留学2
留学は思ったよりもきつかった。しかし、食事はかなりおいしく、今も年に2回はご飯を食べに韓国へ遊びに行っている。韓国から逃げ出そうと思ったその日の午後、韓国語の授業がありました。
先生が入ってきた瞬間、僕は韓国に永住しようと決めました。そう、先生が美人だったからです。しかも、当時、参加メンバー内最年少であった私は、先生にかわいがられ、韓国語もぐんぐんと上達していきました。
さらに、医学の授業では教授に気に入られ、「君は最高の学生だ。」と言われました。
もちろん、勉強もしました。1日8時間はしました。韓国はネット社会でもあるので留学中にインターネットも覚えました。(生きていく為に・・・。)
一ヶ月もたつと、韓国での生活が心地よく、友達と遊びに行くのも楽しくて仕方ありませんでした。
この経験を元に、現在、韓国ビジネスを考えるようになり、今後の自分の人生に大きな影響を与えそうな気がしました。
さて、別れの日、当初は一番馬鹿だった私は、なんとトップクラスの成績でプログラムを終えることができました。なくなく、みんなとお別れをし、日本へ!
日本では塾が待っていました。
留学~番外編~
僕は塾講師のバイトを始めて一ヶ月近く休みをもらったことがある。大学の第二外国語で韓国語をとっていたのですが、先生が怖すぎて、単位を落としそうだったのです。韓国語は一回でも落としたら留年と厳しい買ったのです。噂で、韓国に短期留学すると単位がもらえると聞いたので、韓国、プサンのプケイ大学に留学することになりました。が、学校の都合で、プサン大学へと飛ばされてしまいました。
そんな、こんなで、塾のかわいい生徒たちを講師仲間にお願いし、いざ韓国へ!同じ大学からは、一級上の学部も先輩と一緒でした。初めて話す先輩でしたが、意気投合。1時間足らずで、プサンの金峰空港へ到着。空港では、留学先の大学生がプラカードをもってお出迎えに来てくれてました。片言の英語をしゃべりながら、大学へ到着。僕は普段大学へ行くようなだらしの無い格好をしていました。到着すると、なんと歓迎パーティーがホテルで。しかも、報道関係者も多数。地元のメディアが集まっていました。
何故だ?何でこんなにいるんだ。この留学プログラムは日本人と韓国人との交流プログラムなのに。そこまで、日韓の交流は注目されているのか!と思ったら、アメリカ人、インドネシア人、中国人・・・?あれ?
当初聞いていたものとは異なり、回りは国際色豊かなメンバーしかも、世界で名の高い大学から集結。
すると、何か偉い人が話し始めました。どうも、一人ずつスピーチをしろというのだ。外国人はスピーチが好きだ。しかも、絶対にジョークを入れる。僕は、英語はサンキューとハローしかはなせない。自分の番が来るのが怖かった。仕方なく「I am poneking. nice to meet too. I love korea.」 直訳すると「私はponeking です。私もあえて嬉しいです。韓国愛してます。」あー今考えたらわけがわからん。
というわけで、日ごろ先生をやってた私ですが、生徒に立場逆転であります。講義は10人くらいのゼミ形式で、しかも英語。英語!私はテキストの内容を理解できないまま、時が過ぎていきました。唯一の楽しみは昼ごはん。部屋はコンクリートで囲まれた3畳のほど学生寮。しかも、相部屋。ベッドと机だけ。幸い、先輩と一緒なので助かりました。2日目、二人で日本に帰ろうという話になりました。それほど、過酷な日々が始まったのでした。
人妻間主婦生徒入塾!?
