ぽんしゅう座

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映画の感想など徒然に

JKがタイムスリップして特攻隊員に恋する映画が大入りする時代。真っ向から“戦争”を描く塚本晋也の執拗さには頭が下がります。とは言え誤解を恐れずに書けば、苛烈な戦場描写を嫌というほど観てきた自称リベラル老映画ファンの私としては“戦争って怖いですね”な感想は今さら。

面白かったのは、ネルソン氏を前にした戦争を知らない者たちの“表情”にメッセージの核心を託したところ。一点の曇りのない瞳で“英雄”に問いかける黒人少女。自身の内心に潜む未知の暴力性に気づき動揺する高校生たち。被害の記憶を“友好”という曖昧さで覆い包もうとしているベトナム市民たち。そんな人々のまえにネルソンは自身をさらす。

兵士は、万人に潜在する暴力性の封印を解く(解かれる)ことで兵士たる役割をまっとうするという。その実践者として、加害者であり被害者であることを自覚するネルソンの存在は“万人に潜む暴力性”を逆照射する。その静だが紛れもない存在感が映画の迫力を支えていた。

塚本晋也はインタビューで若い人たちにこそ、ぜひ観て欲しいと語っている。東京都内の上映はわずか二館のみ。平日の昼間ということもあるのかもしれない。私の観た回に“若い人”は見当たらず中高年者ばかり。護憲、反戦、反原発を念仏のように唱え続けるオールド左翼を駆逐して新たなリベラルを“再生”する気配など皆無。いまや(いや元から)映画に、そんな力はないのでしょうか。

(2026年10月7日/kino cinema 新宿)

★★★★
 

日本海沿いの町。幼い大地(穐本陽月)は父親(永瀬正敏)の暴力にさらされる母(宮沢りえ)の姿を呆然と見つめていた。母と二人暮らで学齢期になった大地(榎本司/加藤庵次)は言葉を発することのできない失声症を発症していた。小学校にもまともに通わずアルコール依存気味の母に代わって家の雑事を強いられる日々が続く。ときは流れ大地(北村匠海)は身体のあちこちにタトゥーを入れた屈強な青年になっていた。

ビスタサイズ(16ミリだろう)の手持カメラ。新潟の重苦しく沈んだ冬景色のなか辛くきついシーンが続く。時間が経過しても新たな展開もなく状況は変わらない。なのに少年の姿から目が離せなくなっている自分に気づく。描かれているが被虐に苦しむ少年の悲劇ではなく、生きることに不器用な(愛情をカタチにできない)母親の業が作り出してしまう苦境を健気に受け入れている姿だからだろう。

映画が終わったとき、これは“優しさ”についての物語だったことに気づく。なんと心根の優しい少年だろう。ただその“優しさ”は"言葉”とともに行き場をなくし宙づりのままなのだ。幼いころに内山拓也監督も同じような理由で失声症を経験したという。しかし、この映画は監督のルサンチマンの発露ではなく、母親に対する愛憎すなわち“宙づりの優しさ”の可視化だったのだ。

私は監督の『佐々木、イン・マイ・マイン』の感想について「喪失の無常を力ずくで推進力に変える真摯さを断固支持する。生きることの尊厳に対する真摯さという誠実さのことだ」と書いている。前作『若き見知らぬ者たち』では精神疾患の母親に対する主人公の対応について「個人と社会システムの齟齬を強調し(中略)絶望的な“孤立”を描く意固地さを私は支持したい」と書いた。先行するに作品でも内山監督は“宙づりの優しさ”の納まりどころ模索していたことに気づいた。

(2026年10月3日/アップリンク吉祥寺)

★★★★
 

妄想・暴走ぎみの中学3年生・中井聡子(姫野花春)は周囲から浮いた変人・国語教師(吉田羊)に思わぬ課題を出されてしまう。仕事も不倫相手(オダギリ ジョー)との関係もマンネリの35歳、映画配給会社員・西田沙都子(有村架純)は踏んだり蹴ったりの大ピンチに。55歳の主婦・飯島里子(石田ひかり)は、3人の息子の子育てが終わり夫(筒井道隆)と二人だけの生活に時間を持て余し気味だった。沖田修一脚本・監督による、3人の“さとこ”にまつわる「書く」ことの物語。

