今回も前回に続き、北海道で駅名の変更が行われた事例を路線別に列挙してみたいと思います。

資料的な記事になりますが、よろしければお付き合い下さい。

よろしければ前回の記事もご覧下さい。


また、今回もデータ類はJTB刊「停車場変遷大辞典」を元にしておりますが、当方の見落としなどで誤りが万一ありましたら、ご指摘頂けると有り難いです。


文中、(仮)は仮乗降場、(仮停)は仮停車場、(留)は停留場(私鉄時代)、(信)は信号場を表し、特にこうした標記のないものは正式な駅(停車場)を意味するものとします。



●名寄本線

1.瀬戸牛(せとうし)→西興部(にしおこっぺ)

改称年月日:昭和36(1961)年3月20日

旧駅名の由来:アイヌ語の「セッ・ウㇱ・ナィ」(set-us-nay:鳥の巣の多い川)から。あるいは「チロンヌㇷ゚・セッ・ウㇱ・ナィ」(chironnup-set-us-nay:狐の檻のある川)という説もある。chironnupは「キツネ」。西興部村の役場や市街地がある地域を瀬戸牛と呼んでいた。

新駅名の由来:駅の所在する村名から。西興部村(紋別郡)は大正14(1925)年に興部村(当時)の西半分が分村し成立。興部はアイヌ語の「オ・ウ・コッ・ペ」(o-u-kot-pe:川尻が互いにくっつく〈くっついている〉もの〈川〉)から。


2.秋里(あきさと)(仮)→旭丘(あさひおか)(仮)→旭ケ丘(あさひがおか)(仮)

改称年月日:不詳

旧駅名の由来:かつては藻興部(もおこっぺ)と呼ばれた地区であるが、明治32(1899)年に高知県から秋沢寿気という人物が小作人を連れて入植し開拓が始まったことから、秋里の名がついた。昭和26(1951)年には興部町の行政字名となっている。

改称時期は不明であるが、仮乗降場の開設が昭和31年(1956)9月1日で、昭和37(1962)年5月号の交通公社版時刻表では既に「旭丘」(振り仮名なし)となっているので、かなり早い時期の改称と思われる。

新駅名の由来:旭町という地名があり、また駅付近が小高い丘になっていることから、両方の字を取って「旭丘」「旭ケ丘」としたといわれている。JTB社刊「停車場変遷大辞典」によれば、一度「旭丘」に改称後、「旭ケ丘」に再改称したとあるが、「旭丘」で「あさひがおか」と振り仮名をしている時刻表もあり、改称時期がはっきりしない以上、それが本当に改称であったのか、あるいは仮乗降場特有の「表記のブレ」なのか、定かでない。

ちなみに、昭和47(1972)年3月改正時に北海道総局が発行した時刻表では「旭丘」の表記で振り仮名が「あさひがおか」となっているが、昭和49(1974)年2月号、昭和55(1980)年8月号、昭和59(1984)年2月号の鉄道弘済会版道内時刻表、および昭和52(1977)年2月号の交通公社版北海道時刻表では「旭丘」の表記で振り仮名が「あさひおか」となっている。弘済会版では、昭和61(1986)年8月号では「旭ケ丘」の表記に「あさひがおか」の振り仮名に変化している。参考までに。


3.一区中通(いっくなかどおり)(仮)→共進(きょうしん)

改称年月日:昭和34(1959)年11月1日

旧駅名の由来:上湧別村は当初、屯田兵によって開拓が進められ、兵村として発展した。このため地区名は北兵村1区〜3区、南兵村1区〜3区などと命名され、仮乗降場名もこれによったものと思われる。上湧別町は現在湧別町に合併しているが、かつて上湧別町役場が置かれた市街地は地名を屯田市街地といい、その北側が北兵村、南側が南兵村となり、これは現在まで地名に引き継がれている。当仮乗降場が所在したのは現在の地図に照らし合わせると、紋別郡湧別町南兵村1区にあたる。

