開巻早々の「家の一人称で綴られる少女の作文」から、女優となった少女の動揺へと続く有無を言わせぬ突進力で一気に物語に引き込まれる。以降、女優ノーラとアート系映画監督の父親との確執が妹アグネス、姉妹の母、そして祖母の影を交えながら描かれる。
姉妹は自分たちを捨てたも同然の父に激しい拒否感を抱きながらも、正面から激しく衝突するでもなく、父の言動を観察しながら距離を保ち続けるように拒絶し続ける。そこに見え隠れする男尊女卑、反体制活動、精神的動揺、創作至上主義。そんな“因果”が絶妙な間合いの逸話の積み重ねで綴られていく。
家族の確執は、そのもととなった時間と場所の象徴である物理的な“家”を核にして、彼ら共通の再生力の源である創造と協働としての“映画”へと収斂されていく。虚構の意義、すなわち物語の力を信じるヨアキム・トリアーの思いが伝わってくる傑作だった。
(2026年3月16日/ル・シネマ渋谷宮下)
★★★★★
笑えない話なのに大笑いさせてくれるクライム・ブラックコメディの佳作。そうですか、一世を風靡したイケメン〈イ・ビョンホン〉も55歳なんですね。
高卒ながら、職人気質と勤勉という“不器用な武器”のみで手に入れた中産階級の幸福を、文字通り死守する中年オヤジの無謀な暴走をイ・ビョンホンが軽妙に好演。真顔に張り付いた“上手くいかなさ”はチャップリンを彷彿とさせ、ライバル(イ・ソンミン)とその妻(ヨム・ヘラン)と“死闘”を繰り広げるスラップ・スティックは圧巻。
パク・チャヌク作品は、ちょっと、くどいところが苦手なのですが、今回は『親切なクムジャさん』、『イノセント・ガーデン』と並んぶ私のベスト3入り作でした。
(2026年3月13日/TOHOシネマズ南大沢)
★★★★
湧き出るように人が溢れる街角。夜にはそんな無名の民のささやかな生活が家々の窓明かりに浮かぶ。象徴的に頻出し画面を縦横に行き交う電車と、その四角く閉ざされた車内。東京で暮らすパッとしないアメリカ人役者フリップ(ブレンダン・フレーザー)のアパートの部屋もジャパニーズ仕様だ。サイズの合わない造作物に囲まれて巨体を持て余す彼の生活は、文字通り物理的にも精神的にも窮屈そうだ。そんなユーモラスだが懸命で、ちょっと寂しげなフィリップの姿に彼の生真面目さが滲む。
レンタル・ファミリーの仕事に“人を騙す”後ろめたさを感じながらもフィリップは、小学生の少女(ゴーマン・シャノン・眞陽)が自信をもって未来へ歩むための、そして老俳優(柄本明)が得心をもって人生を締めくくための“役割を演じる”ことになる。それが演じることではなく“担うこと”だと気づいたときフィリップは、自分のなかに“自分”をみつけたようだ。すばらしいラストショットだった。
物語の根底を流れるのは監督のHIKARIの日本的な人情の機微だ。ともすれば過剰に情緒的になりがちなウエットなテーマが、アメリカ仕込みのHIKARI監督の映像感性と、巧みな編集と音楽使いを駆使したハリウッドテイストでスタイリッシュに描かれる。日本を舞台にして、私たち(日本人)の感性をこんなにもスマートに納得させるアメリカ映画に初めて出会った気がする。その意味で日米映画史上のエポックとなる傑作と言っても過言ではないのでは。
(2026年3月6日/TOHOシネマズ南大沢)
★★★★★
テレビ映画として2部構成で制作され、後に映画祭の上映で注目されたケン・ローチ監督の社会派ドラマ。1970年代の南ヨークシャーの炭鉱町。おりからの石炭の重要による増産要請に採掘が追い付かず、炭鉱の経営幹部は嬉しい愚痴をこぼしていた。
○第一部:炭鉱の人々
そんな炭鉱町にチャールズ皇太子が公式視察に訪れることになった。経営幹部たちは老朽化した施設の見栄えにこだわり経費を使って付け焼刃の修復作業に右往左往。王室の無駄な視察に反対する労働者も一部いるが、ほとんどの鉱夫たちは幹部のドタバタ騒動に従順に付き合いながら視察の日を迎える。その滑稽な主従関係に、貴族制度という階級社会に、さらに産業革命によって上書きされた労使関係という二重階級構造がみえ始める。ケン・ローチはこの“喜劇”のなかに、王室も資本家も労働者もが当たり前のように“階級”を受け入れて、そこに安住する相互依存的な矛盾を浮き彫りにする。
○第二部:現実との直面
皇太子の視察から一か月。炭鉱町はいつもの淡々とした生活に戻っていた。そんななか、地下で
