も関係してるそうです。
そんな弟さんですが、高校を卒業した後は家業を継ぐことを決心していたそうです。
しかし、弟さんは高校を卒業した1年後の1983年4月18日に、実家の火事が原因で
焼死してしまいます。
一部の報道では、焼身自殺だという記事も出ており、世間も驚いていました。
仮に自分で命を絶ったとしたら、原因は家業の後継が問題だったのでは?と憶測の
記事が出ていました。当時の記事では、弟が高校の同級生に家業を継ぎたくないと
漏らしていたことが書かれていました。
さんまさんは最愛の弟の訃報に、泣き崩れたそうです。
さんまさんは弟の自殺説については、
あいつは自殺するような人間やない・・・もし自殺するほど苦しんでいたら、ぼくにひとこと相談したはずや・・
と涙を流し否定していました。
明石家さんまの弟が亡くなった本当の理由は?
衣服から不自然な量の灯油
さんまさんは弟が自殺をするような人間ではないと否定しています。
しかし、その後の調査で自分で灯油を体に浴びたということが分かっています。
当初は、弟さんが工場の中央で発見された為、弟さんが火を消そうと試みている間に煙に巻かれて逃げることが困難になり亡くなったされていました。
( 実家は1階が工場で2階が自宅という自宅兼工場で、他の家族は就寝中でしたが
途中で火事に気付いて逃げ無事でした。)
警察の捜査が進むと、工場内は広く、煙に巻かれるのには時間がかかること、
弟さんが就寝中の家族に火事を知らせようとしなかったことなどが不自然な点が
浮かび上がりました。
警察が弟さんの衣服を調べたところ、灯油が上着だけではなく下着にまでべったりと染み込んでいたことから、大量の灯油を全身に浴び、火をつけて焼身自殺したと
断定し発表したのです。
弟の死に引退まで考えたさんま。
オール巨人のフリに救われる。
実は前年の10月に大阪のさんまさんの自宅に弟は遊びに来ており、
「今度のワールド・カップをふたりで一緒に見に行こう。
キップはぼくが買っとくから」と約束をしていたのです。
告別式では ”涙を見せまい” と口をへの字に結び、必死に耐えていたそうですが、
その後にすぐに立ち直ることができなかったそうです。
ショックのあまりお笑いの仕事にも支障が出てしまったそうです。
なかなか笑いが取れなくなった事に気が付いたさんまさんは引退も考えたそうです。
そんな時に救いの手を差し伸べたのが同期の”オール巨人”さんです。
オール巨人さんがさんまさんと共演した際、思い切って、
お前んち兄弟焼いたらしいな
と、さんまさんの弟の事故を弄ったのです。
一瞬、場の空気がヒヤッとしましたが、さんまさんが、
なんてこと言うんや!!!そや、材木きれたから代わりに焼いたんや
と、阿吽の呼吸の切り返しを見せ、大爆笑を作ったのです。
その後にさんまさんは、
俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せに したいんや。これが俺の笑いの哲学や。
と引退を留まり、現在までに多くの番組で活躍し続けているのです。
実はさんまも不孝な事故に遭いそうだった?
『 日本航空JAL123便墜落事故 』
さんまさんは1983年4月18日に最愛の弟を火事で亡くしてますが、その直後に
さんまさん自身も不孝な事故に巻き込まれる寸前だったそうです。
さんまさんが巻き込まれそうだった事故とは、弟の事故から2年後の1985年8月12日に起きた日本中を揺るがした大惨事『日本航空JAL123便墜落事故』です。
明石家さんまさんは事故の日、東京フジテレビ『オレたちひょうきん族』の収録後、事故したJAL123便で『 ヤングタウン(毎日放送系)』に出演する予定だったのです。
『 オレたちひょうきん族 』の収録が予定よりも早く終了したため、JAL123便を
キャンセルし、前の便で大阪へ飛び、難を免れたのです。
墜落事故後、明石家さんまは、急遽自身の出演ラジオを報道特番に変えて
事故の状況を伝えたのです。
「遺族のお気持ちを考えると、ちょっとお笑いトークはできませんね。 しかも、日航123便は、この「ヤングタウン」に出演するための移動手段として、私もよく利用していたんですよ。今日も123便を利用する予定でした。身体がずっと震えています。もしかしたら、私も死ぬところだったかも しれない」
明石家さんまさんはこの事故以降、新幹線で行ける距離であれば飛行機を
利用しなくなったそうで、弟の事故と合わせてかなり生活を変えました。
この時期に、さんまさんは”生きてるだけで丸儲け”と考えるようになったのです。
1989年に産まれた娘「いまる」の名前の由来にもなっています。
明石家さんまの年収と自宅。
若い頃は汚いアパートで鍵なしで住んでた?