理屈ではない純粋な初期衝動として「今」を書くこと。自己再生の確認衝動として「事実」を書くこと。埋もれていた表現欲求の再始動のため「記憶」を書くこと。物語を書き始める3人の“さとこ”の物語で構成される。各エピソードは伏線で結ばれているようで微妙にすれ違い、循環しているようであり平行しているようでもある。定石を外したこの三部構成の脚本を、これこそが“創作”の妙とばかりに自由闊達に組み立てる沖田修一の語りの軽さがとても楽しい。

なかでも中井聡子編のファーストカットのインパクトが素晴らしく、これから始まる物語の自由さを印象づけて強烈。中学生が発散する“いいかげんさ”と、その裏返しとしての理屈ではない“猛進”ぶりを軽妙に演じる姫野花春(まん丸顔に丸い鼻)のなんとチャーミングなこと。その後に続く二人の“さとこ(有村/石田)”の有りようを裏づける原点としての「書くことの初期衝動」を演じて間違いなく本作の支柱を担う存在感だった。今年発掘された最高の新人として記憶されることでしょう。

余談です。子育てが一段落した里子(石田)のエピソードに、「(ものを)書いたら人に見てもらわないと、何もないことになってしまう」という話が出来ます。思えば私が映画についての感想を書き留め始めたのも、仕事の形態が大きく変わって私的に自由になる時間を取り戻したときでした。偶然出会った「CinemaScape-映画批評空間-」というアマチュア映画評価サイトに、つたない駄文を投稿するとサイトに参加している“お仲間”から確かな反応のいただき“書くこと”が病みつきに。以来、四半世紀。「CinemaScape-映画批評空間-」消滅後も、性懲りもなく「観たら書く、書いた投稿する」がクセになっております。確かに「(ものを)書いたら人に見てもらわないと、何もないことになってしまう」が私の惰性力の源泉なのかもしれません。

(2026年9月24日/アップリンク吉祥寺)

★★★★
 

大阪でカウンセラーとして働く希(のん)には自閉スペクトラム症の兄大貴(安田章大)がいた。母親を早くに亡くした二人は家庭をかえりみない父とは距離をおき暮らしてきた。今は大貴もグループホームを出て清掃会社で働きながら自立して暮らしている。そんな希に結婚話が持ち上がり、大貴とともに東京に住む相手の両親に会いに行くことになる。

自分は相手のことを理解している。それは相手にも伝わっているはずだ。兄の障害という“二人の困難”を抱えた妹が普通に生きていくためには、そう信じることが心の支えだったのだろう。だが、自分と兄にとっての普通を貫こうとして二人は世間の“普通”の壁に突き当たる。本当に兄は分かってくれているのだろうか。互いにその“つもり”になっているだけではないのか。その迷いは自分の正直な気持ちなのか。それともエゴなのか。

身内の障がい者との信頼関係。相互のコミュニケーションは強固だからこそ孤立的な危うさもはらんでいる。そんな難しいテーマに挑んだ真摯な作品だと思う。物語は兄のコミカルな行動と、妹の平穏(そう)な日常というソフトな対立構図のなかで語られる。そこでは、ほとんど言葉を発しない兄に対して、妹の言葉(セリフ)は“独り言”のように空を切る。その会話の不成立は映画として退屈さという困難も抱えてしまっているともいえる。

二人の関係性は、球の戻ってこない壁打ちのような空疎さで、物語の起爆剤であるはずのソフトな対立関係に緊張感は生まれず、ひたすら安田章大とのんが“お芝居”をしているだけに見えてしまった。シナリオの定型的な構成や、安易に感じてしまう言葉のチョイスも影響しているかもしれない。

(2026年9月24日/アップリンク吉祥寺)

★★★
 

自然豊かな東北地方のある町。小学校四年の藤野(七瀬ふうり)が学年新聞に連載する4コマ漫画は大人気だった。級友たちの称賛の声に余裕で応える自惚れ屋だが、紙面に同時掲載されることになった同級の不登校児・京本(岡田六花)の画力の高さに圧倒されてしまう。やがて二人はコンビを組むようになり、中学生となった藤野(出口夏希)と京本(蒔田彩珠)は初の短編作を手に東京の出版社を訪ねる。押山清高がアニメーション化して話題となった藤本タツキの原作漫画を是枝裕和監督が実写映画化。

