私が通う町のちょっとした規模のクリニックや、総合病院へ入院したときの経験からも看護師さんの激務ぶりはには思いが至ります。本作でも患者や医者の都合に翻弄さる看護師フロリア(レオニー・ベネシュ)の孤軍奮闘がノンストップのジェットコースター構成で描かれます。
困難な状況にも果敢に対処するフロリアの真摯さには頭が下がるのですが、いかんせん各エピソードに意外性が少なく展開も単調なので「やっぱり看護師さんのお仕事は大変だなぁ」と、彼女のドタバタぶりを客観的に観ている自分がいました。感情移入できなかったのは確信犯的とはいえ、ドラマ性を排除し過ぎたせいではないでしょうか。
唯一、ドラマ的な展開を見せるエピソードとして「時計」をめぐるやりとりがありました。時計とは“時間”の象徴。看護師が直面するのは、一刻を争うなかでの物理的な時間の足りなさという困難。一方、患者にとっての時間とは生きるために残された猶予(不安)のこと。互いに求め補うべきであるはずの“ふたつの時間”の齟齬こそが本作のドラマのキモのはず。
両者の時間の象徴として「時計」のエピソードがもう少し丁寧に描かれていたら、本作のテーマへのアプローチはもっと深みを増し、完成度の印象は随分変わっていたと思いました。
(2026年6月8日/下高井戸シネマ)
★★★
フランス南西部の田舎町。小学校の若い女性校長エレーヌ(ステファーヌ・オードラン)は、町あげての結婚式で肉屋のポポール(ジャクリーヌ・ササール)と出会う。エレーヌを見初めたポポールは上等な肉を手みやげに、彼女が住んでいる学校の上階の部屋を訪ねてくるようになる。気さくなポポールだが、従軍したインドシナ戦線の話をするとき深い翳りを漂わせた。
人は食欲を満たすために生きものの命を切り刻む。命を奪う行為が人間の生存欲求の発露だとしたら、人は生存し続けるために常に“殺し続けなければならない”という道理が成り立ってしまう、かもしれない。倫理にさいなまれながらも生存欲求に抗うことが出来ない者の叫び。殺さざるを得ない哀れ。
有理な殺人の存在を目の当たりにした者の絶望を描くクロード・シャブロルのサスペンス。
(2026年5月30日/下高井戸シネマ)
★★★★
隠微なタイトルからは想像がつない洗練されたコメディ。
若いころ画家を断念し、今は銀座の洋品店の社長として成功した杉本省吉(千田是也)は店の二階を画廊に改装しようとしていた。売れない前衛芸術グループのメンバーで一人娘の秀子(左幸子)は、そこを安く借りて発表会を開こうとたくらんでいた。
そんな店を舞台に省吉をめぐって従業員の順子(渡辺美佐子)と保険外交員(轟夕起子)、秀子のグループリーダー(葉山良二)や天才肌の貧乏絵描き(安井昌二)らの、勝手な“思い込み”から生まれるちぐはぐな言動を駆動力に、中平康がスタイリッシュな演出を駆使して上品な笑いを作り出す。なかでもドライな現代娘・左幸子と、図々しくも憎めない未亡人・轟夕起子の新旧のガサツ対決が可笑しい。
話しの底に流れるのは、かつての恋人(芦川いずみ)に抱く千田是也の未練。これから老境に向かう男の“時を超越した想い”を成し遂げるいささか不謹慎な英断が、何故か許せてしまうのは「思い出」を切なさだけでは終わらせない中平康の矜持。
特別出演の(ちょび髭)岡本太郎はなかなかの役者ぶり。渡辺美佐子が上品で美しく、ときどきオードリー・ヘップバーンを彷彿とさせた。
(2026年6月2日/神保町シアター)
★★★★
二つの会話劇が並行して進む。休業して先輩のマンションに転がり込んでいる女優(キム・ミニ)のもとを俳優志願の姪(パク・ミソ)が訪ねてくる話。もうひとつは、女子大生のドキュメンタリー取材を受けている若者に人気のベテラン詩人(キ・ジュボン)のもとを訪れた、彼の大ファンを自認する俳優志願の学生(ハ・ソングク)の話。
