鉄道趣味に傾倒している方なら、知らない人はいないであろう、伯備(はくび)線布原(ぬのはら)駅。


今回はこの布原駅の実地踏査をしてきましたので、お目にかけたいと思います。


布原駅は近年、秘境駅としても有名になり、各種メディアなどでも取り上げられることが多く、鉄道にさほど詳しくない方でも見聞きしたことがあるかも知れません。

また、既にネット上でも多くの情報がありますので、諸先輩方の記録をなぞる形になってしまいますが、考察も交えながら、綴っていきたいと思います。



1.布原駅の生い立ち

布原と聞いて、思い浮かぶものはいくつかあるかと思います。

特に蒸気機関車が活躍していた頃をご存じの方には、「布原の三重連」が思い出深いのではないでしょうか。

伯備線足立(あしだち)駅から輸送される石灰石の貨物列車が、D51形式の三重連で牽引される迫力の鉄道シーンは、全国的に有名で、今も語り草となっています。


蛇足ながら、昭和15(1940)年に常磐線土浦駅構内で発生した3重衝突事故、「土浦事故」で被災し、戦後、同じく常磐線の北千住駅〜綾瀬駅間で発生した戦後の国鉄3大怪事件の一つで国鉄の下山総裁が犠牲となった、「下山事件」の当該列車の牽引もしていた、D51 651号機も、晩年は布原の三重連で活躍し、幸せな最期を迎えています。

常磐線にとって651という数字には縁があるようで、JR東日本初の新製による新形式として常磐線特急に投入された特急型車両も651系と命名されています。

華々しいデビューとは裏腹に、この記事を書いているのがちょうど最後の1編成が解体された直後で、その末路は淋しいものでした。


さて、布原は国鉄時代は一貫して信号場として扱われました。

伯備線は陰陽連絡の重要線区で、倉敷駅から伯耆大山駅までのうち、非電化時代に倉敷駅〜備中高梁駅間、井倉駅〜石蟹駅間が複線化されています。

どちらもSLが引退した後の複線化ですが、この複線化と相前後して、単線として残された区間にも列車の交換を行い線路容量を増す目的で、方谷駅〜井倉駅間に広石(ひろいし)信号場、上石見駅〜生山駅間に下石見(しもいわみ)信号場、江尾駅〜伯耆溝口駅間に上溝口(かみみぞぐち)信号場が新設されています。


これに対して、布原は路線が開通してまだ日が浅い昭和11(1936)年10月10日に新見駅〜備中神代駅間に新設された信号場で、他の信号場よりずっと古参です。


この区間を含む備中川面駅から足立駅の間は、伯備線でも最後に開通した区間で、昭和3(1928)年10月25日の開業です。

この開業により、それまで伯備南線と伯備北線としてそれぞれ延伸が進められてきた両線が結ばれ、今日の伯備線が形成されたのです。

また昭和5(1930)年には芸備線の母体となる三神線が備中神代駅から矢神駅まで開通し、昭和8(1933)年から昭和12(1937)年にかけて国有化されています。

そうした時代の中で生まれたのが、布原信号場でした。


伯備線の中核的な役割を担う新見駅。

伯備線の最後の開通区間、備中川面駅〜足立駅間開通と同時に開業した駅です。

新見市の代表駅で、布原信号場も現在は同じ新見市域にあります。



2.国鉄時代のあゆみ

ところで、こうした古い時代からの信号場は、往々にして旅客の取扱いを行うようになります。

信号場といっても現代のように自動化されてはおらず、信号係員や、当地のような山岳路線ともなると給水給炭設備が設けられる場合もあります。

したがって、多くの職員が勤務し、宿舎が設けられる規模ともなれば、そこに暮らす国鉄職員の家族の通勤通学や買い物などの便宜も図らなくてはなりません。

そうした経緯で、信号場や保線詰所である線路班には、「駅間で停車し、旅客の取扱いを行う」という形でその停車列車と時刻が指定され、各鉄道局の裁量で設置される乗降場となっていくことになります。

