今回は本州に残存する信号場兼仮乗降場に由来する駅、伯備線の布原(ぬのはら)信号場(仮乗降場)について調べてみたいと思います。
信号場時代はD51形式蒸気機関車による「布原の三重連」として、SLブームの中、定番撮影地として名を馳せ、国鉄民営化時に正駅となってからは「秘境駅」としても知られるようになった、知名度の高い駅です。
以前実地踏査した記事も掲載しましたので、参考にリンクを張っておきます。
仮乗降場来歴
昭和11(1936)年10月10日
布原信号場として開設
時期不詳
旅客取扱い開始
昭和62(1987)年4月1日
国鉄民営化に伴い正駅化、布原駅となる
仮乗降場名の由来
「角川日本地名大辞典」などいくつかの資料を調べましたが、由来について明記しているものは未確認で、不詳です。
開設当初は岡山県阿哲郡上市村、平成12(2000)年発行の「駅名事典(第6版)」(中央書院)では岡山県新見市西方字野々原を所在地としています。
しかし現在の国土地理院地図を見ると「布原」という地名が表記されており、また字名も廃止されているようです。
この「野々原」と「布原」との関連の有無については不明であり、「野々原」の由来もまた不明です。
余談ですが、岡山県にはかつて布原村が存在しましたが、これは現在の鏡野町域であり、新見市に位置する当信号場はまた別の土地となります。
ダイヤ
全国版時刻表に掲載があったのは1950年代までで、1960年代になると掲載されなくなっていきます。
1961(昭和36)年10月号の弘済出版社版「中国九州篇時刻表」では既に掲載されなくなっていますが、同じく弘済会版時刻表で、1956(昭和31)年1月号では伯備線の項にのみ、1957(昭和32)年3月号では伯備線・芸備線両方に、布原の発車時刻が掲載されています。

この間も、交通公社版の時刻表では一切布原は掲載されていません。
また、国鉄民営化後もしばらくは他の仮乗降場同様、非掲載の状態でした。
このように、仮乗降場時代の後半は停車状況を調べる手段が少なく、実情は分からないのですが、昭和55(1980)年発行の「新見の里 続」(新見の里編集委員会 編)に当時の布原信号場の写真が掲載されており、下りホームにキユニらしき17系気動車と20系気動車のキハが連なった編成に米子行(または米子発)のサボが写っています。
また気動車からは地元のご婦人方数名が下車している様子も窺えます。
伯備線の電化開業は昭和57(1982)年ですが、この写真では既に電化設備も概ね完成しているように見えます(架線はまだ張られていません)。
ホームの駅名標は次駅が「びっちゅうこうじろ」となっているので下りホームと断定でき、芸備線備中神代駅〜備後落合駅間には木次線経由にしろ伯備線経由にしろ、米子発着普通列車の設定はなかったようなので、この写真に写る気動車は伯備線列車の可能性が高く、昭和55年頃にも伯備線の列車が停車していた可能性が高いと考えられます。
本書よりキャプションを引用しますと、
「国鉄伯備線新見駅と備中神代駅との間に、布原駅と呼ばれる小さな駅がある。駅名らしい看板もあり、プラットもある。客車も止まり、旅客がちゃんと乗り降りしているが、不思議なことに、この駅は、国鉄監修の時刻表にも鉄道地図にも出ていない。実は、駅ではなく、国鉄正式名称は布原信号所(筆者注:正確には信号場)である。
(中略)
国鉄は住民(新見市西方布原)の便宜を図り、下り線では備中神代駅までの切符、上り線では新見駅までの切符で降りられることになっている。
(以下略)」
とあります。
なお、時刻表で確認できる昭和32年3月号のダイヤですと、伯備線列車が朝に上り1本、午後に下り3本・上り2本と、芸備線列車が朝から12時台にかけて下り3本・上り2本停車していました(いずれも客車列車)。
一部は布原での交換の合間に客扱いも行うという形で、上下同時に停車(客扱い)するという時間帯がありました。
今回は過去の実地踏査記事を補足する形で、現存する「駅」の過去の実態を追ってみました。
ここまでお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。
<参考文献>
「駅名来歴事典」(石野哲氏、JTBパブリッシング)
「停車場変遷大事典」(石野哲氏、JTBパブリッシング)
「駅名事典 第6版」(中央書院)
「停車場一覧」(昭和12年度版、鉄道省)
「時刻表」昭和31年1月号、同32年3月号(鉄道弘済会)
「中国九州篇時刻表」昭和36年10月号(弘済出版社)
「角川日本地名大辞典 32 岡山県」(角川書店)
「新見の里 続」(新見の里編集委員会、新見ライオンズクラブ)