宗谷本線の名寄駅から出発して、上川郡、紋別郡をオホーツク海に沿って南下し、石北本線の遠軽駅までを結んだ、名寄本線。

国鉄〜JRの「本線」の中で唯一特定地方交通線に指定され、全線が廃止となってしまった路線です。

その廃止は平成元(1989)年、今から約35年前のこととなります。

交通公社版「北海道時刻表」

1977年2月号より。

緑のマーカーで示した区間が

名寄本線です。


名寄本線は「本線」とはいえ、近代化の波から取り残された、ローカル線色の濃い路線でした。

国鉄時代には、今では考えられない列車も走っていました。

そんな往時の様子を、時刻表から読み取ってみたいと思います。



1.急行「天都」

「天都」とは網走市にある天都山から名付けられた列車名です。

名寄本線の急行列車に付けられた名前ですが、この列車は遠軽駅から石北本線に直通して網走まで向かうので、こうした命名になったのでしょう。

ただし石北本線内では急行「大雪」に併結されるため、時刻表上で「天都」の列車名が見られるのは名寄本線内のみとなります。


昭和50年代の時刻表を見ると、1日1往復が設定され、その下り列車で奇妙な表記を見ることができます。


鉄道弘済会版「道内時刻表」
1978(昭和53)年8月号より
余談ですが上りの時刻表の「開盛」の振り仮名が「かいせん」になっています。
複数の号でこの誤植が確認できます。

これを見ると、紋別駅で先行の普通列車の一部が後から来る急行「天都」に連結され、紋別駅から急行となって走るように読み取れます。

実際に当時はそのように運行されていたそうですが、後続の優等列車の待ち合わせの際に、待たされている普通列車の一部が優等列車に連結されて先に行ってしまうというのはなかなか無いことだと思います。

普通列車として急行の待ち合わせをしていると思いきや、一部の車両は急行に寝返って先に行ってしまう、そして残された相方の車両がその後を追う、不可思議な運用です。


ちなみに急行「天都」はこの後、遠軽駅で急行「大雪1号」に連結され、急行「大雪1号」は網走駅に着いた後、その一部が続いて釧網本線に直通し、標茶駅で標津線から来る普通列車を併結して釧路駅まで向かうという、アクロバティックな運用でした。


交通公社版「北海道時刻表」
1977(昭和52)年2月号より
交通公社版の方が詳細で、紋別駅の到着時刻が表示されているほか、「前1両継送」との表示があります。


2.紋別駅

名寄本線の沿線自治体では唯一、市制を施行している紋別市の代表駅でした。

しかし興浜南線の接続する興部駅、渚滑線の接続する渚滑駅、湧網線の接続する中湧別駅に比べると、駅構内の広さもコンパクトで、時刻表での表記もあまり主要駅に見えない書き方をされてしまっています。

それでも昭和58(1983)年発行の「北海道690駅」(小学館刊)によれば当時1日800人の乗降客があり、紛れもなく線内最大の駅でした。

(参考までに、当時の名寄駅が1日1564人、遠軽駅が1305人、中湧別駅が686人)

さらに、線内の途中駅としては唯一「みどりの窓口」も設置されていました。

この紋別駅のみどりの窓口は、昭和50年代中ごろに新設されたもののようなので、その設置期間は10年前後と、全国的に見てもかなり短命に終わったみどりの窓口だったと思われます。


紋別駅と隣の潮見町駅とはわずか1.2kmの距離で、もちろん名寄本線内では最も駅間距離が短い区間でしたが、北海道の国鉄路線としてもかなり短い部類に入ります。

(函館本線下鶉駅〜鶉駅間の0.8kmが北海道の国鉄としては最短の駅間距離だったと思われます)

旭川鉄道管理局管内では仮乗降場を除けば最も短い駅間距離だったのではないでしょうか。

(間違っていたら申し訳ありません)



3.石北本線とのパワーバランス

元々は湧別軽便線として現在の石北本線北見駅〜遠軽駅〜名寄本線湧別駅が一体となって開通したことに始まる名寄本線ですが、全通後は名寄駅から遠軽駅を経て北見駅(旧野付牛駅)までを最短で結ぶ交通路として栄えました。

北見駅から遠軽駅までは、後の池北線とともに網走本線を形成しましたが、石北線新旭川駅〜北見駅が開通したことで、道央から北見駅までは石北線・網走本線を経由した方が圧倒的に速くなり、やがて石北線と網走本線北見駅〜遠軽駅〜網走駅間が石北本線となり、名寄本線は一気にローカル線へと転落してしまいます。

石北線全通の時が、後の石北本線と名寄本線との主客転倒の瞬間となってしまった形になります。


それでも急行「紋別」が晩年まで札幌駅から直通し、名寄駅を経て、名寄本線全線を走破していました。

(昭和52年当時の急行運転区間は下りが名寄〜興部間、上りが渚滑〜名寄間)



4.最終列車

再びダイヤの話題に戻ります。

名寄駅発下りの最終列車は、昭和53(1978)年当時、上興部行きでした。

その1本前はなんと急行列車「紋別」で、上興部駅には停車せず、その1つ先の駅、西興部駅に停車でした。

上興部駅も紋別郡西興部村にある駅で、西興部駅は西興部村の代表駅なので急行が停車しますが、この急行も興部駅からは普通列車となるので、名寄駅から到達すると考えた場合、西興部駅から興部駅までの間(22.6km)だけが普通列車の最終が名寄発18時台とやたら早い時間帯になっています。

この記事を書いている7月初めならばまだ明るい時間帯です。

興部駅から先は先述の急行が20時台に名寄駅を発車、上興部駅までは最終の普通列車が21時台に名寄駅を発車しています。

こうしたダイヤも、名寄本線のローカル線的な一面と言えるかもしれません。

それでも複数の急行列車が走っていることを思うと、やはり「本線」だという印象もあります。


ちなみに名寄側から来ると、分水嶺を越えて紋別郡域に入って最初の駅が上興部駅で、1つ前の一ノ橋駅(上川郡下川町)からは11.0km離れており、気動車で15〜16分を要する区間です。

西興部駅は片面ホーム1面のみで旅客列車同士の交換ができないため、最終列車は上興部止まりとしていたのかもしれません。

古くは下川発一ノ橋行きという列車もありましたが、最終列車が一ノ橋止まりではなく分水嶺を越えて一駅先の上興部まで、そしてその1本前が「紋別」というダイヤは昭和30年代から長らく変わっていませんでした。



5.循環列車「旭川」

前述の通り、遠軽駅までは石北本線と名寄本線、ふたつのルートができたことになりますが、旭川駅を起点として、このふたつのルートを利用した循環列車が昭和40年代まで存在しました。

その名も「旭川」です。

新設当初は準急でしたが、走行距離100km以上の準急列車が全て急行に改められた際に「旭川」も急行列車となりました。

北海道国鉄で定期列車として運転された循環列車は、この「旭川」と、札幌駅を起点としていた「いぶり」の2列車のみです。

「旭川」については過去の記事で詳しく取り上げていますので、よかったらご参照下さい。



準急(急行)「旭川」の運転区間。

旭川→(宗谷本線)→名寄→(名寄本線)→紋別→遠軽→(石北本線)→新旭川→旭川

逆回りの列車も設定されていました。




掘り下げれば掘り下げるほど魅力が出てくるローカル線。

名寄本線はそんなローカル線のエッセンスをたくさん詰め込んだ、魅力的な路線でした。

まだまだご紹介していない要素はたくさんありますが、今回はここで筆を置かせて頂きます。

ここまでお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。