僕の中では、塾長(オーナー)は日本代表監督のように思っていました。よく、本部や買収した塾への召集がかかるからだ。
さてさて、本格的に僕も買収先の講師に定着し始めたころ、今まで接したことの無い生徒が入塾してきました。「こんにちは、少々お待ちください、塾長呼んできますね。」「塾長、保護者が見えてますよ!」
・・・塾長「あっ、ごめん、この方生徒さん」「えーーーー!!」
そうなんです、30代後半の2次の母が入塾してきたのです。彼女は、現在病院で看護助手をやっており、どうしても看護大学へ入学したいとのこと。実は、僕の母親も40を過ぎ、看護学校へ入学50歳を前に、正看護師の資格を、育児、家事を両立しながら取得。この間、家族が何かと協力し合い、ほんとに大変な毎日でした。と、そんな日々を思い出しながら、面談を開始。僕はまず、学業と家庭の両立の厳しさを実体験を交えて説明。覚悟があるなら、一緒にがんばりましょう!とスタートしました。
大学入試の問題を購入し、入試対策と行きたいところだったのですが、中学生レベルでした。困ったもんです。期間は半年しかない。塾長は大学入試はわからないので、僕と講師仲間と作戦会議を夜な夜な行いました。まず、用語の暗記から始めました。テキスト一冊分一ヶ月で覚えてもらいました。仕事をやっているので、夜勤明けなど辛そうな日は、母親の成功した話などをして、盛り上げました。しかし、現在の偏差値では、とても合格ラインにはたしていませんでした。悩みました。高いお金を払ってもらっているのに・・・。
しかし、塾の後半でこんな嬉しい話を聞きました。「息子の宿題を見てあげれるようになりました。先生ありがとうね。勉強は楽しいね・・・。」教えて、お金もらって、感謝されて、ありがたい(涙)
そうこうやっているうちに、受験が近づいてきました。塾の最後の日、何故か食事に誘われました。生徒さんとプライベートで会うのはあまり好きではなかったのですが、受験前ということもあり、激励を兼ねて、行ってみました。(内心はいろんなことを想像しすぎて、ドキドキしていました。)
ご飯を食べながら、生徒さんの事情や思いなどストレートに聞けました。僕もわからない問題などあったり、看護学校の入試が始めてであったこともあり、手探りだったことも伝えました。また、もっとできることがあったかもしれない、力不足で申し訳ありませんでしたと、半分反省会みたいになりましたが、生徒さんはニコニコして、「ありがとうございました。」と言ってくれました。最後に、ずっと使い続けていたテキストに。「何かメッセージかいてもらえますか?」と言われました。何を書いたかは忘れましたが、大変照れくさかったことは今でも忘れられません。
結局、彼女の合否は塾には連絡されませんでした。恐らく、だめだったと思います。塾長は「仕方ないよ。」といってくれましたが、僕はこのとき初めて、教えることに対する責任の重さを感じました。「もし、合格していたら、違う人生を歩めたのに・・・。」
しかし、このときの悔しさが、僕の塾生活最後の年に、思わぬ形で貢献できるとは、そのときは思いもしませんでした。
学習塾、買収!!
僕の働いていた、塾のオーナーは普段はふらふらしてるのですが、さすがオーナー小さな教室で一日40人近い生徒を裁いていました。そんな、オーナーが30kmほど離れた、隣町の経営不振の塾の買収をしてきたのです。買収した塾の生徒数3人、講師数3人。つぶれるのもわかる。たまたま、そこで働いていた講師が大学の友達だったので、どんな塾か聞くと、とにかく汚い。塾長の対応が悪いと、あまり良い評判を受けませんでした。
そんなある日、そこの塾にサポートに行くことになりました。行ってびっくり、思ったよりもきれいになっていました。教室をすべてカーペットに変え、講師の休憩室、談話室などきれいにリフォームしていました。また、塾長は生徒に対して講師がいないということもあり、正社員1名、同系の塾で働いていた学生講師を引っ張ってきて、さらに、もとの塾から僕が派遣されることになりました。講師という人材が安定して、働けるようななったことで、経営方針も生徒の勧誘へとシフトしていきました。僕が卒業するころには、40人近くに増えていました。
さて、さて、何故増えたかはなぞですが、塾は口コミで増えます。生徒が好きになってくれれば、生徒は友達を誘います。その生徒が満足すれば、さらに生徒を誘います。用は講師次第なのです。
塾講師暦も3年を迎えて、新たな地で指導を始めたのですが、前の塾とは県も違い、若者の文化もかなり異なっていました。彼らの個性を導くことからはじめました。