先行するアニメがあるのでどうしても比較してしまう。アニメ版は創作活動がはらむネガティブな「苦しみ」よりも、創作のポジティブな発露としての「喜び」を徹底的に描ききることで悲しみを乗り越える可能性を示唆した秀作だった。ほぼ同じストーリーをなぞりながらも本作から受ける印象はずいぶん違う。

小学生時代の藤野と京本のパートでは、二次元のアニメでは表現しきれない実写ならではの“情感”が徹底的に強調される。渡り鳥の飛来。白銀の野原。満開の桜。新緑の山なみ。豊かな水田の緑。そのなかで教師や家族に見守られながら無心に創作に没頭する藤野と京本の歳月が鮮やかに描かれる。少女たちの表情や声、四季の移ろいから立ち上がってくるのは実写ならではの豊饒な“心の温度”だ。その高揚と没入感は、かつて夢を追ったことのある(そして、それが叶わなった)多くの者(私たち)の想いと共振し、あのときの“心の温度”を呼び覚ます。

そして後半。プロとなった藤野(出口夏希)の瀟洒な仕事場が印象的だ。目黒川沿いだろうか。美しいフォルムのビルの最上階。藤野の作業机のまえの広い窓からは、最も東京らしい“東京の風景”が一望できる。白を基調とした広い部屋にはデジタル機器が配置され複数のアシスタントたちが湧きあい合いと作業をこなす。彼らは二十歳そこそこの藤野と同世代か、むしろ年上かもしれない。そこに立ち込めるどこか冷やりとした“心の温度”感は「創作し続ける」ことで孤独に立ち向かう藤野が醸し出す“孤独”だ。それは是枝裕和から押山清高や藤本タツキへのリスペクトなのかもしれない。

先行する優れた二次元作品とは異なる“情感”に溢れた見事な実写化の成功作だった。

(2026年9月18日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★
 

地方からサンパウロへやって来てタイピスト見習いとして働き始めたマカーベア(マルセリア・カルタッショ)。世間知らずで読み書きもままならず、顔立もスタイルも悪く、何をとっても人並み以下の19歳、処女。粗末な下宿で似たような境遇の女たちと暮らし始めるが、ラジオから流れる“豆知識”を終始聞きながらマイペースを崩さずここでも浮いた存在。そんな彼女が、奔放に男と遊びまわる職場の先輩女性をみて・・・・。

予告編を観たときから気になっていたのですが、ほぼ事前情報ゼロで何とか終映まぎわに鑑賞。商業映画としての有りようの非常識さに唖然。確信犯としてあっけらかんとした西欧的ポリコレからの逸脱ぶりに反論する言葉がみつからないのです。問答無用のしがらみからの解放が爽快。

粗末な下宿に巣くう雑多なルーツの女たち。背徳かつ刹那的に男をあさる同僚女。身なりの見栄えにこだわる少数民族出身の溶接工。神との同化を自認する下世話な女占い師。豊かさの象徴として形骸化した白人コンプレックス。そんな“どうしようもない世間”が、容姿、知性、名前、生育過程、生活能力、経済力どれも並み以下のマカーベアにとっての日常だ。ラジオから垂れ流される無為な豆知識が“世間の常識”だと思い込むことで日々をただただ消費する。

マカーベアは“幸福”を諦めているわけではなさそうだ。ただフーツーの幸福(生活)からあまりにも隔たれすぎて、フーツーの幸福のカタチを描くことができないのだ。地に足の着かないふわふわとした“夢想”が、彼女の下層生活をさらに固定化してしまっている。監督のスザーナ・アマラウは、そんなマカーベアの“境遇”を否定も肯定もせず、救いの手も差し伸べずあるがままに放置する。所詮、世界はそんなものでしょう、な感覚。

常識をまえにして常識が理解できず思考が停止した困惑顔。自分の境遇を理解することを放棄した幸薄いほほ笑み顔。二つの貧しい表情を繰り返すだけのマカーベアが最後に見せる満面の笑顔。その笑顔を生み出す西欧的ポリコレの罪深いこと。映画を観終わったあとの残酷な“爽快感”に背筋か寒くなった。

以前、気になって書き留めておいた短歌を思い出した

    運命に しだいにやさしくなり
    ひとは災いとして すべてをゆるす
                                              井上法子

