投稿日:2022/6/21
【 まとめ 】
・レーガン米大統領暗殺未遂犯が一切の行動制限を解かれた。
・女優、ジョディ・フォスターの気を引こうとしたのが動機で、
精神障害の治療を続けていた。
・銃乱射事件が続発するアメリカで、この釈放が銃規制論議に
与える影響はないに等しい。
ジョン・ヒンクリー、ジョディ・フォスターと聞いて、レーガン米大統領暗殺未遂
事件を連想するのは、老境に入った人たちだろう。
1981年、人気女優の気を引くという妄想にかられて犯行に及んだ
元被告が最近、行動制限をとかれて完全社会復帰を許された。
全世界を震撼させ、多くのドラマも生んだ事件を思い起こした人たちも
少なくなかったろう。
銃による無差別殺傷事件が相次いでいるなかでの釈放だが、米メディアなどの
報道では、銃規制のあり方と結び付ける論調がほとんどみられないのは驚きだ。
■ 生命失う寸前だったレーガン大統領
「41年2か月と15日、ついに自由だ」とヒンクリー元被告は、
ツイッターに書き込んだ。
当局の監視、医師による定期的な治療、投薬、旅行、インターネット使用の
制限などが解かれ、今後は完全自由な市民生活を送ることができる。
1981年3月30日を忘れられないアメリカ国民はいまなお少なくない。
ロナルド・レーガン大統領が、ワシントン市内のホテルでスピーチを終えて
専用車に乗り込もうとしたところを、拳銃で撃たれた。
胸部に深手を負った大統領は、直ちに2キロほど離れた市内のジョージ・ワシントン
大学病院に搬送され緊急手術、心臓のすぐ近くの肺にとどまっていた弾丸を摘出、
生命を取り留めた。
大統領は当時70歳、驚異的な回復力を見せ、わずか10日後には退院した。
犯人のヒンクリーはその場で取り押さえられたが、大統領に同行していたホワイト
ハウス報道官のジェームズ・ブレイデイ氏のほ か、シークレット・サービス(大統領警護隊)の護衛官、ワシントン市警の警察官も撃たれ、いずれも重傷を負った。
■ 女優の気を引こうと・・・評決は無罪
心身を病んでいたヒンクリーは、「タクシードライバー」などに出演した女優、
ジョディ・フォスターさんに一方的な恋心を抱き、ストーカー行為を繰り返していたという。相手にされなかったため、自分に振り向かせるために犯行に及んだという。
政治的な動機のない暗殺未遂だった。
写真)ジョディ・フォスターさん(2018年05月19日)
出典)Photo by Rich Fury/Getty Images
起訴されたものの、常軌を逸した動機などが明らかになるに及んで翌年、
精神障害を理由に法廷で無罪と評決された。その後、ワシントン市内の病院で
当局監視のもとで治療を受けていたが、2016年に制限つきで退院を許され、
バージニア州ウィリアムズバーグの母親の家に同居していた。
昨年秋になって、ワシントンの連邦地裁は、元被告が退院の条件を順守し、
精神的にも安定しているとして、無条件で釈放されるべきだと決定。
医師団も、再び犯罪を犯す可能性は少ないと診断、検察当局も同意した。
レーガン大統領は2004年に死去したが、その家族は終始釈放に反対、娘のひとりは、「ヒンクリーはナルシストであり、悔悟の様子は見えない」となお、
危険な人物であると主張している。
写真)ジョン・ヒンクリー元被告(1981年03月30日)
出典)Photo courtesy Bureau of Prisons/Getty Images
■ たたえられたレーガン氏の勇気
現職大統領が撃たれたこの事件は、全世界に大きな衝撃を与えただけでなく、
銃規制、精神に障害をもつ人たちの処遇をめぐる論議など多くの波紋を呼んだ。