姪は俳優を目指すために必要なことは何かと女優に訊ねる。女優は“俳優”という職業には、自分の意思をまっとうする機会などないと姪の夢を一蹴してしまう。子ども扱いされた姪は、トンチンカンな虚勢を張るのだが・・・・。
一方、詩人から何か訊きたことはあるかと問われた学生は、“現代の詩が目指すものは”、“あなたは詩によって何をみつけたか”などと問いかける。応えは“そんなものは無い”と暖簾に腕押し。学生は詩人の俗っぽさに・・・・。
女優と詩人の話はまったく交わらない。それどころか、場所(町)や時期(時代)すら同じなのか違うのかも示唆されない。ただ、詩人と女優は、いつかどこかで交錯していた(かもしれない)ということが滲むが、違うかもしれない。相変わらず観る者を煙に巻くホン・サンスのマイペースな映画。
そう、これは意気込み焦る若者(いや、私たち世間)に向けた“マイ・ペースで何が悪い”宣言なのでしょう。
(2026年5月28日/下高井戸シネマ)
★★★
身体の麻痺などで機能回復の見込みのない手足のことを廃用身と言うのだそうだ。介護施設のクリニック医院長・漆原(染谷将太)は職員たちの労働環境改善のために、利用者の「廃用身」を切断し体重を軽くすることで介護のパフォーマンスを上げることに成功する。この一見、冷徹に思える施術により患者自身の負担も軽減され、体力や心のありようが改善されるという想定外の効果がみられた。漆原はこの画期的な“切断手術”を利用者や、その家族に提案し広めていくのだった。
光量を抑えた引き気味の画面のなか、奢るでもなく自らの信念として淡々と“切断手術”を論理的に推進していく医師漆原を染谷将太が好演する。その合理性に「なるほど、この選択も高齢者の幸福のひとつかもしれないなぁ」と納得している自分がいた。やがて漆原の良心と患者たちの心身の齟齬に、施す者と、施される者の「慢心と甘え」の構造が露呈したとき、私のなかにも存在していた「慢心と甘え」に気づき、我に返ってゾッとした。
合理と倫理。社会と個人。科学と生理。幸福の価値。選択と責任。どれも二者択一で割り切れる問題ではない。難しいテーマに果敢に挑んでいるぶん(正誤は保留しつつも)もう少し作者の思い(意思)の表明があってもよかったと思う。
(2026年5月22日/kino cinema 新宿)
★★★
観終わってすぐに、もう一度観たいと思った映画は久しぶりだった。
物語は、第三章から始まり第一章へ向かって時間をさかのぼって進む。第三章では世界が滅亡へと向かうなか突然"謎の男チャック”が登場する。第二章では真面目そうな中年の会計士チャック(トム・ヒルドストン)の華麗な変身が、そして第一章では祖父母(マーク・ハミル/ベンジャミン・パジャック)のもとで育てられた幼少期から思春期までの彼の体験が描かれる。
作中のキーワードとして“待っている間が一番つらい”と何度かつぶやかれる。描かれるのは“生涯”についてだ。その節目節目には当然のように“死”が顔をのぞかせ、そのたびに平凡な日常のなか“疑問や不安や秘密”が頭をよぎる。その成り行きはとてもシビアなのだが、何故か映画は幸福感と安心感に満たされている。たぶん“数理と宇宙”という確実性と神秘性によって、世界と自己と時間をひと包みに包括してしまうトリッキーで巧みな構成によるのだと思う。ネタバレ厳禁の映画なので、こんな抽象的なことしか書けないのですが・・・。
とは言え具体的には、このハッタリのきいたスティーブン・キングの原作(未読ですが)を、エンタメ映画として可視化したマイク・フラナガン演出の素晴らしさは、アンドリュー・ワイエスの絵画を彷彿させる“秘密の部屋の窓の寂寥感”に象徴されていたし、さらに最高・最良のダンスムービーだったことに尽きるのです。
(2026年5月19日/MOVIX橋本)
★★★★★