長年、芸能界のトップを走ってきた明石家さんまさん。
番組1本のギャラは推定300万だとされ、年収は常に5億はあるとされています。
それでも、一時期引退を考えて、レギュラー番組を減らすなどしてきたので、
全盛期よりも収入は減ったそうです。
CMのギャラは吉本の取り分が大きい分損だと思い、確信犯でわざと減らしたとか。
ちなみに自宅は都内の一等地に4階建てビルを建て、事務所と併用しています。
自宅が入ってるビルの場所は東京都千代田区平河町(赤坂)にあります。
玄関先にはさんまさんが大好きな1950年代の『ロード・ランナー&ワイリー・
コヨーテ』のアニメに出てくるキャラクター、ワイリーコヨーテの像があり、
この象のせいですぐにさんまさんの自宅だとバレたとか。
外壁はアメリカから赤茶のレンガを輸入してビルをリフォーム、
全体にレトロ感を演出してます。
各階がリビングだけでも20畳もある1LDKで、1階は駐車場、2階が事務所、
3・4階部分が住居です。
内装にはかなりこだわりがあり、3階の内装は、1970年代のロサンゼルスのアイスクリーム屋さんのイメージだそうで、4階は「ビリージョエルのニューヨーク52番街」のポスターのイメージしてるそうです。
明石家さんまの自宅はバレバレ?
若手時代の賃貸は酷かった・・・
今では豪邸に住んでいるさんまさんですが、若手時代に住んでたアパートは
かなり酷かったみたいです。当時、今津久寿川町、酒蔵通りの一筋南にあった
「第一久寿川荘」と言う木造アパートに住んでいたそうですが、アパートのドアに
鍵が付いておらず、南京錠のようなもので防犯していたとか。島田紳助さん曰く、
南京錠の番号が玄関のそばの壁に直接書かれていたそうです。売れて少し収入が
増えてからは「メガロコープ福島」というマンションに引っ越します。
このマンションの住んでた時代のことは、”ひょうきん族” で度々コントに
なっています。当時、若くてイケメンだったさんまさんは女性にモテており、
いろんな女性を待ち伏せさせては酷い扱いをしてたとか。
若い頃の明石家さんま。昔はイケメン!
現在のさんまさんは、ニコニコした優しいおじさんというイメージがありますが、
実は昔はかなりのハンサムだったのです。学生時代は女子生徒にモテモテで、
バレンタインは持ち帰りきれない量を貰ったそうです。
学校は面白いだけでなく、運動神経抜群で、女子だけでなく男子からも好かれていたそうです。高校を卒業した後は、笑福亭松之助師匠に弟子入りし『笑福亭さんま』の高座名で落語家としてデビューした頃です。
最初は落語家らしい格好で活動していましたが、師匠の助言でスーツ姿で
漫才をするようになりました。
弟子入りしてわずか1年で、愛する女性と共に逃亡したそうですが、
漫才の腕前は認められていました。東京でお笑い芸人として活動すると、
すぐに国民のスターの仲間入りを果たしました。
20代からのさんまさんを振り返ってみると、圧倒的なお笑いセンスだけでなく、
顔立ちが端正でかっこいいことがすごいですね!
当時は女性ファンも多く、今よりもビッグスター気分を味わえたそうです。