そうしたなかで、声望を高めたのは被害者、レーガン大統領そのひとだった。
弾丸が数センチずれていれば生命を失っていたかもしれないほどの重傷にも
かかわらず、手術室では苦痛の下から外科医たちに冗談を飛ばした。
「君たちは全員共和党支持者であってほしいよ」
見舞いに駆けつけた夫人には、「うっかり弾をよけ損なったよ」
俳優出身のレーガン氏は、西部劇にも出演したことがあるが、この時の言葉は、
人気ボクサーの敗戦の弁をもじったものといわれ、危機にあってもユーモアを
忘れない豪胆な指導者という印象を国民に与えた。
写真)銃撃される直前のロナルド・レーガン大統領(1981年03月30日 ワシントンDC) 出典)Photo by Michael Evans/Keystone/CNP/Getty Images
■ ブレイディ氏、銃規制法の立役者に
巻き添えをくったブレイディ報道官は頭部を撃たれ、体にマヒが残った。
復帰は不可能となったが、レーガン氏は任期を終えるまで報道官のポストにとどめ、その職務は副報道官に代行させた。
ホワイトハウスの会見室は、報道官の早期回復を祈って「ジェームズ・ブレイディ
会見室」と名付けられた。そのブレイディ氏は不自由な体にかかわらず、夫人と
ともに銃規制に尽力。その努力が実を結んで、クリントン大統領時代の1993年に、
購入者の身元調査など小型銃器を規制する法律(ブレイディ法)が成立した。
氏は2014年に亡くなった。
写真)ロナルド・レーガン元大統領とナンシー大統領夫人、重傷を負った
ブレイディ報道官(1981年11月01日 ホワイトハウス記者会見室)
出典)Photo by Dirck Halstead/Getty Images
■ ヒンクリー、コンサート計画も中止
犯行当時25歳、あどけなさが残っていたヒンクリー元被告はすでに67歳。
写真を見るとかつての面影は失われ、すっかり初老のそれだ。
拘禁中からギター演奏に親しみ、ユーチューブでは多くのファンがいるという
元被告は、今後、音楽で身を立てるつもりなのか、7月にニューヨーク・ブルックリンのホテルでコンサートを開く予定だった。
しかし、それも殺害予告などが相次ぎ、中止を余儀なくされたという。
■ 現在の銃規制は大型が対象
アメリカでは、この事件の前においても、また後からも、銃規制をめぐる
論議が繰り返されてきた。
時あたかも、アメリカ国内では残忍無比な銃の乱射、殺傷事件が相次いでいる。
ことし5月中旬、ニューヨーク州バファローのスーパーマーケットで18歳の
白人男が大型の半自動ライフルで黒人ばかり11人を射殺、その10日後には、
テキサス州の小学校で児童19人を含む21人がやはり18歳の男に殺害された。
バッファローの事件同様、凶器は半自動ライフルだった。
写真)テキサス州ユバルディの小学校銃乱射事件で犠牲となった
生徒らの氏名を刻んだモニュメント(2022年06月02日)
出典)Photo by Alex Wong/Getty Images
これらの事件を受けて高まっていた銃規制論議に、ヒンクリー元被告の釈放が
何らかの影響を与えるともみられたが、予想に反して、メディアの報道では
そうした論調はほとんど見られない。
米の社会動向に詳しい専門家は、ヒンクリー元被告の犯行は凶悪ではあったものの、妄想から大統領を狙ったケースであり、普通の市民を無差別、大量に殺害した
事件とは異なっているため、と指摘する。
ニューヨーク州、テキサス州の事件での凶器は、ヒンクリーが用いた小型拳銃ではなく半自動ライフルなど大型、殺傷能力の強い銃器であったことから、規制の対象は、これらが中心で、小型火器への関心が薄くなっているという見方もなされている。
