ぽんしゅう座

ぽんしゅう座

映画の感想など徒然に

結婚式を7日後に控えたイギリス人のチャーリー(ロバート・パティンソン)とアメリカ娘エマ(ゼンデイヤ)は、式を手伝ってくれる友人夫婦(   ママドゥ・アチェイ/アラナ・ハイム)と会食中に酔った勢いで“過去にしでかした最悪のコト”を告白することに。最後に語ったエマのエピソードの重大性に未遂とはいえ全員ドン引き。チャーリーは、今もエマには隠された暴力性が潜んでいるのではと疑心暗鬼になってしまう。

話しはチャーリーの混乱、狼狽ぶりを推進力に、現実、過去、空想を巧みに織り交ぜながら、ときに深刻に、ときにブラックに、ときにコミカルに結婚式に向かって爆走する。その間、チャーリーとエマの“関係”や“心情”は何の展開もなく二人の問題は行きつ戻りつしながら停滞し続ける。それが脚本・監督のクリストファー・ボルグリの戦術だと理解はできるのですが、クライマックスへ向かって緊張感は薄れていってしまう。とは言え、本作の問題意識や展開は正当で理解できるので、そこに映画の評価の優劣を左右するような瑕疵がある分けではないと思います。

【以下、ネタバレです】
エマの告白よりも、私にはチャーリーや友人夫婦の“過去にしでかした最悪のコト”の方が深刻な問題だと感じてしまいました。それが一般的な日本人のキャンセル感覚なのではないでしょうか。

(2026年8月25日/イオンシネマ多摩センター)

★★★★
 

今年は観逃したした映画も二番館で追いかけながら順調に過ごしてきたんです、6月までは。7月も2日、3日と連チャンで観て翌週も4本観る予定だったんです。なのに、2年ぶりに激しめの腰痛が再発。歩けない。7日にハシゴで観る予定だた2本分のリザーブもパア。前回のときも調子に乗って連日映画館通いをしていて発症したのを今更ながら思い出しました。

以降、週末ごとに観たい映画の上映館と開始時間の一覧表を作って、パズルを解くようにスケジュールを立てるのですが虚しい。観たかった作品はどんどん終わり、観たい作品がどんどん始まり、その“停滞”に正比例するようにストレスが上昇。いまだ一本も観れないまま今日に至り、7月最終週のカレンダーを見ながら深いため息をついています。

映画の観過ぎは身体(腰)に悪い。映画が観れないのは頭(精神)に悪い。映画好きのみなさま、酷暑の折りお気をつけください。
 

10代で妊娠出産した少女たちを支援する施設。母親の顔を知らないために親としての感情が湧かないジェシカ。少年院を出所した彼氏と家庭を築くことに希望をみいだすぺルラ。娘を養子に出して学校へ復帰することを決断したアリアンヌ。薬物中毒の後遺症を克服して社会復帰を目指すジュリー。彼女たちの葛藤とそれを支える施設職員たちの群像劇。

引きの映像はほとんどなく、カメラは近距離から客観的に彼女たちの動向を追い続ける。そのドラマ的演出を排除したリアルで冷静な“視線”は観る者に安易な感情移入を許さない。

私は、シビアな状況と暗澹に観客の感情を誘導するかのようなダルデンヌ兄弟の監督作が苦手だった。今回はドキュメンタリーを彷彿とする群像劇のためか、それぞれが置かれている状況や、そこへ至った事情の多様性(リアル)が担保され説得力を持って伝わってきた。

若い彼女たちに準備された映画としての結末は、彼女たちの希望の始まりであり、まだ始まりでしかないという人生の多様性(リアル)を示唆して誠実な終幕だった。あとは彼女たちの行く末を祈るのみ。

(2026年7月3日/下高井戸シネマ)

★★★★
 

幼子を二人かかえて夫の横領が発覚した和歌子(有村架純)。奨学金の返済に追われるアラフォーの非正規研究員・清恵(黒木華)。生活力のない母親と高校生の妹と暮らすキャバ嬢・麻由(南沙良)。運び屋の闇バイトで知り合った三人は意気投合、自分たちで資金を調達し金の密輸を始めるが・・・・。

茫洋にみえて行動力を発揮する童顔の子持ち主婦・有村架純が健気です。黒木華の生真面目でミーハーな関西風味のヤケクソ・インテリはいかにもいそう。南沙良を観るのはは『万事快調 <オール・グリーンズ>』、『禍禍女』に続いて今年3作目の大活躍。

天野千尋監督と熊谷まどか脚本の話運びは快調で、図に乗り調子づく三人の解放感は爽快で楽しいが、この手の“女性解放”話しはどう締めるかが肝心。私の好みは『テルマ&ルイーズ』。

(2026年7月2日/イオンシネマ多摩センター)