これが、いわゆる仮乗降場です。

大雑把な言い方をすると、国鉄本社が設置に関知する乗降場(旅客が乗り降りする場所)が「駅」、国鉄本社が設置に関知しない乗降場が「仮乗降場」というイメージになります。


信号場の場合も、信号場としては国鉄本社は設置に関知してはいるものの、そこで旅客の乗り降りを扱うのは各鉄道局の裁量となり、国鉄本社が関知しないため、「仮乗降場を兼ねた信号場」という言い方が適切かと思われます。


国鉄本社が関知しないということは、職員向けに作成された全国版の路線図には信号場の印でのみ記載がされ、一般向けに作成された路線図や時刻表には掲載されないということになります。


JTB刊「停車場変遷大辞典」によりますと、新見市の行政側に、昭和28(1953)年10月1日から布原信号場で旅客の取扱いが開始されたらしいという記録があるようですが、定かではありません。

客扱いを行った列車も、備中神代駅から新見駅まで乗り入れてくる芸備線の列車のほか、伯備線の列車も一時期は客扱いを行ったことがあるらしいのですが、いつからいつまでという正確な記録はなく、はっきりしません。



3.国鉄民営化

昭和62(1987)年4月1日、国鉄はJR各社に分割民営化されました。

伯備線や芸備線はJR西日本という新会社に継承され、他の仮乗降場同様、民営化当日付けで正式な駅として計上されるようになります。

(書類上、同日付けで駅として新たに開業)

ただし、運賃の計算に用いられる営業キロ数は、全国一斉に平成2(1990)年3月10日に設定され、それまではまだ運賃計算上は仮乗降場時代と同じく、「ひとつ手前の正駅から乗車」「ひとつ先の正駅で降車」という扱いで計算されていました。


私の手元に、弘済出版社刊1987(昭和62)年5月号の全国版の時刻表がありますので、それを参照してみますと、仮乗降場だった駅はまだ索引路線図にも時刻表本文にも掲載されていません。

前月の4月号は発売時はまだ当然国鉄なので、この5月号はJRが初めて監修を行った号ということになりますが、まだその辺りの対応は追いついていなかったようですね。


弘済出版社刊

1987(昭和62)年5月号の

芸備線上り時刻表。

昭和62年4月20日訂補とあり、JRになって初めて編集された時刻表となります。

備中神代と新見の間にあるはずの布原はまだ記載がありません。


JR化後も、布原駅は「伯備線にありながら伯備線の列車は全て通過し、芸備線の列車のみが停車する駅」として、「不思議な駅」の一つとしてしばしば取り上げられてきました。


伯備線は国鉄時代の昭和57(1982)年に全線が電化され、単行運転が可能な気動車から、編成を組むのが原則の電車へと移行していきます。

布原駅はホームの長さが1両分しかなく、電車や客車列車は停車できないのです。

(ドアの開閉が手動だった旧型客車であればまだ対応はできたでしょうが…)

また切り立った山と、高梁川支流の西川(阿哲峡とも呼ばれる景勝地です)とに挟まれた狭隘な地で、信号場全体が右に左にカーブを描いているため、見通しは悪く、長編成の列車が客扱いを行うには不向きです。

こうした条件と、利用客数の少なさから、芸備線の列車のみの停車という扱いにして、今日に至っていると考えられます。


布原駅近くから望む西川の流れ。


なお上掲の1987年5月号時刻表を見ると、芸備線にはまだ客車列車が残っており、布原についても1日1往復が通っていたようですが、布原駅で客扱いを行っていたのかどうかは分かりませんでした。

一方、伯備線は近年でも山陰本線側からの直通で気動車列車が設定されていたように、生山駅〜伯耆大山駅では平日のみ1日1往復だけ気動車列車があった他は、全普通列車が電車での運転で、客車列車は既に廃止されていました。



