今回は前回の続きとして、三重県内の紀勢本線、関西本線にかつて存在した駅について調べてみたいと思います。



1.関西本線 午起(うまおこし)駅


写真は昭和12(1937)年10月1日現在の鉄道省発行の停車場一覧の1ページです。
赤線で示したところに、「午起仮停車場」とあります。
開業は昭和6(1931)年。

「駅名来歴事典」(石野哲氏、JTBパブリッシング刊)によると、午起仮停車場は昭和23年8月30日付けで廃止となっていますが、同29年6月1日に正駅として復活しており、10年後の同39年10月1日に再度廃止となっています。

晩年は、時刻表を見ると大部分の列車が通過しており、富田〜四日市間の区間運転および富田から三岐鉄道に直通する列車(いずれも気動車)のみが停車していました。
昭和32(1957)年7月号の交通公社版時刻表を見ると、当時9往復の列車が停車していましたが、上述の通り四日市〜富田間相互発着以外の旅客には利用しにくく、長距離列車の臨時停車もしていなかったようなので、既に海水浴場へのアクセス駅としての機能はなかったのかもしれません。
このようなダイヤですので、四日市市内でありながら停車本数が極めて少なく、さらに当時の国鉄としては両隣の駅との間隔が短かったのも短命に終わった一因と思われます。
そもそも四日市駅自体が、近畿日本四日市駅(旧・諏訪駅、現在の近鉄四日市駅)に比べ市街の中心から外れてしまったので、都市近郊輸送という点では国鉄の方が分が悪かった面もあるでしょう。

四日市市午起は三滝川と海蔵川に挟まれたデルタ地帯に位置し、現在は住宅地となっています。
海側は製油所になっており、工業地帯の様相も呈していますが、午起駅があった頃は全く趣きが異なったのでしょう。
国会図書館収蔵の「四日市市政要覧 昭和10年版」によると、午起駅(当時は仮停車場でしたが、本書には「午起驛」として記載されています)では当時、貨物の発着もあったとも読み取れるような記載をされていますが、終始旅客駅として記録されているので、これについては何とも言えません。
当時の午起には午起海水浴場があり、午起仮停車場も元々はそこへのアクセスを目的として設置されたものですが、昭和30年代に入り海岸が埋め立てられ、工業地帯へと変貌していく中で元々の目的を失った午起駅は廃止の運びとなったようです。
国土地理院提供の昭和36(1961)年の航空写真を見ると、既に海岸は埋め立てが進み、製油所の建設も始まっているように見えます。
一方で内陸部はまだ田畑が主体で、宅地化された現在に比べ住宅は少ない印象です。
デルタ地帯内には午起地内からは1.5kmほど離れているものの近鉄名古屋線川原町駅もあるので、午起駅が住宅地の駅として生き残ることは当時は難しかったのかもしれません。
その後、午起製油所の建設をめぐっては漁業問題、公害問題などさまざまありましたが、本題からは話が逸れますので割愛致します。

昭和36(1961)年当時の航空写真(国土地理院)。

矢印で示したところが午起駅と思われます。

海岸には既に広大な埋め立て地が造成されています。


ちなみに「時刻表 復刻版 戦後編5」(JTBパブリッシング刊)収録の時刻表を見てみますと、復活前の仮停車場時代最末期となる昭和23年7月号時刻表(交通公社版)では、シーズン中にも関わらず、この月は1本の停車もなかったようです。
復活後となる昭和29年10月号、同30年8月号では廃止時同様、富田発着または富田から三岐鉄道に直通する列車のみの停車となっており、復活後は海水浴客向けの駅という扱いではなくなっていたものと思われます。



2.紀勢本線 狗子ノ川(くじのかわ)駅

再び昭和12年の停車場一覧から。
「狗子ノ川」という旅客駅が見られます。
午起とは異なり、こちらは開設時よりれっきとした正駅であったようです。
大正14年開業。
表中の「秋津野」は現在の紀伊佐野駅です。
この当時は紀勢西線がまだ延伸しておらず、紀勢中線という飛び地の路線になっています。
(元々新宮鉄道の手によって開通したものを国有化。)
後に紀勢西線と接続し、紀勢中線も紀勢西線に編入されることになります。

狗子ノ川駅は謎が多い駅です。

まず、駅が存在した末期の様子を探るべく、国会図書館所蔵の那智勝浦町史に狗子ノ川駅の記述を探しましたが、町史では一切触れられていませんでした。


「駅名来歴事典」によれば昭和42(1967)年10月1日の廃止だそうですが、末期の営業形態は判然としません。

交通公社版の時刻表を見ると、索引地図には長らく掲載されているものの、時刻表本文には掲載されていないのです。

「時刻表 復刻版 戦後編3」および同「5」を合わせると昭和23年から42年までの時刻表が収録されていますが、狗子ノ川駅の存在は索引地図では確認できるものの、時刻表には一切姿を現しません。