生徒の一人で全く学習意欲のない生徒がいました。なので、僕は「やらなきゃ、お金損だよ。」とはっきり言いました。
すると、生徒が「この数学が、社会が、理科が何に役に立つかわからない。」と。
「じゃあ、今日はセブンイレブンの仕事について教える。数学よりも面白いよ。」と、1時間30分セブンイレブンでバイトを始めたら、どんな仕事をやるのか。どんな能力を問われるのか話しました。これは、学校じゃ絶対にできない、塾だけの特権だと思います。しかも、セブンイレブンのバイトに数学の力は使わないかもしれない。けど、無いと困るよ。などなど、実践に沿った話をしました。さらに、「君は勉強は今はできないけど、この先伸びるよ。今、ちょっとやってごらんよ。きっと、この先成功するから」と、意味のなく褒めたら、やってくれた。こっちも数式をノートに書くだけじゃつまらない。つまらないのは生徒も同じなのだ。
そんな新しい塾で、慣れてきた頃、一風変わった塾生が入塾してきました。(続く・・・)
生徒から、ちょっと視点をずらして
塾講師の世界をちょっと視点をずらして見てみます。親は月に2万円~3万円近いお金を塾に払い、子供を塾に通わせている。講師の時給は1000円くらいであまりもらってはいない。主に、塾と親会社がもらっている形になる。さて、これだけ大きなお金を支払っているわけだが、講師のモチベーションもピンきりだ。バイトの後の合コンが気になってたり、徹夜明けで適当に授業をやる講師もいる。
そんな中、一人のとてもユニークな講師に会った。彼とは大学が同じで同じ学部に在籍していたこともあり、偶然、僕のいる塾に講師としてやってきた。彼はどちらかというと辛口講師であったが、生徒からは熱い信頼を持っていた。彼はよく生徒を叱っていた。時には、「今日は俺はお前を教えん。宿題やって来い!」なんてこともことも言っていた。厳しい反面、生徒一人ひとりのレベルにあった授業を展開していたこともあり、勉強嫌いは減っていたように思える。
ちょうど彼が来たときから、講師同士でよく生徒や塾について話し合うことが多くなった。塾が終わった後、缶ビールを飲みながら、「あの生徒はどうやって教えている?」とか、「最近、あのこ何かあったの?」とか、授業の中でしか得られない情報の交換やもっと講師の連携を図っていい教室にやっていこうなど、塾長が聞いたら涙を流すようなことを話し合っていた。時には、塾講師、大学や学部も違うのでみんなで飲み会などもして情報を交換することもあった。
しかし、塾長も人間だ。いくら影でこのようにやっていたとしても、自分に対する態度が気に入らなければ、シフト柄少しずつはずしていき、辞めさせていく。残念ながら、彼をはじめ非常に個性があり、塾の看板講師たちが塾を去っていってしまった。仕方ない、「生徒の成績の低下は講師のせい、上昇は自分の方針が良かったから」といわれれば講師も納得いかない。さらに、君のやり方は無茶苦茶だと言われれば、何も言わずに辞めたくなる。しばし、講師の間でも塾長のやり方に沿わないというものが多くなっていた。
彼が塾を去った後、3人の女子生徒から「先生、戻ってくるよね、また来るよね?」と何度も聞かれたときには胸が詰まって何も言えなかった。塾長にとってはいい加減に見えたかもしれないが、生徒にとっては、生きていくうえで、欠かせない人だったかもしれない。
塾も現場で働いている人と経営をする側と綿密な連携が必要と感じました。その後、僕は積極的に講師と塾長の間に入った。塾が終わった後、塾長の愚痴を聞いてやるようにした。講師には飲み会などで交流を深めさせていった。
クラス最下位の優等生
中高生のお子さんをお持ちのご両親には是非読んでいただきたい。そう、ちょうど、1年目の夏が終わり、季節は食欲の秋に差し掛かった、そんなある日の塾後のことでした。
「うちの子供に教えている先生は誰ですか?」険しい表情で、保護者の方が塾へ入ってきました。ひどく興奮した母親に僕ら講師陣は少々驚き、塾長はしきりに「I君のボード、ボッ、ボードを出して!」と少々パニック気味。I君は僕も指導したことがあるのですが、一向にやる気を出してくれない。勉強を全くやろうとしないのである。しかし、教育熱心な母親のせいで、週に4回程塾に通ってました。
保護者「うちの息子、先生にご迷惑かけてませんか?宿題もやらず、指示も聞かず、息子のことが許せな
いのです。私は今までに息子に500万くらい使いました。でも、今回はもう塾をやめさせようと思って