4.現在の布原駅

このような歩みをしてきた布原駅ですが、現在はどうなっているでしょうか。

ここから、現地調査のご報告に移らせて頂きます。


布原駅にて芸備線下り

(東城、備後落合方面)の

気動車から下車したところ。

気動車はキハ120型で全長が少々短いものの、1両で一杯です。


まず、全体的に、信号場時代の名残が色濃く残っているという印象で、「伯備線の駅なのに芸備線の列車しか停車しない、ホームが1両分しかない」というより、「信号場なのにホームがある」という表現の方がしっくり来ます。
それくらい信号場としてはこの上なく自然な佇まいで、仮乗降場然としたホームの方が後から取って付けたように感じられます。

布原駅の構造としては、伯備線の他の信号場と同じく、上下の交換ができるだけのシンプルな配線で、一線スルー化はされておらず、上りが1番のりば、下りが2番のりばの方の線路を必ず通過し、逆方向への入線・出発はできません。
出発信号機の先には安全側線も設けられており、上下線が同時に入線することもできます。

停車することなく走り去って行く、伯備線の上り(新見方面)普通列車。
駅名標は伯備線の標準である緑色ではなく、青色になっており、案内上は専ら芸備線の駅です。

停車場全体はS字カーブ上にあるため見通しが悪く、出発信号機の中継機(リピーター)がホームから外れたところにあるのも信号場らしいです。

停止現示の下り出発信号機。

画面左には、分かりにくいですが、上り線のリピーターの背面が見えます。


上り1番のりば(新見方面)のホームから下り方を望んだところ。

停止位置目標、出発信号機、安全側線などが見えます。

見えにくいですが、前の写真のリピーターは手前から数えて2本目の架線柱の手前に見える少し背の低い柱に付いています。


ホームは苔むしていて使用頻度を窺わせる姿ですが、構造自体は鉄骨とコンクリートの組み合わせで、さほど古さを感じさせません。
仮乗降場として旅客取扱いが始まったのが昭和28(1953)年ということですが、下りホームはその頃の建造と見ても違和感がないものの、上りホームはそれより綺麗なので、上りホームだけ後から改修されたのでしょうか?
(構造自体は上下とも同じとなっています)

ホーム全景。

手動閉塞時代の名残で、ホームは千鳥配置となっています。

手前が下りホーム、右奥が上りホーム。

両者は構内踏切を介して、出口に繋がっています。

構内踏切は警報機はあるものの遮断器はないので、渡る際には十分に注意が必要です。





布原「駅」の入口。

急な狭いスロープで構内踏切と接続し、それぞれののりばに階段で上がる構造です。


布原駅が「駅」より「信号場」らしい姿は、ホームを少し離れると体感できます。
駅を出て100m程度、新見方向に進んだところ。
こちらが従来の布原「信号場」としての
入口かと思われます。
駅の入口として使われている現在の入口より
間口が広く、車も出入りしている形跡があります。


自動閉塞となり、CTC化もされた現在、信号場にも運転要員は配置の必要がなく、駅の付帯設備にも人気はありませんが、大小数棟の建屋があります。

これらの建物は鉄道用地内にあるので、信号場に関連した建物と考えられます。
チラッとホームも見えますね。


少し上り方、新見駅方向に移動してみます。
上写真のグレーの電柱の根本にあったのが、
下写真の「工」マークの用地杭。
(「工」は工部省の頭文字です)
この場所の手前側は私有地のようでしたので、
ここが信号場の敷地の端と思われます。

上写真の反対側からの様子。

工部省のマークの用地杭は、

画面右のグレーの電柱のところに

あります。

画面左に見える橋を渡ると、布原の集落に行くことができます。



下りサンライズ出雲が通過。
出発信号の中継信号機がちょうど進行から停止に
切り替わるところです。

下りサンライズ出雲と交換のために運転停車していた、上り普通列車。

出発信号機のかなり手前で停車しており、写真は発車後を後打ちで撮ったものです。



このコンクリート塊は、

何かの跡でしょうか?