★★★
 

潔いほど(原作未読ですが)話を刈り込んで、良い意味で余白をとらずに謎解きだけに集中した脚本。巧みなカット繋ぎでテンポよく観る者の集中力をそらさない語り口。古今東西の映画的記憶を駆使したシネフィル黒沢清の手腕が冴える。結果、謎解き短編集的な面白さで見せ切って、終わってみれば物語総体で厭戦感を作り出すことに成功していたと思います。

黒沢清初の時代劇ときいて、持ち味の作家性がどう昇華されるかに期待した黒沢マニアは肩透かしを食ったのでは・・・・。近作の『Cloud クラウド』の煮え切らなさや『蛇の道』(2024)や『Chime』の中途半端な原点回帰にフラストレーションを感じていた私には、この“らしくなさ”は好感でした。

唯一気づいた“黒沢印”は、企みがバレて一目散に逃げるとき、ヤケクソ気味に道端に積まれた物の山を崩して追手の道をふさぐヤツ。Vシネ時代は、必ず段ボールやゴミ袋の山を崩していたのを思い出しで思わず笑ってしまいました。

(2026年6月28日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★

 

パリの介護施設。責任者のマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は、先進的な実践介護を導入しようと試みているが現場の反発に合い行き詰っていた。そんなとき、ある出来事をきっかけに知り合った舞台演出家・森崎真理(岡本多緒)の演劇を観に行く。精神病院の開放の困難さをテーマにした演目の題名は「近づいてみると、誰もまともじゃない」。上演後の通訳を交えた質疑時間、マリー=ルーは流ちょうな日本語で「不可能は可能になると思うか」と質問する。「不可能なものは不可能だ」と真理はきっぱり応える。この二人の告白に根差した“日本語”の会話(疎通)の明快さに何故か身震いがした。観終わったあとこの交感に本作のエッセンスが凝縮されていたことに気づく。

これを機に日本語とフランス語を交えた二人の会話が何の不自然さもなく続く。この夕方から夜を超えて流れるような二人の動向が美しい。本作もまた濱口竜介らしい濃密な会話劇だ。ただ過去作の『PASSION』、『ハッピーアワー』、『寝ても覚めても』さらに『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』は、執拗な長回しによる“会話”が現実から観客を切り離して独特のトランス効果を生み出していた。今回のマリー=ルーと真理の会話の背景には“場所移動と時間経過”という物理的な現実がしっかり描かれいる。その“現実”を認識することで、疲弊した既存の構造(システム)に立ち向かい、不可能を可能にするための手立てを探るのだ。

 

末期癌という“不可能”を抱えた真理の認識には、すでに迷いはない。だからマリー=ルーの迷いの元凶を明快に指摘する。真理の達観は女神が説く真理(しんり)の如く既存のシステム(構造)を攪拌する。既成技術と制度変革。権力行使と被支配。投入資本と効果。攪拌するという真理(実行)は理想でしかない、という困難をかかえていたとしても。

いささか解釈に戸惑った前作『悪は存在しない』に比べて、現実という困難を直視して示唆に富んだ映画でした。

(2026年6月26日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★★
 

学生時代から目標が二転三転し、30歳を目前に進むべき道の定まらい書店員ユリヤ。自らの願望に妥協はしないが大した努力もせず、結果自我の赴くまま流れに身をまかせる。そんな選択の“迷い”を迷いだとも思わない自然体が引き起こす功罪にも“めげない(というか鈍感な善良)女”をレナーテ・レインスヴェが好演する。

現実が幻想のように、願望が現実のように、かと思えば現実のシビアさは辛辣に、14章に巧みに構成されたエスキル・フォクトの共同脚本を、ヨアキム・トリアーは説明は最小限に抑え“状況”をテンポよくたたみ掛け映像化していく。この監督脚本コンビの巧みな物語造形は、カンヌ・グランプリ受賞作『センチメンタル・バリュー』(2025)の原型ですね。

あと両作品とも「女系家族」の系譜がさりげなく示唆されます。今後のヨアキム・トリアー&エスキル・フォクト作品の裏主題になっていくのでしょうか。

(2026年6月23日/下高井戸シネマ)

★★★★
 

無名ながらも、今年(2026)前半の予期せぬ収穫の一本でした。

1977年、静岡。生まれたばかりの赤ん坊の世話に追われる富士子(片山友希)は、義母(YOU)と義姉(瀬戸さおり)の理不尽な要求と、頼りにならない夫(橋本淳)に愛想をつかし嫁ぎ先を飛び出してしまう。まだ世間はシングルマザーに厳しい時代。実家の母(岸本加代子)の理解も得られず乳飲み子を抱えて悪戦苦闘の生活が始まる。

