前回の高山大橋の上流にかかるトラス橋、知原橋です。
高山大橋から見た知原橋。両岸が近い場所に無理なくかかっている。
東から正対。いかにも旧道の橋らしいひなびた雰囲気。
すぐ隣には吊橋だった旧橋の主塔が残っている。
渡って西側下流から。きれいな橋もいいが、褪せた塗装にも味がある。
河原に降りて横から。
知原橋の親柱。橋と同じ赤色の帽子?をかぶっている。
銘板は「知原橋」「ちはらはし」「付知川」「昭和二十八年六月竣功」。
ちなみに親柱の形が両岸で違っていて、西は写真の通り四角柱だが、東は上段の車道側の石がなくL字になっている。
車にぶつけられて石が外れたんだろうか。
橋に取り付けられた銘板。「昭和27年(1952) 岐阜縣建造」「製作 瀧上工業株式會社」
この場所には江戸時代から橋がかけられており、今回紹介した知原橋が七代目となる。
初めて橋をかけた文化二年(1805)には水難者の供養と厄除けのために橋供養を行い、その際に記念として立てた「橋造営供養塔」が東のたもとに残っている。
その隣には高浜虚子らとの吟行で長谷川零餘子(れいよし)がこの橋で詠んだ句碑が立っている。
「一車宛(ずつ)残され渡る夜寒かな 零餘子」
傍らの解説によると、この句が詠まれたのは大正五年で、当時知原橋(その頃は高山橋と呼んだらしい)は明治二十五年架橋の四代目。
当時の橋梁技術であり、また完成から年月が経っていたこともあって皆が一度に渡れないために、荷車が一台ずつ渡るのを待つ秋の情景を詠んでいるとのこと。
また個人的にはこの解説のおかげで現道の高山大橋がなぜ「知原大橋」と命名されなかったという疑問も解けてスッキリした。
先代(六代目)の知原橋の主塔。
主塔の間から対岸を望む。
付知川にかかる三代の橋。