新駅名の由来:地区名から。住民が手に手を取って共に進もうという意味で名付けたという。正駅への昇格時にに改称。


4.社名淵(さなふち)→開盛(かいせい)

改称年月日:昭和9(1934)年2月5日

旧駅名の由来:アイヌ語に由来するというが語義がはっきりしない。一説には「サン・ナィ・プト゚」(san-nay-putu:下る川の川口)で、川名は現在社名淵川というが、元々は「サンナイ」が川名で、その川口が社名淵だったのではという説である。社名淵川は上湧別町(現・湧別町)と遠軽町の境を流れ、上流は遠軽町内となるが、地名としては社名淵が遠軽町側、開盛が上湧別町側にあたる。開盛駅は上湧別町内であった。

新駅名の由来:湧別川に架かる橋(開盛橋)の名が地区名となり、駅名となった。


5.学田(がくでん)(仮)→北遠軽(きたえんがる)

改称年月日:昭和34(1959)年11月1日

旧駅名の由来:明治29(1896)年、宮城県から入植した押川方義、信太寿之らが開設した学田農場が地名となった。

新駅名の由来:正駅化に際して改称。前年に富良野線学田駅が開業していたので、これと区別するためか、改称した。遠軽の北側に位置することから。遠軽は「インカㇽ・ウシ」(inkar-us-i:いつも見張りをする処)から。なお富良野線の学田は北海道大学の農場があることにちなむ。


6.下湧別(しもゆうべつ)→湧別(ゆうべつ)

改称年月日:昭和29(1954)年11月10日

駅名の由来:湧別の名はアイヌ語に由来するが、諸説あってはっきりしない。yu-pet(温泉の川)、yupe(チョウザメ)、ipe-ot-i(食糧が豊富な処)など。yu-petが一番古い時代の説であり、当時のアイヌ伝承に基づいて書かれた可能性が高い説である。

明治43(1910)年に湧別村が下湧別村に改称したのに始まり、昭和28(1953)年に町制施行に当たって湧別町に改称した。駅名はこれに合わせた形となる。


●湧網線

1.中佐呂間(なかさろま)→佐呂間(さろま)

改称年月日:昭和28(1953)年10月22日

旧駅名の由来:地区名から。佐呂間村(昭和28年より佐呂間町)の中心部で、中佐呂間市街を形成していた地区。佐呂間別川中流域にあたるためこの名が付く。このあたりでは湧網線はサロマ湖畔から離れ大きく内陸へと入る。

新駅名の由来:佐呂間村が町制施行するにあたり自治体名を駅名とした。佐呂間の名はアイヌ語の「サロマペッ」(sar-oma-pet:ヨシ原のある川)からで、佐呂間別川のこと。


2.下佐呂間(しもさろま)→浜佐呂間(はまさろま)

改称年月日:昭和38(1963)年10月1日

旧駅名の由来:佐呂間別川の下流、サロマ湖に注ぐ川口附近に位置するため。

新駅名の由来:サロマ湖の浜辺に位置するため。サロマ湖は汽水湖で外海とつながっており、海岸線ではなくサロマ湖畔を走行する湧網線には、通常は沿岸部に多く見られる「浜〇〇」の駅名が存在する。ただし、浜佐呂間のあたりはオホーツク海岸からはいくらか距離がある。



●石北本線

1.野上(のがみ)(仮)→新栄野(しんさかえの)(仮)

改称年月日:昭和42(1967)年11月15日

旧駅名の由来:アイヌ語の「ヌㇷ゚・パ」(nup-pa:野のかみ手)を和訳したもの(角川日本地名大辞典)。昭和37(1962)年より遠軽町の行政字名となったが、元々は明治24(1891)年に設置された駅逓の名称として採用された地名。