爆発事故が発生する。坑内には8名の工夫が閉じ込めれら、救援隊や同僚工夫たちによる懸命な救助活動が行われるなかマスコミも集まり始める。経営陣によって会社の一室に集められた安否不明者たちの家族は、ひたすら不安に耐える以外に成すすべもない。そんな様子が時系列的に、ドラマ的演出を排しドキュメンタリーのように淡々と描かれていく。そこには、突発的に日常や家族との関係を断ち切られ、文字通り孤立する個人(労働者)の社会的な危うさが残酷に露呈する。
(2026年2月16日/下高井戸シネマ)
★★★★
映画はタイトルから連想されるような勧善懲悪の告発エンタメを志向しない。アイドルを目指す少女を利潤のための商材として扱うプロダクションの商業主義も、彼女たちを疑似恋愛の対象として無自覚に消費するファンのエゴも、それぞれの利益の代弁者として合理のみを追及する司法の冷徹も描かれない。優劣も勝ち負けもない、それぞれが、それぞれの立場でのふるまいとしての「リアル」が描かれる。
深田晃司監督の、人としての思い(恋愛感情)を侵害された者に寄り添う視線の先に見えてくるのは、自分が選んだはずの自分の生き方を、自分ひとりだけでは決められないという矛盾に戸惑う真衣(齊藤京子)の姿だ。10代のころに抱いた漠然とした憧れ、しかし確固とした思いを実現する過程で、真衣が直面する「主体性」の根拠の曖昧さと、実践の困難さについての、この物語が問いかけるのは「それでも自分で決める」ことの意義と尊重ついて。
(2026年2月4日/TOHOシネマズ南大沢)
★★★
山の民として生きていた男(リー・カンション)は、善意(あるいは諦念)の放火により郷を失い丸裸でひとり下界に降り立つ。一軒の農家に身を寄せ、主である老婆(ケイタケイ)に飼われるように日々を送り、彼女亡きあとを引き継ぎ農耕民となる。そこで一頭の雌牛と出会った男は、彼女と(まるで夫婦のように)労働パートナーとしての信頼関係を築く。が、突如その関係に闖入してきた修行僧(田中泯)の俗的な勧めに戸惑いつつも金銭の俗欲を得るようになる。
そんな経緯が、禅の悟りに至る道程を十枚の牛の画によって表した「十牛図(じゅうぎゆうず)」になぞらえて描かれる。ほとんど台詞はなく、35ミリのモノクロと70ミリのカラー映像を駆使し「火と水(川、雨、雪)」の移ろいをモチーフに綴られる物語は、その寡黙さゆえに力強く俗っぽくもあり、かつ荘厳で神々しくもある。
男の顛末は、すべてを失い自然へと回帰せざるを得なかった人間(それはいつか訪れる我々の末路かもしれない)が、ふたたび俗世(生活)へ従属し、文明という輪廻を生き始める道程にだぶる。だから、まんまと男の末路は“私たち”に託され、この物語は閉じる。見事な突き放し。
監督は2013年に弱冠30歳でデビューした蔦哲一郎。この重厚な映画は、その鮮烈な『祖谷物語 おくのひと』に続く長編映画第二作。映画館のロビーで見かけた監督に声をかけると「撮りたい映画を撮るのに10年かかってしまいました」と苦笑いされていた。まだ41歳だ。
(2026年2月2日/K's cinema)
★★★
【参考コメント】
『祖谷物語 おくのひと (2013)』
https://ameblo.jp/ponsyuza/entry-12921870519.html
若い俳優(シン・ソクホ)が自主制作映画を監督するため、後輩女優(キム・スンユン)と友人カメラマン(ハ・ソングク)に協力を依頼して島(済州島?)を訪れる。シナリオは決まておらず監督はプランを探して彷徨うように島をめぐる。そんな監督に女優は気さくに従い、カメラマンはドライに付き合う。なかなか進展しない状況に三人の言動は徐々に空回りし始める。
全編、焦点の甘い(いわゆるピンボケ)映像に、ときおり中低音の抜けたシャリシャリ音の間抜けな音色の音楽が唐突に挿入され彼らの“しっくりしない関係”が淡々と綴られる。そんな、いつものホン・サンス節が、ある出来事をきっかけに転調してサンス“らしくない展開”へ向かう。
【注】以下、ネタバレです。
このあまりに分かりやすく(形式的だという意味で)ホン・サンス映画らしくない展開に唖然とさせられた。この物語が焦点が結ばれないピンボケ映像で綴られていた理由が実に分かりやすく示唆されるのだ。男(監督)は己の“消失点”を捜して、島(この世とあの世にあわい)を彷徨ていたのだ。そのストレートな効果と説得力に納得せざるを得なかった。
そういえば韓国では「済州島」はシャーマニズム文化が残る「霊的な島」だとされていると聞いたことがある。
(2025年12月19日/ユーロスペース)
★★★★