最後に監督と原作者の略歴をメモとして(Wikipedia他より)

監督のスザーナ・アマラウは1932年生まれ。9人の子育て後にニューヨーク大学で映画制作を学ぶ。53歳で初の長編作『星の時』を完成させたブラジルの女性監督の先駆者。2020年88歳没。他に脚本やドキュメンタリー作もあるそうですが長編劇映画は寡作で他2作のみ。両方とも文学作品の映画化で高い評価を得ているそうです。これを機会にぜひた作品も日本公開して欲しいものです。

原作は「ブラジルのバージニア・ウルフ」と称されるラリッセ・リスペクトル。1920年、ウクライナの貧寒地生まれのユダヤ人女性。生後間もなくブラジルへ移住。リオの大学を出たあと23歳で作家デビュー。イタリア、スイス、イギリス、アメリアで執筆活動を続けブラジルへ帰国。死の直前1977年(56歳没)に発表したのが本作だそうです。来歴の上辺をなぞっただけでも“波乱”の気配のする人です。

(2026年9月15日/新宿武蔵野館)

★★★★

シングルマザーのシューフェン(ジャネル・ツァイ)は、10代後半の長女イーアン(マー・シーユエン)と5歳の次女イージン(ニーナ・イエ)とともに、生活を立て直すために故郷の台北へ戻って来る。夜市で小さな店舗を借りて麺屋台を始めるが、反抗的な長女はセクシーな衣装でビンロウを売る怪しげな売り子になり母の店を手伝おうとしない。そんな大人の事情の分からない5歳の次女は刺激的な台北の街に大興奮。だが厳格な祖父から“左きき”を直すようにきつく注意されてしまう。

物語の成り行きはかなりハードなのだが、映画のルックを作り出す二つの要素が“明るさ”を担保しギリギリのところで“悲惨さ”を回避する。ひとつは、iPhoneによる撮影が作り出す映像の、良い意味で作為的な被写体との距離感。色彩と光線が強調された夜市の煌びやか情景や、街を疾走する姉妹の二人乗りバイクの爽快感はファンタジックで幻想的だ。さらに、その作為的な距離感は見る者(観客)の安易な感情移入をブロックし、一家の苦境に対する親戚一同の冷たい対応も、どこか滑稽で喜劇的にすらみえてしまう。

もう一つは、5歳の次女を演じるニーナ・イエの見事な“丸顔”。純粋に映画造形として印象的なのだ。経済的な生活不安が張り付き強張った母親シューフェンの困惑顔と、母親に苛立ち反抗的な長女イーアンの刺々しく険しい顔。そんな一家の危機的な“表情”の対立の間にあって、次女のゆるぎない“まんまるな笑顔”が、映画的ビジュアルとして奇跡的な安堵感を生み出している。その絶妙な“顔の均衡”が物語の底に微かに、だが確かに存在している一家の良く末の希望を暗示しているように見えた。

監督のツォウ・シーチンは、カンヌ&アカデミー賞作『ANORA アノーラ』のション・ベイカー監督の常連製作パートナーで『テイクアウト』(2004)にも共同監督として参加している。『テイクアウト』は、ニューヨークの街を疾走する歯切れの良いカッティングがベイカー作品としては異色だったが、本作を観るとシーチンの影響が大きかったのが良く分かる。

(2026年9月10日/新宿武蔵野館)

★★★★
 

死んで当然と言われていた悪評高い探偵の米本(佐藤二郎)が殺された。同じ事務所の探偵・佐竹(西島秀俊)は見習い中の聡子(満島ひかり)と組んで事件の真相を調査することになる。敏腕だが酒が手放せなず荒み切った佐竹に振り回される聡子。やがて二人は9年前の乳児誘拐事件にたどりつく。

冒頭から、たたみ掛けるようように有無を言わさず観客を二人(西島・満島)の“調査”に巻き込んでしまう語り口の疾走感に圧倒される。以降も、短く切り刻まれた多彩な人物の様々な思いや行動が、綾をなしながら「親と子」の関係に収斂されていく。そこに浮き彫りにされるのは、避けがたい理想と現実の対立、そして思慕とエゴの葛藤のやるせなさ。

 