新駅名の由来:仮乗降場の所在地名は改称時点では栄野となっていた。現在栄野と称している地域は北の「隠れ沢」と南の「向瀬戸瀬」とかつては呼ばれていた。栄野の名は昭和37年に野上と同時に遠軽町の行政字名となっているが、野上は栄野から見て湧別川の対岸にあたる。昭和22(1947)年までは行政区上、野上の一部であったが分離し、新野上と称するようになり、昭和32(1957)年に行政の区制施行に際し栄野に改め、前述の通り昭和37年より行政地名(字名)としても栄野となった。より実態に即した仮乗降場名に改めたといったところであろう。栄野の名前そのものの由来ははっきりしないが、発展を願って付けたものと思われる。また仮乗降場名に「新」を冠した理由も定かでない(距離的に比較的近い境野駅との区別目的だろうか)。

国鉄時代は駅名標のローマ字表記が「SHINSAKAENU」となっていたことで知られ、利用者僅少で早々に廃止された現状を思うと、験担ぎのためにもせめて修正して欲しかったように個人的には感じる。


2.下生田原(しもいくたはら)→安国(やすくに)

改称年月日:昭和21(1946)年3月1日

旧駅名の由来:生田原川の下流側に位置するため。生田原ははアイヌ語の「イキタラ」(ikitara:チシマザサ〈の茎〉)より。

新駅名の由来:かつて佐呂間越えの旅人が往復に休憩した土地であり、一帯は肥沃な農耕地であったため、大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)「安国と平けく」からとったものという(角川日本地名大辞典)。

昭和19(1944)年に行政字名として地区名が改称されたのに合わせて駅名変更。

蛇足ながら、隣の上生田原駅→生田原駅との間に設けられた生野仮乗降場は前項と同じ栄野という所在地名であった(前項の仮乗降場は遠軽町栄野、生野仮乗降場は生田原町栄野)。


3.上生田原(かみいくたはら)→生田原(いくたはら)

改称年月日:昭和21(1946)年3月1日

旧駅名の由来:生田原川の上流側に位置したため。

新駅名の由来:生田原町の中心に近く、地区名が「生田原」であり、これに合わせる形で改称。生田原の語義は前項参照。


4.奔無加(ぽんむか)→金華(かねはな)

改称年月日:昭和26(1951)年7月20日

旧駅名の由来:アイヌ語の「ポン・ムカ」(子なる無加川=無加川の支流)から。「ムカ」の語義は不詳であるとされ、永田地名解では著者の永田方正氏が土地のアイヌから聞き書きした解として「ム・カ」とし、曰く「ムは塞る、カはイカにして越すの意。此川温泉があるがために水氷ること遅し。水氷りて流れ塞る時始めて氷上を越すを得べし。故に名くと云ふ」とのことである(mu-ika:塞がり越える;溢れる)。江戸期の松浦図には「ムッカ」とあり、発音的に永田説が全面的に有力とまでは言い難いところのようである。

新駅名の由来:付近に金鉱があるため、「金」の字と、無加川の「加」の字を「華」に代えて、二字を組み合わせた。


5.上相ノ内(かみあいのない)→相ノ内(あいのない;2代目)→相内(あいのない)

改称年月日:昭和9(1934)年2月5日、平成9(1997)年4月1日

駅名の由来:無加川の上流側にあるため「上」を付けたが、市街中心に近いので、こちらを「相ノ内」とし、従来の相ノ内を東側にあることから「東相ノ内」と改めた。「相ノ内」はアイヌ語の「アィヌ・オ・ナィ」(aynu-o-nay:人のいる川)から。人口希薄地帯にあって人が住んでいる沢だったのでこう呼ばれたと推測されている。

なお、当駅と留辺蘂駅の間、無加川のさらに上流側には下相ノ内線路班および下相ノ内仮乗降場が置かれていた時期があるが、線路班は昭和23(1948)年改正前後から、仮乗降場は昭和25(1950)年〜昭和42(1967)年の間に存在したため、上相ノ内の相ノ内への改称後であり、上流側なのに「下相ノ内」があるというのは、相ノ内市街あるいは北見市街から遠い側ということで「下」としたものと考えるのが自然である。


