あれが苦手だ、これがダメだ、とのたまいながら生きてきた三十二年。
そうだ、どうせ苦手なら、盛大にシリーズとしてぶちまけてしまおう、と思い立ったので、『私の苦手』と題して、思いつくたびに書いていこうと思う。
第一回目の記念すべきテーマは、『混ぜる』。
ご飯を釜返ししたり、TKG(たまごかけごはん)の黄身とご飯を混ぜたり、食材をフライパンで炒める作業の中で混ぜ合わせたりと、主に食事をメインとして私達の生活の中には『混ぜる』という行為が存在する。
自分は、これが苦手だ。
例えばご飯を釜返しする時、しゃもじ等を使って、炊飯器の中のご飯を混ぜ合わせる。
しかし、混ぜるという行為には、一度始めてしまうと二度と元の状態に戻らないという、不可逆的な動きが伴うだけでなく、しゃもじを差し込んだ場所だけでなく、その他の場所にまで影響が及ぶ、という側面がある。
まっ平らなご飯に対して、しゃもじを差し込み、持ち上げる。
この時点で、持ち上げたご飯の周囲にあるご飯が、持ち上げて空白になった場所に押し寄せてくる。すると、持ち上げたご飯が元々あった場所には、既に別のご飯が押し寄せているわけで、この持ち上げたご飯をどこに戻すのが正解なのかと悩んでしまう。
逡巡の末にご飯を炊飯器内の別の場所に置いたとしよう。
すると今度は、別の場所にしゃもじを差し込み、次のご飯を持ち上げる必要が出てくる。
釜返しをしたい、という欲求に基づいた自らの手が、さらに別の場所へとしゃもじを差し込み、別のご飯を持ち上げる。
すると、逡巡の末に置いた最初のご飯が影響して、均等が崩れたご飯達は、予期せぬ動きで空いたスペースへと押し寄せる。
でも、釜返しとは全体を混ぜ合わせる必要があるものだ。
たった二回程度しゃもじを差し込んだだけでは、完了しない。
「どこにこのご飯を置こうか」
しゃもじの上に乗るご飯は、時間と共に形が崩れて、炊飯器の中へと落ちていく。
迷っている間に、今度はどこのご飯が混ぜる作業が完了していて、どこのご飯が完了していないのかが、よく分からなくなってくる。
混乱して、オーバーヒートしそうな頭を振り切るように、今度は考えも無しにしゃもじを複数回差し込んでいく。
もうちょっと、あとちょっと。
釜返しが進んでいく。
すると、今度は別の問題が発生する。
考えなしにしゃもじを差し込み、そこに乗ったご飯を考え無しに炊飯器の中に落とした結果、炊飯器の淵からご飯が外側へとこぼれていく。
考えずにご飯を戻した結果、ある一定の場所に戻したご飯の山が出来上がり、しゃもじを差し込んで掬い取った動作に合わせるように、その山からご飯があふれ出てしまうのだ。
ここで、考え無しにしゃもじを差し込んだことを後悔する。
もっと考えて置けばよかった。
しかし、どれだけ考えてもそこに正解は見えない。
果たして、どう戻すことが正しかったのか。
予測できないご飯達の動きを前に、それを瞬時に判断し、正解を導き出すのは困難だ。
結局、最終的には大きな敗北感と共に、溢れ出したご飯をもったいないからと口に運び、それなりに釜返しの済んだ『混ぜる』という一大プロジェクトは終了する。
(つづく)