ライフルは規制すべきだが、拳銃なら許されるという理屈は奇妙に響くが、米の
歴史、文化からみて銃を完全にコントロールすることは困難だから、せめて大型火器だけでも規制しようというホンネの表れという見方が正しいのかもしれない。
ヒンクリー釈放が、銃規制の論議を高める効果をもたらしていたら、
無念の後半生を送った故ブレイディ氏、レーガン大統領にとっても、
「以て冥すべし」だったろうが。
首相を狙うのは「頭のネジの外れた人間」だけなのか…
実行犯にみる「ぼんやりとした動機」の恐ろしさ
木村隆二容疑者の「短絡的な思考」が示すもの
女優のために無関係の大統領を狙撃したケースも
アメリカでは多くの大統領たちがテロに遭い、命を落としている。
その中で、銃撃されたがシークレットサービスの好判断で一命をとりとめたロナ
ルド・レーガン大統領暗殺未遂事件は、今も語り継がれるほど奇跡的なものだった。
咄嗟の判断でレーガンの命を救ったジェリー・パーの『 シークレットサービス
レーガン大統領の命を救った男 』(中央公論新社)によると、事件の当日、
66人のシークレットサービスがレーガンを取り囲むように警護していたという。
![インカムに手をやるボディーガード](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/9/670/img_19518c712724f73de30c979c69591973388705.jpg)
写真=iStock.com/LightFieldStudios
※写真はイメージです
だが、警護をあざ笑うように、銃弾はレーガンを襲った。
「最初の射撃音の時、私はすでに動いていた。『覆いかぶさり、そして脱出』。
私はレーガン大統領の後ろとズボンをつかみ、右手で彼の頭を押し下げ、
彼を車の中に投げた。(中略)レーガンは倒れないよう両腕を伸ばした。
彼の胸は、私の全体重がもろに乗った状態で、床の突起に激突し、頭が座席シートにぶつかった。(中略)『 ここから脱出だ! 行け、行け、行け!』私は叫んだ。
第一弾の発射から三秒後、大統領車は走り出した」
ホワイトハウスに向かうはずだったが、思っていたよりはるかにレーガンは
重傷だった。ジェリーはとっさの判断で車を大学病院に向かわせた。
これがレーガンの命を救うことになったのである。
厳重なはずの警備をすり抜け、レーガンに銃弾を撃ち込んだのはジョン・ヒンクリーだった。彼がレーガンを暗殺しようとした動機は、女優のジョディ・フォスターに
対する偏執的な愛情からだった。
「頭のネジが外れている」と非難することはたやすいが…
大学生の頃、ヒンクリーは映画『タクシードライバー』(1976年)を観て、
12歳の売春婦を演じたフォスターに憧れ、何度も彼女に接触しようと試みる。
それが失敗したヒンクリーは、「歴史上の人物になり、フォスターと同等の立場に
たつため」に、大統領暗殺を考え始める。
最初はジミー・カーター大統領を付け狙うが、重火器所持で逮捕されてしまう。
その後、精神的におかしくなり、今度はレーガンをつけ狙うようになる。
ヒンクリーは襲撃前にフォスターに手紙を2通書いたという。そして大統領専用車に
乗り込もうとした瞬間のレーガンを狙撃し、左胸に命中させたのである。
しかし、逮捕されたヒンクリーは、精神異常だと判断され、無罪となってしまった。
政治的信条でもなく、個人的な恨みでもなく、女優に好きになってもらうために大統領暗殺を実行する人間を、「頭のネジが外れている」と非難することはたやすい。
だが、はっきりとした動機のないテロほど恐ろしいものはないのではないか。
自分が金持ちになれないのも、女優と恋愛できないのも、東大に入れないのも、
