こうした一連の動作は、TKGと向き合う時にも同様だ。
つまり、どうやって混ぜれば入れ物の淵からこぼさずに済むのか、ということを瞬時に判断するのが難しい。
自分の視点、意識は、混ぜるしゃもじやお箸、スプーンの側に注がれている。
しかし、その視点の外側では、均衡が崩れて谷になった部分と山になった部分が生まれていて、混ぜ合わせる『作用点』意外にも意識を向ける必要があるのだ。
これは、自分にとってとても難しい事だ。
動かしている一か所を見ながら、動いている別の場所を見る。
みんなは、なぜこんなに難しい作業をいとも簡単にこなすのだろうか。
まるで、自分だけが浦島太郎にでもなったような疎外感と劣等感だ。
だから、混ぜる作業が発生する食事は、外食の際になるべく選ばないようにしている。
自分にとって、それを混ぜるという行為の先にあるのは、こぼすという八割と、たまたまこぼさなかったというラッキーな二割がそこにあるだけだ。
十回やって八回はこぼす。二回は『たまたま』こぼさない。
たまたまを期待して勝負を挑むには、低すぎる確率である。
家では、なるべく嫁様にお願いしている。
または、こぼすことを承知で、八割の敗北を覚悟しながら、『たまたま』二割の勝利を期待して、自らの手で挑む。
その一方で、最近やっと納豆はこぼさないようになってきた。
あいつの動きを感覚的に掴めるようになってきたからだ。
無意識に、考えなくても身体が反応する。
ご飯やTKGに対して、そういう感覚を抱けるようになるのはいつになるだろうか。
きっとまだまだ先に違いない。
と、かねてから大きな社会問題であった『混ぜる問題』について、最近になって良い対策が思いついた。
それは、『より大きな食器を使う』ということだ。
本来それを食べるためには不必要なほどの大きさを持った食器を用いることで、「こぼす」という最大の障害を避けられることがわかった。
故に、このところTKGを食べる時には、ご飯茶碗は使わない。
ラーメンドンブリや、大きめなお椀を使うようにしている。
それからというもの、『たまたま』の確立が逆転した。
八割は勝てる。
どうだ。見たか、『混ぜる』よ。
余裕という最大の武器を手にしたことによって、私は勝つことが出来たのだ。
しかし、いまだに二割は『たまたま』敗北し、食器の外へとご飯がこぼれていく。
完璧な日常動作とは、いかに難しいかを日々痛感している。
(おわり)