6.相ノ内(あいのない;初代)→東相ノ内(ひがしあいのない)→東相内(ひがしあいのない)

改称年月日:昭和9(1934)年2月5日、平成9(1997)年4月1日

駅名の由来:前項の通り、相ノ内の市街に近い上相ノ内駅に「相ノ内」を譲って改称。当駅は北見市東相内、前駅は北見市相内に所在し、民営化後、地名に合わせて「ノ」を外す表記変更を実施した。


7.野付牛(のっけうし)→北見(きたみ)

改称年月日:昭和17(1942)年10月1日

旧駅名の由来:アイヌ語であるが、説の古い順に「ヌㇷ゚・ケㇱ」「ヌㇷ゚・ウン・ケㇱ」「ヌㇷ゚・ホン・ケㇱ」などいくつか説がある。順にnup-kes:野の末端、nup-un-kes:野の末端、nup-hon-kes:野の腹の末端。

古い時代のものほど、元のアイヌ語に近い可能性が高いが、確実とは言えない。なお、この地名は北見平野の北東部の隅から起こった地名というが、次第に広域の地名となり、これを和訳した地名が現在の「端野」の地名の由来ともなっている(野付牛村から分村)。

新駅名の由来:駅の所在した野付牛町が昭和17年に市制施行した際に北見市に改称、駅名もこれに合わせた。北見国の地理的、経済的中心地であるため。北見国は明治2(1869)年に国名を制定する際に、当地一帯が北海岸と呼ばれていたことや、快晴の日には北(樺太)を見ることができることから提案された名が採用されたもの。


8.柏陽高校前(はくようこうこうまえ)(仮)→柏陽(はくよう)(仮)

改称年月日:不詳

駅名の由来:北見柏陽高校の最寄りの乗降場として設置されたことに由来。開設時から「柏陽」を名乗っていたとする資料が多く、JTB社刊「停車場変遷大辞典」でも、開設時は乗降場名を「柏陽高校前」としていた旨の記述はなく、本稿で取り上げるべきか判断に迷ったが、前回取り上げた池北線の「本別」のような反証も見つかっていないため、敢えて取り上げることとした。

富士コンテム刊「北海道の駅878ものがたり」では平成4(1992)年10月1日(移転時?)に改称したと記述されているが、昭和40年代の時刻表では既に「柏陽」となっているので、これは明らかに誤りである。

開設は昭和32(1957)年。1962年5月号の交通公社版北海道時刻表では「柏陽」となっている。

地名は元々兵村1区と称した地域の一部で、北見市字小泉を経て、昭和59(1984)年に北見市柏陽町となる。角川日本地名大辞典によれば「昭和32年に柏陽高校が移転新築。(中略)高校移転と同時に、国鉄石北本線柏陽乗降場設置。」とあり、開設時から「柏陽」であったように読み取れる。また北海道北見柏陽高等学校の公式HPによれば「北見柏陽高校」への改称はまだ野付牛町にあった頃の昭和25(1950)年のことで、小泉に移転したのが昭和32(1957)年であるため、「柏陽」という地名が「柏陽高校があることから付いた」ということが時系列から読み取れる(校名も柏の木にちなんで付けられた経緯があり、地名から取ったのではないという側面もある)。このことから開設直後あるいは開設前の通称(別称)として「柏陽高校前」という停車場名が存在したという推測もできるが…。


9.旭野(あさひの)(仮)→西女満別(にしめまんべつ)

改称年月日:昭和25(1950)年1月15日

旧駅名の由来:不詳。大空町(平成18〈2006〉年に女満別町と東藻琴村が合併して誕生)の公式HPによれば、当乗降場は住民の請願により設置されたもので、請願時は地区名を取って「よしの駅」という仮称で嘆願が出されていた。(「よしの」は「芳野」というこの辺りの地域の呼称。)