復刻版に収録の時刻表を見ると、索引地図では昭和36年9月号まで掲載があり、次の収録号である昭和39年9月号では狗子ノ川を削除したような痕跡があり(那智〜宇久井間の駅間が他より長く描かれている)、駅として存在した期間に出た最後の時刻表と思われる昭和42年9月号では既に索引地図からも跡形もなく消え去っています。

こうした駅の場合、交通公社以外の出版社から出ている時刻表には掲載されているケースもありますが、狗子ノ川駅の場合、鉄道弘済会版、交通案内社版どちらの時刻表にも掲載がないという、八方塞がりの状況です。

(交通案内版は昭和33年10月号を参照)

確認した範囲ですと、昭和39年1月号の弘済会版時刻表でも索引地図上、狗子ノ川駅を削除したような痕跡が見て取れます。

しかし「停車場変遷大事典」によれば昭和29(1954)年には旅客取扱い範囲の制限を撤廃している記録があるので、少なくともこの時点では旅客営業はまだ続いていたものと思われます。


一方で大正14年に駅が設置されるに際しては、官報に告示が出ており、国会図書館デジタルコレクションにて確認ができます。

国会図書館デジタルコレクション

(官報 大正14年3月26日)8コマ目

※国会図書館へのログインなしで閲覧可能です。


これを見ると宇久井駅(既設駅)から1.5哩(マイル)、那智駅(同)から1.0哩とあり、昭和12年の停車場一覧にある、両隣の駅からそれぞれ2.4km、1.6kmという記載とも一致します。

(1マイル≒1.6km)

過去記事(下記)もよろしければ参照下さい。

※後に改キロ、廃止時点では宇久井駅から2.7km、那智駅から1.6km。
現在の並行する国道42号の道のりでは、駅跡地までそれぞれ約2.9km、1.6kmほどです。

狗子ノ川駅の様子を捉えた文献として、戦前の南海鉄道が発行した「南海叢書 南紀熊野篇」(昭和17年)に狗子ノ川駅前後の車窓について少しだけ言及があります。

同書P.30「新宮まで」の項より抜粋して引用します。

(漢字・仮名遣いは原文のまま、下線色文字および(  )内はブログ筆者による加筆)


<以下引用>

紀伊勝浦驛を出て天滿宮の森を車窓の左に見て紀伊天滿驛を過ぎ天滿川を渡ると松の綠(みどり)も美しい曲浦が現はれる。

(中略)

那智驛はこの浦の略中央に位する瀟洒な建物で那智山へバスが通つてゐる。驛を出るとすぐ附近の海濵は神武天皇御上陸地聖蹟と云はれてゐる。それより狗子ノ川驛までの間、斷えず車窓に見える蒼海の一孤島は山成島(やまなりじま)と呼びこの島に因む維盛(これもり)入水(じゅすい)の悲話を「平家物語」が傳へてゐる。狗子ノ川驛を後に一山越えると宇久井濵である。なほも一丘過ぎると『駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮』と定家朝臣の詠める佐野のあたりはいま新宮市の一部になつてをり秋津野驛(現在の紀伊佐野駅)がある。

(以下略)

<引用終わり>


このように風光明媚な車窓が楽しめたようです。

本書は観光ガイドブックのような要素が強かったようで、狗子ノ川一帯も観光名所としてPRされていたものと思われます。

このような成り立ちの駅ですから、戦時色が濃くなると、両隣からも距離が近いとあっては駅として生き残ることも難しかったのではないかと想像はできます。

しかし戦中に休止あるいは廃止になったという記録は見つかっていません。

一応、戦前の時刻表には狗子ノ川駅も掲載されているものの、元々なのかある時期からなのかは分かりませんが停車列車も一部に限られており(短距離列車のみが停車)、結局戦後には忽然と時刻表から姿を消しています。

廃止になっていないにも関わらず、戦後の、駅として営業が続けられていた時代にあたかも等閑視されていたかのような扱いには疑問が残ります。


最晩年となる昭和41年5月に発行された「地質ニュース」(通算141号)には「宇久井・那智両駅の中間の狗子川駅の東方海岸に…」という記述があり、当時はまだ辛うじて駅が土地のランドマークとして認知されていたことが窺えます。


昭和40(1965)年当時の狗子ノ川駅周辺の航空写真(国土地理院)。

矢印は狗子ノ川(河川)の河口。

当時はまだこの辺りに狗子ノ川駅があったはずですが、判然としません。



現在は狗子ノ川地内にニュータウンも建ち並んでいますが、ここは宇久井駅からの方がアクセスしやすく、狗子ノ川駅が現存していたとしてもそこまで多くの利用は期待できないかもしれません。




以上、両駅について少しだけ掘り下げてみました。

紀伊半島の付け根と突端にあった、今はなき小駅たち。

いにしえの時刻表や路線図で異彩を放った両駅も廃止から半世紀以上が経ち、今は静かに歴史の彼方に眠っているばかりです。


今回もここまでお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。