みんなこの国の宰相が悪いからだと鬱屈した思いを抱いている人間が、闇サイトで
手に入れた銃や爆弾で、時の首相を狙うようにならないだろうか。
レーガン大統領暗殺未遂事件1981年~SSも身辺警護
レーガン米大統領暗殺未遂事件の際のSSシークレットサービス大統領警護課長
ジェリー・パー氏は「レーガン大統領の命を救った男」と呼ばれており、2013年に
回想録『In the Secret Service』を出版しました。警察庁OBの立花昌雄氏は、
そのパー氏の友人でしたが、我が国の要人警護に参考になるのではないかと考え、
2年前に同書を翻訳出版(邦題『シークレットサービス』したそうです。
安倍首相暗殺に伴い警護の在り方が注目されている時でもあり、SSの警護手法を
知るために有益な本です。本書から抜粋して、レーガン大統領暗殺未遂事件の際の
大統領警護課長ジェリー・パー氏の行動を見てみましょう。
1981年3月30日レーガン大統領はワシントンDCヒルトンホテルでの行事に出席。終了後にホテルから大統領車(防弾)に向かったが、その際のSSの身辺警護隊形は、大統領の直後左右18インチ(45cm)の距離に警護課長と防弾板を持ったSS1名。
その前後左右の周囲にSS4名、後方に軽機関銃を持ったSS1名、合計7名態勢(27頁)。ホテルを出て大統領車まで2メートルの距離で、犯人のヒンクリーが射撃を
始める(2発連射。その後更に4発)。警護課長は「最初の射撃音の時、私は既に
動いていた。『覆いかぶさり、そして脱出』。私はレーガン大統領のベルトの後ろとズボンをつかみ、右手で彼の頭を押し下げ、彼を車の中へ投げた」。そして「『ここから脱出だ! 行け、行け、行け!』。第一弾の発射から3秒後、大統領車は走り出した」(226頁)。大統領車は当初ホワイトハウスに向かうものの、警護課長が大統領の負傷に気が付いてジョージ・ワシントン大学病院に行き先を変更指示。ホテル前を緊急発進してから3分以内に病院に到着(231頁)。緊急救命室で輸血等の緊急措置をした後の14時57分、撃たれてから30分後には手術室に向かった(235頁)。
ホワイトハウスに向かうなどして措置が遅れていれば、助からなかったとされる。
ジェリー・パー氏が身辺警護責任者として受けてきた訓練は次のようなもので
あったそうです。「私は襲撃されている大統領を上から覆って脱出させる方法を
学んだ(襲撃者を探すな。撃ち返すな。自分の体で警護対象者を覆い、そして彼あるいは彼女をそこから連れ出せ。周辺にいる警護官や警察が暗殺者を処理する)。
教官は『かぶされ、かぶされ!』と、それが無意識のうちにできるようになるまで
叫んだ」(95頁)。或いは。脅威の状況によって「大統領を下に押し倒すのか、
ステージ上で自分の体を大統領の上に覆いかぶせるのか、あるいは、
演壇から大統領を退出させるのかが変わる」(27頁)。
「私は大統領と<死>との間の阻止線の一部であった」(19頁)。
他に興味深い記述としては、犯人のヒンクリーは、前大統領のカーター大統領暗殺も狙って1週間ほど後を追ったが、SSに「目の端で見られて、俺は身動きができなくなった。」と供述したそうであり、パー氏はSSがいて警戒していることによって
暗殺行為が阻止されたと確信したという(247頁)。
本書には、この他にも、サイトエージェントの役割と活動、民主主義国家における
警護官の魂・精神や警護技法について有益な記載が多々あります。
警護に関心のある方には御一読をお勧めしたい本です。
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人と現在!