請願された地点は湿地になっていて乗降場設置に不向きであったため、80mほど南(美幌駅寄り)に変更となったという。

新駅名の由来:女満別市街地の西(南西)に位置することから。女満別はアイヌ語の「メㇺ・アン・ペッ」(mem-an-pet:湧き壺のある川)から。


10.網走(あばしり;初代)→浜網走(はまあばしり)(貨)

改称年月日:昭和7(1932)年12月1日

駅名の由来:網走の名はアイヌ語に由来するが諸説あって不詳。現在の網走駅が開業し、それまでの網走駅は貨物駅となり、改称された。



●釧網本線

1.弟子屈(てしかが)→摩周(ましゅう)

改称年月日:平成2(1990)年11月20日

旧駅名の由来:アイヌ語の「テㇱカ・カ」(teska-ka:ヤナの岸の上)より。teskaは魚を獲るヤナ(tes)の岸(ka)の意という(地名アイヌ語小辞典)。

新駅名の由来:現在も弟子屈町の代表駅であるが、当駅が摩周湖観光の玄関口でもあることから改名。駅から摩周湖までは8km程度離れていおり、直線距離では北隣の美留和駅や川湯温泉駅の方が近い。摩周の名はアイヌ語の「マㇱ・ウン・ト」(mas-un-to:カモメがいる湖)というが、摩周湖のような内陸にカモメがいるはずはなく、そもそもカモメをマㇱ(mas)と呼ぶのは北海道西部・北部で、この地方ではカピゥ(kapiw)と呼ぶので、多くの学者はこの節に疑義を呈しているものの、他に説がなく、語義は分かっていないのが現状である。

余談だが留萌地方にある増毛の語源が「マㇱ・ケ」(mas-ke:カモメの処)という説があるがこれは誤りであると判明しているものの、カモメをマㇱと呼ぶのはまさにこちら側の沿岸のアイヌ語なのである。

摩周湖は釧路アイヌにはキンタン・カムイ・ト(←キㇺ・タ・アン・カムィ・ト;kim-ta-an-kamuy-to:山にある神の湖)あるいは単にカムィ・ト(kamuy-to:神の湖)と呼ばれていたようである。


2.川湯(かわゆ)→川湯温泉(かわゆおんせん)

改称年月日:昭和63(1988)年3月13日

駅名の由来:アイヌ語の「セセキ・ペッ」(seseki-pet:温泉の川)あるいは「セセㇰ・ペッ」(sesek-pet:熱い川)を意訳したもの。

「温泉」を表すアイヌ語は多くの地で「ユ」(yu)が用いられるが、これは和語から流入した外来語で、本来のアイヌ語は「セセキ」(sesek-i)であったらしい。しかしわずかに北海道東北部から千島にかけて地名として残っているに過ぎず、ほとんどは「ユ」に取って代わられたという。北海道や東北で「関(せき)」という語を含む地名をこの「セセキ」で解しようとする説も見かけるが、どうも無理がありそうである。


3.上札鶴(かみさっつる)→緑(みどり)

改称年月日:昭和31(1956)年4月10日

旧駅名の由来:札弦川の上流に位置することから。

新駅名の由来:昭和30(1955)年、上斜里村の町制施行により清里町が成立し、この地が新たに「緑町(みどりまち)」という行政地名となったため、駅名もこれに合わせた。緑に囲まれ静かな土地であることから命名。清里町の発足に合わせて、当駅から3駅連続で同時に駅名が変更されている。


4.札鶴(さっつる)→札弦(さっつる)

改称年月日:昭和31(1956)年4月10日

旧駅名の由来:アイヌ語の「サㇰ・ル」(sak-ru:夏の道)から。夏になると北見からこの川伝いに海沿いの釧路や根室に出て漁をするのに使われた交通路である。古くは「札鶴」と書き、駅名もこれによった。

新駅名の由来:昭和30(1955)年に上斜里村が町制施行し清里町になった際に起立した行政地名が「札弦町(さっつるまち)」という表記となり、駅名もこれに合わせた。川名が「札弦川」であるので、そちらの表記に統一した形となる。


