ポンペイ・スカーヴィ駅に到着!
Ponkoは、ポンペイは2度目だけども
以前はオプショナルツアーで、ローマからバスでやってきて
まさしくチョロリと撫でるように、ポンペイ遺跡を見て回った。
ほんとチョロリである。
今度はガッツリ見てまわるぜ
とりあえず、今晩の宿を確保しなくてはならない。
前もって目をつけておいたホテルへ向う。
「Hotel Degli Amici」。
ここでダブルルーム・朝食付・2泊で90€。
下の写真は翌朝、部屋のベランダからの様子。
外観は・・・写真とるの忘れた・・・
日よけの役目を果たす葡萄だなが良い感じのホテルです♪
さてさて。再びヴェスヴィオ周遊鉄道に乗り込み、向うは「エルコラーノ」駅。
Ercolano(エルコラーノ)の遺跡。
こことヴェスヴィオ火山の位置関係はこんな感じ。ケッコー近いでしょ?
ここもポンペイの町同様、ヴェスヴェオ火山の噴火で灰に埋もれた町。
ポンペイよりも規模はずっと小さく、貴族やお金持ちの別荘地帯だったようだ。
もっとも、発掘作業はポンペイより進んでいないので、本当の規模はまだ不明。
当時、各家庭の台所の造りがオソマツだったみたい。
どうやら今で言う惣菜屋さん、パン屋さんなどが充実していたようだ。
(この壺の中はどうなってるのか?今はジャリがつまってるだけだった・・・アタリマエダ)
前回やりそこねたので、ぜひこの食べ物屋さんでやってみたかったこと。
「へい!らっしゃい!!」
町中にレモンの木が植わっていた。
この一帯はポンペイの火山灰のおかげか、土壌がよく肥えており
今でもレモンや葡萄、オリーブ、トマトなどが、大きく美味しく実るのだ。
当時からワインが多くつくられ
モザイクが美しい。
海の生き物がユーモラスに
ここ、エルコラーノは人口過密な町で、慢性的な住宅不足に陥っていたといわれる。
なのに発掘当初、町中で見つかった遺骸が10体ほどしかなく
多くの人々は、ここがえらいことになる前に無事脱出できたのだと思われていた。
しかし1982年、当時のボートハウス辺りで
(恐らく、右下のアーチ部分のようなところ。当時の海岸線あたりになる)
一気に150体以上の遺骸が見つかった。
エルコラーノの町から海路で逃げようと、船を待っていた人々だと推測されている。
待っている間に襲いかかって来た、灰を含んだ火砕流(サージ)によって、
一瞬で人々は焼かれ、窒息死したものと考えられる。
その火砕流、人間を死に追いやるに十分な温度だったが、
建物を焼き尽くすほどの高温ではなかったらしい。
エルコラーノでは、大きな扉に用いられていた木製の蝶番(ちょうつがい)や、
可動式の木製の戸が残っている。
ポンペイと違い、エルコラーノでは飛んでくる石や岩で建物の屋根などが破壊される前に
火砕流や灰が降り積もって町を埋め尽くしたために、ポンペイよりも建物の保存状態が良い。
ここのお宅は、「Casa di Nettuno e Anfitrite(ネプチューンとアンピトリテの家)」と呼ばれている。
これが、ネプチューンとアンピトリテ。
当時の大きなお宅は、通りに面した玄関を入ると「アトリウム」という広々した居間のような
空間があり、真ん中には水をたたえた池があった。
細かく敷かれた石に、色の異なる石がはめ込まれている。
“これ、お金かかったんちがう??”なんて、下世話なうわさをしてみる
紀元後79年当時、既に北アフリカのカルタゴでは6階建ての集合住宅が建てられていたと言うし、
少し前にローマでは、建物の高さ制限(21mまで!)が設けられていたらしい。
エルコラーノにも、そのような高層住宅があったかどうかはさだかでないようだが、
ここにはこのような、テラス付の建物があったようだ。
ここはポンペイよりも、上品な感じがした。
規模が小さいので(ポンペイと比べて・・・よ)、ゆったり回れるし。
当時、海岸線はこの街のすぐ手前まであったようだが
ふう疲れた。ちょっとポンペイの町中まで出ましょう。
エルコラーノの町は、本当に地方の田舎のちょっとした町といった風情。
あまり良いレストランがなかった上に、不思議なことに、
おっちゃん、おじいちゃん、少しお兄さんらが、町中で5~6人集団になって
そこかしこでおしゃべりしまくっているのだ。
それがハンパじゃない数だ・・・なんなんだ
ホテルの最寄り駅はポンペイ・スカーヴィ駅で、ソレント方面の沿線だけど、
Ponkoらは周遊鉄道のヴェスヴィオ火山を回り込む線に乗って、ポンペイ市内へ。
こんな立派な教会の前の広場。
その広場に面したレストランで・・・。
こんなものを食べてホッと一息つくのでした
明日はいよいよポンペイ遺跡をめぐります
※写真はクリックすると、全ておおきくなります。