死者とSP・裁判判決やその後を総まとめ
1981年3月に暗殺未遂事件に巻き込まれたレーガン大統領。
この事件はなぜ起こってしまったのでしょうか?今回はレーガン大統領暗殺未遂
事件の犯人、死者やSP、裁判からその後と犯人の現在についてまとめてみました。
レーガン大統領のプロフィール
レーガン大統領のプロフィール
名前:ロナルド・ウィルソン・レーガン
生年月日:1911年2月6日
出身地:アメリカ合衆国
職業:政治家、俳優
レーガン大統領はアメリカの元大統領
レーガン大統領はアメリカの第40代大統領として活躍した人物で、歴代大統領の
中でもとくに人気が高い大統領のひとりとして知られています。彼は1981年1月21日に大統領に就任し、その後は大幅減税と積極的財政政策を行いました。
さらに外国への武力侵攻など、改めて「強いアメリカ」を世界に知らしめし、
ソ連との冷戦終結に尽力しました。
子供の頃は教会へ通う熱心なプロテスタントだった
レーガン大統領はカトリックに属する父親とプロテスタントに属する母親に間に
生まれ、早くから母親の影響を受け、頻繁に親子で教会に通っていたのだとか。
その後、彼は11歳にして洗礼を受けると信徒の前で説教を行うようになり、
このときの説教はのちの彼の演説力を培うようになったのだそうです。
ちなみに父親とは毎週映画を見に行っていたようですが、当時は人種差別的な
映画は一切見せてもらえなかったのだそうです。
高校時代はライフガードとして活動
レーガン大統領は、高校時代にライフガードとして働いていたようで、当時は
ローウェル公園に沿って流れるロックリバーで夏季のみ活動していたのだそうです。
このときは、ライフガードとしてなんと77人もの救助を行っていて、溺れる人は
とても多かったのだとか。
大学卒業後はラジオアナウンサーとして活動した
レーガン大統領は大学を卒業したあと、高い話術を活かしてメジャーリーグの
「シカゴ・カブス」のラジオアナウンサーとして活動。当時は紙に書かれた
ニュースの内容から試合の輪郭を想像して実況放送を行っていたようで、
彼の放送はとても大きな人気を集めていたのだそうです。
ちなみに放送機器が壊れた際には即興で架空の実況放送を行っていて、
その対応力にも評判が集まっていました。
政治家になる前は映画俳優として活動
レーガン大統領はラジオアナウンサーとして活動したあと、ハリウッドへと移り、
そこで映画会社「ワーナーブラザース」と契約。ここから映画俳優としての活動を
スタートさせ、デビュー後から二枚目スターとして注目を集めていました。
当時は映画「嵐の青春」でアカデミー賞にノミネートされると演技力にも高い評価を集めていて、その後はナレーターとしても活動するなど、幅広い活躍を見せました。
結婚と離婚、再婚を経験している
レーガン大統領は過去に離婚歴があり、当時はアメリカ大統領の中で唯一離婚歴が
ある大統領としても知られていました。彼は俳優として活動していた1940年に
女優のジェーン・ワイマンと結婚。
彼の妻ジェーンも当時は女優としての評価が高く、彼はこれに嫉妬。
いつしか妻との関係は悪化するようになり、彼女がアカデミー主演女優賞を
受賞した1949年に離婚してしまいました。
その後は1952年に女優のナンシー・デイビスと再婚していて、
再婚後は離婚することなく夫婦生活を続けています。
レーガン大統領の暗殺未遂事件!
死者やSP、犯人を紹介! 裁判の判決は?
レーガン大統領は暗殺未遂事件に巻き込まれたことがある
レーガン大統領は1981年3月30日に何者かに銃撃されるという暗殺未遂事件に
巻き込まれていて、当時は大統領を含め、負傷者も出ていて、世界中に大きな
衝撃を与えました。
Reagan Assassination Attempt
出典:YouTube
レーガン大統領の暗殺未遂事件の概要
レーガン大統領の暗殺未遂事件①~当日はAFL-CIO会議の講演会だった
レーガン大統領は暗殺未遂事件の当日はワシントンD.C.にてヒルトンホテルの会議場で行われる「AFL-CIO会議(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)」に出席。
このときは会議で講演を行っていて、暗殺未遂はこの講演後に行われることに
なります。
レーガン大統領の暗殺未遂事件②~講演後に会場の外で銃撃された
レーガン大統領は公演を終えたあと、ホテルの出口にSPたちと迎い、
会場を去ろうとしていました。すると、ホテルの外で待ち構えていた
群衆の中からひとりの男が飛び出し、彼に向って銃撃を行います。
このときは、負傷者を出しながらもすぐに犯人は取り押さえられ、
レーガン大統領は大統領専用車にてすぐに現場を離れました。
レーガン大統領の暗殺未遂事件③~銃弾はレーガン大統領に当たっていた
レーガン大統領は銃撃された現場からなんとか脱出に成功。このときはSPは
「大統領は無事」と思っていましたが、その後に彼が吐血したことで事態は急変。
実は銃撃されたとき、弾丸の一発がレーガン大統領に命中していて、弾は心臓をかすめ、肺の奥深くで止まっていたのだとか。異変に気付いたSPはすぐに車をジョージ・ワシントン大学病院へと急行させ、緊急手術が行われることとなりました。
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人は誰?