ます。一生懸命指導してくれる塾の先生に申し訳なくて・・・」
塾長「お母さんのお気持ちはわかります。しかし、彼もいま変わろうとしています。私たちに少し時間をくださ
い。」
保護者「わかりました。ご迷惑おかけしてすみません・・・。」
凍りついた現場はにようやくいつもの和やかな時間が流れてきました。その日のミーティングは彼の話題で
かなりの時間をついやしました。塾長からは「とりあえず、宿題を必ずやらせるようにと指示が。」
しかし、勉強嫌いの彼がそう簡単にやってくるだろうかと現場で働く講師たちは思ってました。講師も学生講師が増え、意見の交換がしやすくなっていました。塾の講師はバイトですが、みんなかなり一人ひとりにあった指導方法を塾が終わった後に話合ってたりしています。以外と思うかもしれませんが、テキストの大半は自腹切ってたりしています。バイトなのに。でも、ここまで、できるのは人相手のバイトだからかも知れません。僕は気持ちは社員のつもりでやってました。
さて、その後彼はどうなったか。ちょうど、その同じ時期に彼の友人が入塾して来ました。彼はI君よりもS級とまで呼ばれていました。(ひどい話ですが、S級全く勉強ができない生徒を総称して・・・僕はあまりこの表現が皮肉っぽくて好きではないですが。)しかし、その彼に数学を徹底的に鍛えました。まず、簡単な計算問題をいかに早くできるかI君と競わせました。すると、問題がとける喜び、I君より早く解ける喜び、解けることによって講師に褒められる快感を得た彼は、なんと半年後学年で1番の成績を収めました。彼の口から「先生、勉強ってたのしいいね。」っといわれました。嬉しかった。ちなみにその彼は同じ手法で、他の教科も成績が上がり、県内でトップの高校に進学し、高校では日本で1番の数学の成績を収めるまでに成長してくれました。今でも、塾の伝説のひとつになってます。
I君はというと、彼ほどには成績は上がらなかったが、彼に負けたくない一身から、勉強をやるようになりました。高校は県内で4番目くらいの進学校に進学できました。その後、彼ら二人とも、自主的に勉強するようになりました。高校で一旦、違う塾に行ったのですが、また二人とも戻ってきて勉強してくれました。
子供は何かがきっかけで、勉強したり、しなかったりします。でも、子供のことよりも、子供の学力ばっかり見すぎると、絶対に子供を起こるだけで何もなりません。子供の自主性を伸ばすためのフォローを親はしなければなりません。
女子生徒
夏季講習も終盤にさしかかり、ようやく塾講師の仕事にも慣れてきました。塾は毎日いろいろな生徒に合うから面白い。僕は現在、教員の免許を持っているが、昔は学生ということもあり、結構先生っぽくやってました。(実際は結構めちゃくちゃだとおもうが・・)
生徒の目線で見てみると、学校の先生と塾の講師は同じ先生なのである。だから、生徒に厳しく、教え方が難しいと嫌われてしまう。その上、思春期だ。反抗期でもある。思春期の生徒はただちょっと大人めいた講師が好きだ。僕は学生時代ピアスをつけていた。全国チェーンの塾であったが、茶髪、ピアスで教えてもよかった。オーナーが注意しにくかったのかもしれないが・・・。しかし、このスタイルが、思春期の生徒には受け入れられた。学校の先生とは違うと思ったのかもしれない。僕は基本的には優しく接した。子供が好きだったし、教えるのも好きだったし、自分があまり頭が良くなかったから、わからない生徒には特に優しく接した。やさしいとみんなも優しくしてくれる。と確信していたのだが、反抗期の生徒には伝わらなかった。
僕「よし、今日はここからはじめよう!まず、一問といてみるね。みててね。はい、じゃあ次からといてみてね!」
生徒「・・・・・・・・・」
30分間は経過しただろうか、なにもしない。なぜ何もしないかがわからなかった。難しいから、それともなにか彼女の身にあったのか?わからない。結局、彼女の気持ちは理解できなかった。しかし、3ヶ月たったある日、塾講師仲間から、彼女が吹奏楽部でドラムをやっている話をきいた。僕もドラムをやっていたので、どんなドラムをたたくのか気になって聞いてみた。すると、封を切ったようにしゃべりだした。そう、彼女は勉強は苦手だが、部活は自信があったのだ。自信のあることを褒められて、彼女も嬉しかったのか、コンクールで賞を取ったときの話などもしてくれた。僕はずっと彼女にたいして、テレビの話や最近のニュースなど今の中学生が興味を示す話をしていた。しかし、彼女のニーズは違うところにあったのだ。彼女はそれから僕のいう事をよく聞いてくれた。残念ながら志望校にはおちてしまったが、その3年後に彼女の弟が受験勉強のために入塾してくれた。
