95歳の奇跡!(その1) | Pon Polo Pooh♪な日々...

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打楽器の「ポン♪」ギター・ウクレレの「ポロン♪」ハーモニカの「プー♪」から名付けられたこの名前...扉を開ければ、そこには...♪



私の父


島崎四郎が


7月14日


95歳の


誕生日を迎えた!

我が家の誕生会は

だいたい朝食時にやると

決まっているので

恒例でもある

真実(嫁)さんの

手作りケーキで

お祝いしました!




今年のケーキは

夏バージョン!

スイカの中心部を

丸く切った上に

水を切ったヨーグルトと

フルーツ山盛り

いたってシンプルだけど

色彩が涼しげで。。、

まっ、ケーキというより

ケーキ風フルーツ盛りかな爆笑

でもフルーツ大好きな

子どもたちも大興奮!


曾孫の

奏くんと侑くんも

そして母90歳も

四郎爺を囲んで

お祝いしました!

嬉しそうな笑顔が最高!

それにしても

私の父。。。

四郎95歳

足も達者

耳も達者

食も達者

酒も達者

人に「元気ですね〜」

と声をかけられると

「な〜んも、

息しとるだけやわいね〜」

と応える四郎さんウインク

超人的な95歳です。

私達が安心して

仕事や音楽活動に

打ち込めるのも

この二人が元気だからこそ

ほんと感謝しかありません。

でも、今回のブログタイトル

「奇跡の95歳」としたのは

年齢の事ではありません。

それは

先月、6月初旬に起こった

奇跡の出来事のこと。。

ご紹介しましょうか。。。

まず、下の写真ご覧あれ。。。

テンガロンハッツに

サングラスをかけた

ちょっと怪しげな

男性の肖像画。。。

描いた方は

地元の画家で

「ガネッシュ」と

右下に記されてる。。


これ誰だか

わかりますか?

この絵のモデルこそ

私の父「四郎」なんです。

ここは、

ネバールの山奥。。

標高3000㍍の高地

「モンジョ村」にある

小学校の校長室。。


そして

写っている女性が

奇跡を運んでくれた

「ベンパさん」だ。


奇跡のストーリーを

説明するためには

まず、ここらから

話さなければいけません

何回かに分けて

説明するので

皆さん、お読み下さい。
ニコニコニコニコニコニコニコニコ

「奇跡のストーリー」の

始まり始まり〜

花火花火花火花火花火花火花火

私の父は

かつて教員をし

地元松任小学校の

校長を最後に

教育現場から退いた。

しばらくは、

地元博物館の館長等も

務めたが

数年で退職。。。

そして残りの人生を

好きに生きようと

永年の夢であった

ヒマラヤを目指したのだ!

とはいっても

山頂登頂などという

だいそれたことではなく

地球上で最も美しく高い山を

自分の目に焼付けたい!

そしてカメラにおさめたい!

そんな夢を目標に

退職後は

鉛の入った

重い重い靴を購入し

毎日毎日、散歩にでかけ

トレーニングから始めた。

退職してから

数年後には

ヒマラヤ登山ツァーに申込し

初ヒマラヤに向かった。

標高5000㍍付近まで

歩いたそうだけど。。。

高山病の症状で

頭痛が酷く

これ以上は無理と

やむなく断念。。。

でも、天候にも恵まれ

ヒマラヤだけでなく

色々の山々も

目に焼き付ける事ができ

大満足だったようだ。

下山の途中。。

立ち寄った小さな村

「モンジョ村」

そこで見た光景が

四郎のその後の人生を

大きく変えてしまったのだ。。

小さな子どもたちが

石を積み上げただけの

掘っ立て小屋のような

暗い部屋で

小さなわら半紙に向かって

数センチしか残ってない

鉛筆で字を書いて

勉強している姿。。。

「なんだ、これは??」
「こんな環境で勉強してるのか?」
「電気もないじゃないか?」
「まともな筆記用具もないのか?」
「紙も貴重だから余白もないくらいにびっしり書き込んでいるのか?」
「これに比べて日本の子供達はなんと恵まれていることか?」

タイムスリップしたような光景に

四郎はショックを受けたそうだ。

帰国した四郎は

早速、動いた。

まず「NGOネパール石川」を

立ち上げ

「写真展」を開催

でも、自身で撮影してきた

ヒマラヤの写真は

数枚だけ。。。

あとは

早朝から

家の手伝いで

牛の糞掃除する

子供達の姿や

それでも

無邪気に笑う

子供達の笑顔の写真を集め

「ヒマラヤ〜モンジョ村写真展」を

開催したのだった。

そして会場の片隅に

手作り募金箱を設置したのだ。。

募金の目的は

【モンジョ村の子供達に学校を贈ろう!】

いつの間にか

教育者として歩んだ

自身の人生の残りを

ネパールの子供達に

捧げることに

決めた四郎であったのだ。

【次につづく】