じつはジョディ・フォスターのストーカーだった?
レーガン大統領の暗殺未遂事件を起こした犯人は?
レーガン大統領の暗殺未遂事件を起こした犯人は「ジョン・ヒンクリー・ジュニア」という人物。この犯人は当時は精神衰弱状態にあり、精神安定剤・抗うつ薬も
服用していたのだそうです。
銃撃した際には回転式拳銃を使用し、6発全弾発砲していて、
その後は逃亡しようともせず取り押さえられました。
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人
名前:ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア
生年月日:1955年5月29日
出身地:アメリカ合衆国
犯人は裕福な一家の生まれ
暗殺未遂事件を起こした犯人ジョン・ヒンクリー・ジュニアは非常に裕福な家庭に
生まれ育っていて、子供の頃は学校の人気者だったのだとか。とくに小学校と中学
では成績優秀でスポーツマンでもあり、将来も期待されていたのだそうです。
ちなみに彼の実家は石油会社を経営していて、2人の兄も優秀な人物だったのだ
そうです。
高校時代から落ちこぼれるように
暗殺未遂事件の犯人ジョン・ヒンクリー・ジュニアは高校にあがる頃から徐々に
落ちこぼれるようになり、勉強やスポーツはやめてしまい、家にひきこもる
ようになっていったのだそうです。
大学進学後は休学と復学を繰り返し、黒人を嫌い、白人至上主義の
本を読むふけっていたのだとか。
映画を見てジョディ・フォスターに夢中になった
ジョン・ヒンクリー・ジュニアはその後、1976年の映画「タクシードライバー」を
見て、作中で売春婦役を演じたジョディ・フォスターへ恋心を抱くようになります。
当時は部屋に彼女の写真をいくつも貼り付け、写真に向かってキスをするなど、
彼の頭の中は彼女で夢中になっていたのだそうです。
ジョディ・フォスターのストーカーに
ジョン・ヒンクリー・ジュニアはジョディ・フォスターに夢中になったあと、
彼女になんとか近づくために情報を集め、彼女が通う大学の聴講生になります。
そこで彼女と同じ教室を講義を聴くなどなんとか近づくことに成功するものの、
教室では話しかけることができず、代わりにつけまわすようになります。
ここから彼は彼女に対してストーカー行為を行うようになり、それは次第に
エスカレートしていきました。
ジョディ・フォスターに振り向いてもらうために暗殺計画を立てた
ジョン・ヒンクリー・ジュニアはその後、なんとかジョディ・フォスターに振り向いてもらうため、大統領暗殺を計画。当時はカーター大統領の暗殺を考え、大統領を州から州へ追いかけるなどして逮捕されています。そして、カーター大統領からレーガン大統領に代わったあともその行いは続き、暗殺未遂事件が起こってしまいました。
レーガン大統領暗殺未遂事件の死者は?
当時のSPがすごかった?
レーガン大統領暗殺未遂事件に死者はいるの?
