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ぽんしゅう座

映画の感想など徒然に

海外にいる夫から連絡が途絶えた看護師長プラバ。異教徒の青年と密かに交際する後輩のアヌ。不当な立ち退きを迫られる独居の年長者ルヴィア。喧騒と光に溢れた大都会ムンバイの夜を背景に、そんな、一歩が踏み出せない“悩み”を抱えた3人の女たちの姿が、ときに繊細にかつ力強く点描されていく。

終盤、都市の夜景から海辺の陽光の下に“開放”された女たちは、社会の呪縛からも“解放”され、静かな夜の光の下に居場所を得たかのような光明をみた。見事な転調だった。

アプローチは違えども都市を描くという手法を用いて、同じムンバイを舞台に様々な階層の人々の“フツーの生活”を通して、インド社会の階級制の「なごり」浮き彫りにした『裁き』(2014年制作/2017年公開/2017/8/2コメント投稿)という傑作映画があったのを思い出した。

(2025年11月4日/下高井戸シネマ)

★★★★
 

自然豊かなパリ郊外で静かに余生を暮らす老母(エレーヌ・ヴァンサン)をとことん疎む娘(ジョジアーヌ・バラスコ)。二人の過去の確執が引き起こす顛末が、フランソワーズ・オゾンの“語り過ぎない”絶妙な語りで描かれ、母娘を含めて六人の登場人物に過不足なく収斂していくサスペンスが見事。

犯さざるを得なかった過ちと、赦すことが叶わない業(ごう)の物語。

(2025年11月4日/下高井戸シネマ)

★★★★
 

今日で閉鎖される田舎の野球グランドに、むさ苦しいオッサンたちが三々五々集まって来る。粗野なジョークが飛び交うなか、ヤル気と負けん気に技量は追い付かないが、当人たちはいたって真剣な試合が続く。やがて男たちは無邪気で滑稽な戯れの裏側に潜んでいた“時空の亡霊”の悪戯に翻弄され異空間へ。

【以下、ネタバレです】

それはEEPHUS(超スローボール)に導かれるように出現した非日常への逃避願望か。あるいは未練たらしい自縛。それとも優しい地縛霊による呪縛なのかもしれない。まるで『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(ルイス・ブニュエル)の意地悪のようであり、『楽日』(ツァイ・ミンリャン)の時空の輪廻ようであり、『ブンミおじさんの森』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)が発散した自然の気配のようだった。

スポーツコメディのなかに堂々と“不条理”を仕掛けるカーソン・ランドという映画作家の“曲者ぶり”に驚いた。本作が初長編監督作で、2024年のカンヌ国際映画祭の監督週間選出作だそうだ。

(2025年10月30日/新宿ピカデリー)

★★★★

 

薄暗い屋内。背を丸め畳に顔を触れんばかりに近づけて、一心に絵筆を操る浮世絵師。来訪者により開けられた戸口から差し込む微かな光が閉じられた内世界と外界をつなぐ。そこは雨でも晴でも自然光に溢れた世間。そんな光の制御が印象的。大柄な長澤まさみの存在感が応為の“不敵”を担保して適役。

葛飾応為が主人公の作品はアニメ映画の『百日紅~Miss HOKUSAI~』 (2015)とNHKドラマの『眩(くらら)~北斎の娘』(2017)を観たことがあります。前者は杏、後者は宮崎あおいが応為を演じていました。今回の長澤まさみも含めて、三者三様ながら同じ系統の応為像でした。今度は江口のりこや安藤玉恵といった“やさぐれ感”が強めの役者さんの葛飾応為を観てみたいと思いました。

余談です。以前、応為の「吉原格子先図」を始めてみたときの感想をブログに書いたことがあります「光と影の境界。あるいは欲望が交錯するところ」→ https://ameblo.jp/ponsyuza/entry-12921870032.html

(2025年10月21日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★
 

時代から取り残され荒野のなかに忘れられたような人々が暮らす町。そんな生気のない故郷にすら居場所を失くしてしまた青年が、一匹のはぐれ犬に不器用に“共感”を見いだしていく姿が描かれる。

まず開巻一番、長い長いファーストカットの顛末に度肝を抜かれる。その後ほぼ全編、広角に切り取られた映像がスタイリッシュ。生命の光明を象徴する荘厳な日食シーンも神々しく美しい。

誤って友人を死なせ刑期を終えてた寡黙な青年(エディ・ポン)が、反抗的で奔放な一匹の野犬(黒い弾丸のようなシャープな体型がかっこいい)との交流を通じて再始動へ向かう物語。安易な“動物もの”にありがちな感動の過剰演出に陥ることなく、ひたすら抒情を排除してハードボイルドに徹した語り口がかっこ良く好感。

(2025年10月14日/新宿シネマカリテ)

★★★★
 

環境保護活動家のグレタ ・トゥーン ベリに共感する小学四年生の少女(瑠璃)の気を引こうと同級生の男子二人(嶋田鉄太/味元耀大)が、悪戯まがいの環境テロを仕掛けるという高田亮の脚本を、呉美保監督は「いかに子供を子供らしく撮るか」に集中してリアルと非リアルの狭間を絶妙なバランス感覚で綴っていく。