5.上斜里(かみしゃり)→清里町(きよさとちょう)

改称年月日:昭和31(1956)年4月10日

旧駅名の由来:斜里の市街より斜里川の上流に位置するため。上斜里市街を形成していた地区。上斜里村は斜里町と小清水村のそれぞれ一部から独立して昭和18(1943)年に成立した。

新駅名の由来:上斜里村が昭和30(1955)年に町制施行した際に清里町に改称、駅名もこれによった。町名は母村である小清水村の「清」と斜里町の「里」から一字ずつ取り、清らかな里となるよう願いを込めて名付けられた。


6.猿間川(さるまがわ)→中斜里(なかしゃり)

改称年月日:昭和25(1950)年9月10日

旧駅名の由来:川名は「さろまがわ」と読む。アイヌ語由来の地名であるが諸説あり、江戸期には「シヤリハ」と記録されている。斜里町史地名解では「サㇽ・パ・オマ・ナィ」(sar-pa-oma-nay:斜里の川しもの川)とあり、江戸期に記録された音にも近い。「pa」は「かみ手」の意だが、斜里側下流の「支流」であることを示したもののようだ。sar(斜里)は「ヨシ原」の意。

新駅名の由来:斜里川沿い、斜里と上斜里の間にあることから。


7.斜里(しゃり)→知床斜里(しれとこしゃり)

改称年月日:平成10(1998)年4月11日

旧駅名の由来:アイヌ語の「サㇽ」(sar:ヨシ原)から。アイヌ語ではsとshの発音は同一扱いで話者によってどちらの音でも読まれていたため、ここではshに当たる音で文字に記録された形となる。またsarは第三人称形になる場合、語尾にiが付く(第三人称形で語尾に付く母音は単語ごとに異なる)ので、「シャリ」のような音となる。

新駅名の由来:知床半島観光の拠点であることから改称。知床はアイヌ語の「シㇼ・エト゚ㇰ」(sir-etuk:大地の出崎=岬)から。当駅の改称によって、昭和37(1962)年開業の南斜里駅を除いて、川湯温泉から当駅まで6駅が並んで改称の経験がある駅となった。


8.古樋(ふるとい)→浜小清水(はまこしみず)

改称年月日:昭和27(1952)年11月15日

旧駅名の由来:アイヌ語の「フㇽ・エ・ト゚ィ・イ」(hur-e-tuy-i:丘が切れている処)から。tuyは切れる、崩れる、の意で、eは「そこで;そこに」といった意味を付加する。

新駅名の由来:アイヌ語の「ポン・ヤㇺ・ペッ」(小さな止別川=止別川の支流)で、「pon-yam-pet:小さな冷たい川」を意訳して「小清水」とした駅逓の名称が地名となった。小清水町の浜辺にあるので「浜」を付けた。


●標津線

1.西別(にしべつ)→別海(べっかい)

改称年月日:昭和51(1976)年12月1日

旧駅名の由来:アイヌ語の「ヌ・ウㇱ・ペッ」(nu-us-pet:豊漁のある川)から。

新駅名の由来:アイヌ語の「ペッ・カィ」(pet-kay:川が折れる)から。駅名は「べっかい」であったが、自治体名としては現在、「別海町」は「べつかいちょう」と読むようになっている。昭和50年代の改称は珍しいが、昭和46(1971)年に別海村が町制施行し別海町となったのに駅名が合わせた形である。(別海村は大正12〈1923〉年に旧別海村、西別村、平糸村、厚別村〈あつうしべつむら〉、走古潭村〈はしりこたんむら〉、野付村が合併して成立。)




今回は以上です。

4回に分けて国鉄〜JRの全路線の駅名変更を取り扱ってきました。

次回は北海道の私鉄の駅名変更を扱いたいと思いますが、資料に乏しいため、内容は薄くなるかもしれません。

あまり期待せずにお待ち頂けたら幸いです。


今回もここまでお付き合い頂き、誠にありがとうございました。