レーガン大統領の暗殺未遂事件について当初は死者は出ておらず、
負傷者が出たのみで留まっています。また、このときは大統領を含め、
当時のSPと報道官も負傷していましたが、一命は取り留めました。
ちなみにこの事件の負傷者はレーガン大統領とその報道官、
そしてシークレットサービスと警備の警察官がそれぞれ1人ずつ負傷しました。
当時のSPが壁になって大統領を守っていた
レーガン大統領の暗殺事件では当時のSPだったティム・マッカーシーという人物が
銃弾を浴びていて、当時の写真でも倒れている彼の姿を見ることができます。
彼は事件が起きた際、お手本通りレーガン大統領をかばっていて、このときは犯人の前に立ちはだかって撃たれています。ちなみに彼も銃撃後はすぐにレーガン大統領と同じ病院に運び込まれ、一命を取り留めています。
レーガン大統領を銃撃から守ったSP
名前:ティム・マッカーシー
生年月日:1949年6月20日
出身地:アメリカ合衆国
職業:元SP、元警察署長
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人と現在!
死者とSP・裁判判決やその後を総まとめ
1981年3月に暗殺未遂事件に巻き込まれたレーガン大統領。
この事件はなぜ起こってしまったのでしょうか?今回はレーガン大統領暗殺未遂
事件の犯人、死者やSP、裁判からその後と犯人の現在についてまとめてみました。
Suburban police chief who took a bullet for President Reagan retires after nearly 50 years
出典:YouTube レーガン大統領を守ったSP
レーガン大統領暗殺未遂事件の裁判!判決はどうなった?
裁判では犯人の精神状態が争点に
レーガン大統領の暗殺未遂事件のあとに行われた裁判で犯人のジョン・ヒンクリー・ジュニアは「精神異常」だと言われ、彼の当時の精神状態が裁判の争点と
なりました。彼は当時13の罪で起訴されいましたが、弁護側が精神医学上の
報告書では「ヒンクリーが精神異常」と報告。
一方の検察側は「ヒンクリーを法律上健全」だと報告して裁判は長引くことに。
判決は「無罪」
レーガン大統領暗殺未遂事件の裁判はその後、犯人の「無罪」が確定。
これはこれはジョン・ヒンクリー・ジュニアが「精神異常」だと認められたことが
要因となっていて、責任能力が無いと判断されました。
ただ、この判決については全米中で批判する声が多く挙がっていて、
その後の法律にも大きな影響を与えることとなりました。
犯人は裁判のあと、強制入院となった
暗殺未遂事件を起こした犯人のジョン・ヒンクリー・ジュニアは裁判のあと、
聖エリザベス病院に強制隔離入院させられることに。彼はこれ以降1999年まで
同病院で過ごすこととなり、その後は別の精神科病院に入院しました。
レーガン大統領暗殺未遂事件のその後について
レーガン大統領暗殺未遂事件のその後①~レーガン大統領は10日で退院
レーガン大統領は暗殺未遂事件のあと、すぐに病院へ運ばれ手術を受けました。
その後は周りも驚くほどの驚異的な回復力を見せ、なんと10日で病院を退院します。
さらに3週間後には公務にも復帰していて、その後も1989年まで大統領として
活動を続けました。
レーガン大統領暗殺未遂事件のその後②~支持率は上昇
レーガン大統領は暗殺未遂事件が起こる前まではリベラル層や知識層から批判する
声が多かったようですが、事件後はどんな事態でも余裕を持つ強靭な精神力が
評価され、多くの支持を集めることに。そのため、彼の人気の高さはこの事件も
要因のひとつとされていて、この事件があったことでその後の政策も無理なく
行えたのだそうです。
レーガン大統領暗殺未遂事件のその後③~法律改正
レーガン大統領暗殺未遂事件では犯人が「精神異常」だと判断されたために「無罪」となり、この事件後は多くの州で精神異常者の犯罪に対する法律改正が行われることとなりました。実際に3つの州では精神異常者の犯罪では弁護が廃止されていて、
精神異常者であっても犯罪を犯せば罪を償わなければならなくなりました。
レーガン大統領暗殺未遂事件のその後④~ジョディ・フォスターが同性愛を公表
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人ジョン・ヒンクリー・ジュニアが愛した