純粋無垢な女子アジテーターに、鬱憤ばらしきみの実力行使を提案する武闘派男子。そんな二人の関係に遅れまいと追随するノンポリ男子。そんな三人組小学生テロリストの成り行きが、大人社会の無邪気なパロディにも、現実を無視した抗議活動の風刺にも見え始め、この「ふつうの子ども」たちの物語は、いったいどこに着地するのだろうと観ていたら、終盤に差し掛かり教師と親たち交えて毒を含んだ、ぞっとするような「ふつうの大人」の、滑稽でいて笑うに笑えない展開に。

で、良いも悪いも、所詮この話に境界線など引けないのだからと言わんばかりに、確信犯的に呉美保監督は“落としどころ”を(見事に)はぐらかしてしまう。・・・・異議な~し、と納得する私でした。

(2025年10月12日/アップリンク吉祥寺)

★★★★
 

コザ暴動をクライマックスに据え、突然失せてしまった沖縄の誇りと良心(永山瑛太)を、探し続ける者(妻夫木聡 )と、待ち続ける者(広瀬すず)と、迷走し続ける者(窪田正孝 )の姿に託し、米国(米軍)支配の理不尽(つまり日本政府の無責任と日本国民の無関心)に異議申す骨太の娯楽映画。

・・・かと思っていたら。物語はどにも収斂せず“今の沖縄が置かれた現実”と同様に、収拾つかず情緒的に拡散し続ける。まあ、確かにそれもひとつの結論かもしれないが、3時間以上かけて何も語っていない、ということでもある。

本作は、日本が独立を回復してもなを沖縄が米国支配下に置か続けた期間(1952年から1972年)に流れた時間の物語であり、その意味で“時間”が物語の主役でもあるはずなのだが、その時間の“重さ”の欠落が物語の説得力のなさの原因のように思う。

物語が、失われた先導者であるオン(永山瑛太)を“探し求める”というサスペンスに向かわないので映画の軸が定まらないのがもどかしかった。映画的に工夫のない作劇や演出もさることながら、問題は原作(未読です)を刈り込めなかった脚本の段階にあったのでは。3時間10分間かけて何も消化されないフラストレーションが残った。

蛇足ですが、同時期に公開され同じく1952年を起点に30年に渡る“戦後の心の混沌”を描いた『遠い山なみの光』のシャープさと比べて、あまりにも鈍重な仕上がりでした。

(2025年9月30日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★
 

父と娘のパターナリズム関係を背景にした、昨今はやりの“ディール”と、その裏返しである“暴力”の話なのだが、当然ウェス・アンダーソンは(私と違って)そんな無粋な理屈を振りかざすことなく、すごろく的移動という実に映画的な“語り”を推進力に一気呵成に突っ走る。馬鹿々々しくかつ頑固な様式美が心地よい。

そんな冒頭からの疾走がスカーレット・ヨハンソンからベネディクト・カンバーバッチの逸話あたりで失速するのがもったいない。もっと奇想天外な“ひねり”を期待してしまうという贅沢な減点。

立て続けに新作を公開していたウディ・アレンが、もう撮ら(撮れ)なくなってしまった昨今、数年おきに“型式の力技”でもって楽しませてくれる映画作家はホン・サンスとこのウェス・アンダーソンくらいになってしまいましたね。次回作も楽しみしております。

(2025年9月25日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★
 

ある時代が突然の閃光によて切断されるように終わる。そこから始まる“それから”をどう始めればよいのか。大量殺戮の渦中にいながら命を長らえてしまった女たちの「喪失と悔悟」と「生への不安」がせめぎ合う。その見事な“不条理”の可視化にホラーのような戦慄を覚えた。

河原の女・佐知子(二階堂ふみ)とその娘に対する団地の妊婦(広瀬すず)の心情的な急接近に、いったい何がそうさせるのだろうと、いささか戸惑いながら観ていた。その彼女たちが背負ってしまった(背負わされてしまった)不条理の顛末に慄然とした。

不条理を承知で、無理やり前に進んだ悦子(吉田羊)は“不条理”にまみれた人生を生きてしまったのだろう。一方、悦子の義父(三浦友和)もまた予期せぬ不条理に襲われる。彼はその“不条理”を前にして立ちすくむ。この老年の男には、もう不条理を乗り越える時間も気力もなかたことだろう。

女(吉田)が過ごした長い混沌の人生と、男(三浦)が生きた短いが屈辱の余生。詮無いことかもしれないが、彼女の余生に安息のあらんことを願う。

今回もまた石川慶と組んだ撮影監督ピオトル・ニエミイスキの時代感を醸し出す丁寧な画作りが冴えていた。

(2025年9月18日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★★
 

スタンダードサイズに切り切り取られた風景の中、海辺の町の若きクリエーターたちの“ひたむきな純粋”が遭遇する、何か変だが、大して変でもないひと夏の出来事。計算ずくでも、ドタバタでも、脱力系でもなく、日常に滲む“可笑しみ”が滲み出て来る群像コメディ。

横浜聡子が面白いとか可笑しいと思う事象は、日常のなかにありそうもないけど、あるかもしれない小さな違和感。

『いとみち』(2022)という商業映画の成功を経たことで、『ウルトラミラクルラブストーリー』や『りんごのうかの少女』といった初期作品の突発的な破壊衝動が、良い意味で開放・拡散されて横浜オリジナルの“心地よい違和”の集合体となって結実したということだろうか。とは言えこの心地よさは、変態した横浜聡子のひとつの形態なのだろう。持ち味の定型に納まらなさが、次はどんなカタチ(映画)に向かうのかとても楽しみだ。

(2025年9月11日/MOVIX橋本)

★★★★