どん詰まりのエピソードが続くのですが話のオチにはユーモアが滲み、富士子をただの悲劇のヒロインにしないところが素晴らしい。髪の毛振り乱しギリギリの状況に抗う若い母親の(笑いを誘うほどの)意地を片山友希が好演。この俳優さんを知らなかったのでフィルモグラフィーを調べてみたら何作か見ていたのですが記憶にありませんでした。懸命さの裏返しとしての、彼女のコミカルな挙動や表情が本作のポジティブさを支えて貢献度大でした。

富士子のモデルは木村太一監督のお母さんだそうで映画に通底するこの"ポジティブ"さは、今ある監督の幸福感とそれを実現してくれたお母さんへの敬意の現れたど感じました。MV界では著名だという木村監督の語り口は軽快で、脚本の我人祥太はお笑い芸人出身の放送作家で國吉咲貴は劇団を主宰する若手の演出家だそうです。三人とも未知の作家でしたが映画界に一波乱起こしてくれそうな予感のする才能でした。

企画・プロデュースは俳優のMEGUMI。彼女がプロデュースした竹中直人監督の『零落』(2022)も素晴らしい映画でした。脇を固めるYOU、岸本加代子、リリー・フランキー、うじきつよし、竹下景子、イッセー尾形といった豪華なは俳優の起用も彼女の手腕でしょうか。瀬戸さおりを交えたYOUと岸本加代子の“本気度満開”のバトルは大いに笑えて必見。

(2026年6月23日/テアトル新宿)

★★★★
 

観る前は「子供を亡くした夫婦とヒューマノイドの息子の物語」だときいて、ありがちな家族の癒しや死生観のドラマを想像していた。気が重いなあと感じていた底浅い私の発想を、是枝祐和のオリジナル脚本はみごとに覆し物語を定型の範疇に納めたりはしない。

妻(綾瀬はるか)は先進的な住空間を追及する建築家。夫(大吾)は伝統的な工法にこだわる工務店の棟梁社長。二人は互いの理想をカタチにしたオリジナル設計の住宅で暮らしている。湘南の光に溢れた生活空間は伝統的な木材を使いながら、大胆にガラス素材を調和させ光を贅沢に取り込み、庭に植えられた草木の成長がそこに暮らす人の成熟時間と連動する、まさに生を活かした空間だ。

そんな二人は七歳の息子を亡くしている。その理由は明かされない。口に出さないまでも、互いに欠落感を心の底に抱えている二人は葛藤しながら、その理想空間へ息子のアンドロイド(栞木里夢)を迎え入れる。

木材とガラス。人間とロボット。生命と死滅。そんな有機と無機の共存というテーマが、たっぷりと光を取り込んだ撮影監督・近藤龍人の映像と、伊藤佐智子が採り入れるナチュラルな色と風合いの衣装によって、さり気なくも通底し映画のトーンを規定する。さらに妻の母(余貴美子)や顧客(野呂佳代)、老大工(田中泯)の達観した存在があいまって、深刻なはずの妻と夫の葛藤は自縄自縛に陥ることなく冷静に保たれる。

やがて、人としての自分の心のなかが見えなった夫婦は、人ではないモノの存在とその視点を得て自身を客体化する。そして命を持たないアンドロイドは人の記憶をもとに生命の循環を理解する。みえてくるのは、あたかも神の視点を得たような有機と無機の「調和」だ。たとえそれがファンタジックな理想郷だとしても・・・・。

冒頭、この物語は「そんなに遠くない未来の話」だとことわりが入る。この「調和」の物語は、近い将来に見えてくるはずだという是枝祐和の願望なのだと感じた。

(2026年6月17日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★★
 

土気色の世界。激しくも単調な重低音のビートが鼓膜にまとわりつき呪術的陶酔を生む。爆音に身をゆだね放心した群衆の波のなか、父と息子が失踪した娘を捜してまわる。何かを諦め社会システムから逃避した群衆と、まだ何かを諦めず家族というシステムに望みを託す父子。

そんな対比が波乱の予感を漂わせる長いイントロダクションが終わり、父と息子は、女二人と男三人のグループと共に“その先”を目指す。男の一人は左足の膝から下が、もう一人は右手首から先が欠損している。軍隊が砂漠を進行し第三次世界大戦や世界の終わりといったワードがさりげなく語られるが、それが現実なのか比喩なのか定かではない。

人物たちの背景や過去は何も語られない。物語は砂漠のレイブイベントを起点に、ひたすら“前へ前へ”と進む。タイトルの『シラート(Sirat)』とは「天国へと続く細い橋」という意味だそうだ。決して逆戻りしない(できない)彼らは、その細い橋を渡りながら、かろうじて“生存という本能”を共有し繋がりを保っているかのようだ。荒涼のなかの良心。

【以下、ネタバレです】

そんな繋がりを無化するように“状況”は彼らに鉄槌を振り下ろす。広大な砂漠の疾走が行きつく先は、この世の隘路。放心したように“ただ運ばれていく者たち”が示唆するのは、その先の無力な彷徨。

(2026年6月14日/MOVIX橋本)

★★★★