ジョディ・フォスターですが、その後に「同性愛者」であることを公表。
これについては「この事件がきっかけで男性不信になり、男性と恋愛できなく
なった」と言われましたが、彼女はこれを否定。そのため、犯人がどれほど努力したとしても彼女に振り向いてもらうことはできなかったことが判明しました。
レーガン大統領暗殺未遂事件のその後⑤~報道官が事件の負傷が原因で死去
レーガン大統領暗殺未遂事件では彼の報道官も負傷。この報道官は事件で頭を銃弾がかすめていて、これにより身体の一部がマヒ。その後は車椅子生活を余儀なくされていて、2014年に死去しました。彼の死去後、死因について「暗殺未遂事件での
負傷が原因」だと公表されていて、再び捜査が行われることになりました。
米ワシントン首都圏の警察当局は9日までに、レーガン元米大統領の報道官だったジェームズ・ブレイディ氏の死去は、1981年に起きたレーガン元大統領の暗殺未遂事件に巻き込まれた際の負傷が直接的な死因との見方を示した。
出典:レーガン元米大統領報道官が死去、暗殺未遂事件時の負傷が死因 - CNN.co.jp
レーガン大統領暗殺未遂事件のその後⑥~犯人が退院
レーガン大統領暗殺未遂事件を起こした犯人ジョン・ヒンクリー・ジュニアは
その後、精神病院に入院していましたが、2016年8月に釈放。その翌月には退院するととなり、以降は母親と同居しています。ですが、彼は精神病院に入院したとき、
ジョディ・フォスターの資料を持ち込んでいたことが判明していて、彼女に対する
想いは非常に強かったことがわかっています。
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人の現在について
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人は現在どうしてる?
レーガン大統領の暗殺未遂事件の犯人は現在「すべての行動制限措置が解除」と
なっていて、一般人と同様に普通の生活を送っています。彼の行動制限措置が
解除されたのは2022年6月15日のことで、このときは自身のTwitterにて
「41年2ヶ月15日経過し、ついに自由だ」とツイートしていました。
1981年にレーガン米大統領を銃撃して負傷させ、心神喪失を理由に 無罪となったジョン・ヒンクリー元被告(67)に課せられていた 行動制限が15日、解除された。AP通信が伝えた。
出典:レーガン氏銃撃犯「自由」 41年ぶり、行動制限解除 - 産経ニュース
現在は音楽活動を行っている
レーガン大統領の暗殺未遂事件を起こした犯人ジョン・ヒンクリー・ジュニアは
現在音楽活動を行っているようで、YouTubeで自身の楽曲を発信しています。今後はアルバムのリリースも予定しているようで、特定のファンはついているのだとか。
John Hinckley Sings “Hope for the Future” Original Song
出典:YouTube
ジョン・ヒンクリー・ジュニアのYouTubeチャンネル
YouTubeチャンネル名:John Hinckley
YouTuber名:ジョン・ヒンクリー・ジュニア
チャンネル登録者数:3.08万人
総再生回数:1,193,427 回
チャンネル登録日:2020年11月3日
まとめ
ここまでレーガン大統領暗殺未遂事件についてまとめてみました。
レーガン大統領は1981年に暗殺未遂事件に巻き込まれていて、自身も銃弾を
食らうもその後は驚異的な回復力を見せ公務に復帰しました。
現在はすでに犯人も出所し、行動制限も解除されています。
今後はこういった痛ましい事件が起こらないことを願うばかりです。
占い師の母からヒントを貰っていましたが、まさかレーガン大統領のこととは
例えば「私の頭のネジが4~5本緩んでいるから、締め直しなさい 」と言われました
1つ前にあげたブログで源氏物語のあらすじは、占い師の母が「遺言書は、
巻物になっていて、無理に開こうとしても開かない。その時にならないと開かない。
そして、炙り出しになっている。」と言っていたのが、この物語と明日からの物語。本当に良いタイミングで開かれて、私もビックリでした
感想は、次のブログに書いてありますので、お読みください