天才少年
僕は夏休みの夏期講習限定で塾講師をすることになった。講師は自分より年上であったがみんな優しい人ばかりだった。以前、バイトしていた居酒屋はどちらかというと体育会系で、厳しかった。
さて、講師をはじめて個別指導の形態にひどく驚いた。1人の講師が3人を教える。これはテクニックが身につけば簡単な作業だ。はじめは一度にみんなに指示できず、また、始まる5分間など会話が続かず困っていたが、1年もすれば、授業開始の生徒とのコミュニケーションが楽しくて、楽しくてたまらなっかった。
さて、さて、そんな中、A君(仮名)という、非常に男までインテリジェンスな生徒を受け持つことになった。物静かで、問題を渡すとすらすら解く。回答渡すと、指示しなくても勝手に理解してくれる。400人の中1番の成績を取ったこともあるのだ。頭が中途半端にいい生徒は講師を試す。講師のわからないような問題を要求してくる。そんあB君(仮名)という生徒もいたが、思考力があり難しい話しでもついてきてくれたので、結構好きな生徒だった。また、全くしゃべってくれない人もいた。幸い、自分の担当ではなかったが、もしそうならどうしようと思った。
中に非常に元気のいい、C君という生徒がいた。非常にませているが、頭はいい。しかし、勉強はできない。さて、こんなとき当指導していくべきか。前者は簡単だ。勝手にやってくれる。
しかし、後者になると、なる気になるまでが大変だ。そこで、僕がやったのがライバル心を競わせる方法である。3人の生徒。しかも、学校も違う。ならば、みんな混ぜ込んで、簡単な問題を解かせる。簡単だからすぐ解ける。しかも、1番のやつは褒めまくる。これは、学校じゃできない。塾だからできる。とにかく、勉強をすることを楽しませるサービスを開始したのだ。これが、生徒に受けた。後に、この作戦で驚くべき成績をおさめる天才少年に会うことになる。
塾講師=商品、生徒=客
私は大学1年の6月に塾講師をしようを思い、求人案内片手に面接に向かいました。面接に行った塾は、大
手塾の個別指導で面接には本社から部長がきていました。
そのときいわれたのが、「なぜ塾講師がしたいのか」「責任を持ってできるか」難しい話をたくさんされたので
すが、僕は塾で教えることがしたかったので、「お金は要りません。勉強させてください。」と一言。
採用確実と思ったのですが、居酒屋のバイトを掛け持ちしていたため、週に2回しかいけないので、採用で
きないとのことでした。
ところが、面接のときに同席していた塾長が、もしよければと知り合いの塾を紹介してくれました。
この塾は個別指導では最大手といわれている塾で、これからの4年間、塾講師としての道を歩むのでした。
初めてのネクタイを締め、塾長に挨拶をし、早速授業。生徒と触れ合うのは簡単でした。興味本位で迫って
くる生徒たちと語らいながらのあっという間の90分でした。ここで終わればただの日記。
では、この90分間私は何をやっていたのか。もちろん、指導、会話、そして、ボード。ボード?この塾のシス
テムのすごさを感じたのは、生徒一人ひとりの指導記録(通称ボード)があることでした。
このボードには、消化したテキストのページ。苦手としている問題、単元。宿題。受講態度。健康状態。あら
ゆるデータが載っており、生徒の状態を即時に把握できるカルテになっていました。
今思えば、このカルテにより最高のサービスを提供できるのだと感じました。続く・・・。
入学、そして出会い
入学式。
僕はRニューボールドというブランドのスーツにネクタイをしめ、何故か自転車をこいで入学式に行こうとしていました。
会場まで5キロの道のりを。
そんな時、通りがかった、同じ高校出身の末続さんの両親の車に乗せてもらえました。
入学式が終わると外には、無数のサークルの官有する人たちが。
僕は書き分けながら、急いで引っ越したばかりの家に帰り、家でパンフレットを見ながらどのサークルに使用かと考えていました。
その中にはサッカー部やフォークソング、など多々。
サッカーやバンドが好きな僕にとっては、願っても無いサークルだ。
ふと、最後のページに目をやると、ハワイアンミュージックというサークルが。
良く見てみると、ビーズやジュリマリなどのバンドもやってるよ。と。
これが大学生活全てをささげるきっかけとなることとは知らず、僕はバンドをやるんだと思いながら、ハワイアンミュージックの扉をたたくのでした。
さらば、青春のひかりよ・・・