それは如何ともしがたい人の業だ。障がい児たちに向き合う保護者の困難と、障がい児たちの無垢な笑顔を真正面からとらえる制作者たちの勇気が“人間の価値”の天秤を等価に保つ志の高い稀有な秀作でした。

余談です。第一子の誕生を間近に控えていたときのこと。通勤で渡る架道橋の下に養護施設に通う障がい児の集合場所がありました。その橋から毎朝、送迎車を待つ障がい児と保護者の集団が見えました。毎日、毎日、彼らを目にしているうちに、私は漠然とした不安を抱くようになっていました。偏見や差別意識はなかった思います。もしも私が、その立場になたとき果たして“当事者”として一生涯を通して、その現実に対応できるだろうかという不安だっと思います。病室で長女と初めて対面したとき、まず産着に隠れた彼女の両手足を確認したい衝動にかられたのを覚えています。この話は、今まで誰にもしたことはありませんでした。『時には懺悔を』を観て当時のことを思い出しました。

(2026年9月8日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★
 

1950年代、戒厳令下の台湾。反政府活動の嫌疑で処刑された兄の遺体を引き取るため、15歳の少女・阿月(ケイトリン・ファン)はひとりで台北へ向かう。遺体の安置場所も分からず、多額の引き取り費用も足りず困惑する阿月。そんな彼女に同情した、大陸から派兵され本土に帰れなくなった元国民軍兵士で、人力車の車夫をしていた青年・公道(ウィル・オー)は同行することに。プライドが高く直情型の公道もまた、スパイの嫌疑で厳しい取調べを受けた経験があった。

犬去りて豚来たる。厳格で不自由な日本統治が終わったと思ったら、高圧的で腐敗した国民党の支配が始まった当時の台湾社会をそう呼ぶのだと聞いたことがある。まさに、そんな空気の象徴として土気色にくすんだ画面に包まれた情景のなか、善意と悪意、希望と絶望の境界を見失った人々の混沌が物語の背景に散りばめられる。

「月」と「公の道」の名前を持つ少女と青年は、くすんだ景色のなか愚鈍な亀のごとく、ひたすら前へ前へ歩を進めることをあきらめない。今、起きている悲劇の犠牲者をないがしろにすることなく“弔う”ことが、彼らの意志を未来へとつなぐことだと本能的に察しているかのようだ。重苦しい停滞のなかを、見えない“未来”へ向かってがむしゃらに突き進むことでしか抵抗できない“未来があるはずの者”の心情を暗示して愛おしく、息苦しく、切ない。

暗黒の時代を潜り抜け、その後の年月を経た少女と青年の未来の“さりげのない姿”に秘められた重さを想像し感涙を禁じえなかった。

(2026年9月3日/下高井戸シネマ)

★★★★
 

シングルファザーの星野学(毎熊克哉)は三人の娘と、ある島の一軒家で世間に気を使いながらひっそりと暮らしている。理由は三女のひかり(鈴木凜子)が生まれつき透明人間だから!!ひかりの将来を思えば思うほど、心配性の学は彼女の存在を隠そうと必死だが、長女の風子(近藤華)と次女の音々(矢山花)は、そんな父親の心情など一向に気にしていない。当人のひかりも勝手気ままで怖いもの知らず。そんな一家が義母(余貴美子)のお見舞いのために東京へ向かうことに!!

まずは透明人間の存在を、何のエクスキューズ(言いわけ)もなしに肯定して物語を綴る潔さが好い。そこに三人娘の自由奔放なキャラクターと、眉間に皺寄せながらも高圧ぶりがことごとく空振りする憎めないお父さんの好演が相まって良質のファンタジー・コメディが素直に成立してしまった佳作。

深刻な展開や説教くさい理屈などに頼らず、世にはびこるダサい先入観や偏見を“無化”してしまう無手勝パワーが魅力的。これは無邪気で良質な(あまり好きな名称ではないが)教育映画といってもいいのでは。文科省は、こうゆう映画こそ“推薦作品”として大々的にPRすべきですね・・・いや、ホンマに!!

同じ竹林亮監督、夏生さえり脚本コンビの「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」は、テクニックの見栄えは良いが、タイムループを得心させるストーリーテリングに物足りなさを感じたのですが、本作は“不思議”の理由になど目もくれず“現状の全肯定”で押し切ったのが大成功。

(2026年9月1日/MOVIX橋本)

★★★★