現在は私有地となっている畑の

真ん中にぽつんと残されています。



布原の集落から駅へのアプローチ道をさらに辿り、程なく西川の対岸に渡る橋が架けられています。

橋は欄干のないコンクリート橋。

右側(下流側)半分は後年に拡幅されたもののようです。

橋脚の造りに違いが見られました。


橋を渡ってすぐ。

動物捕獲用の檻が。

橋は欄干こそないものの幅員は

1車線分はあり、10tまでなら通行できるようです。


集落へと上がって行く道。

落ち葉も綺麗に掃除されており、

手入れが行き届いています。


上写真の道沿いにごみ収集箱が。

秘境駅と言われることの多い布原駅ですが、人の生活の息吹は確かに感じることができます。


列車の時間が近づいて来たので、再び布原駅に戻ります。

上りホーム端と、リピーター。


駅前を通り過ぎ少し下り方(備中神代駅方向)に来ると、線路が小さな沢を近代的なコンクリート桁で跨いでいます。

沢は足元の道路の下に土管が埋められていて、そこを通って西川に注ぐようになっていますが、水流はありませんでした。

降雨時や出水時にだけ水が流れる、

アイヌ語圏でいうところの

「サッナイ」「サッペッ」みたいなものかなぁと思ってしまいました。



上り1番のりば。
奥に見えるガーダー橋へと線路は続いています。

これだけ仮乗降場然とした駅ですが、踏切の音に加えて、伯備線標準装備の自動アナウンスまでしっかり完備されています。

しかも、ホームに黄色い線(点字ブロック)がないため、ちゃんとそれに対応した言い回しのものが流れます。

接近メロディは伯備線のタイプ(米子支社型)が流れます。

写真は上り線用のスピーカー。

ホーム上にはなく、駅の入口を挟んで反対側に無造作に取り付けられています。

下り線は線路を挟んで同じ位置(ホーム上)にあるので、上り線がこのような変な位置になったのかも知れません。


この後のスケジュールもあるので、後ろ髪を引かれる思いで、やって来た新見行きに乗車して新見駅に戻ることとします。
列車は東城発の新見行き。
平日の通学時間帯でしたので、
車内は結構混んでいました。


新見駅に戻りました。
1番のりばは芸備線、2番のりばは姫新線、
3、4番のりばは無く(線路のみ)、
5、6番のりばを伯備線が使用します。
1、2番のりばには架線がありません。
上写真は芸備線・姫新線ホーム、
下写真は伯備線ホームの駅名標です。
伯備線ホームでは当然、本当の隣駅である布原駅は
無視されています。


今回乗車した芸備線のキハ120。
写真は新見から布原に向かう際に乗車した車両です。
新見駅を発車する2本目の芸備線ですが、1本目は快速で伯備線内は全て通過してしまうので、この7時台の普通列車が布原駅に停まる最初の下り列車になります。
しかし、これも平日のみの運行ですので、土休日は新見から布原に行く最初の下り列車は13時台です。
矢神駅で上り新見行きと交換するので、今回はこれで布原まで行き、約1時間の滞在で8時過ぎに新見に戻ることにしました。
訪問時は所属表記が「岡オカ」から「中オカ」に書き換えられている過渡期だったようで、両者が混在していました。



以上、簡単ですが現地調査のレポートでした。
宝探しのような探索で、目に付くもの全てに心が奪われ、全く統一感のない羅列的な構成となり、毎度ながらお恥ずかしい限りです。
今回、曇天時の朝7時台の訪問ということで、写真も不鮮明なところが多く、お見苦しく大変恐縮ですが、雰囲気だけでも感じて頂けたら幸甚です。

実際に訪問される際は、停車する本数が少ないので、予め時刻表をご確認下さい。
新見駅から約4kmなので、徒歩で向かうこともできますが、山中で野生動物などと遭遇するリスクもありますので十分にご注意下さい。

以上、ここまで、お付き合い頂き、誠にありがとうございました。