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ネオポン日記 : 画家 三村 稔 のblog

絵画、衣装作品や製作風景を紹介。

白日会 創立百周年記念展
[大穴牟遅神と刺国若比売]
(オホナムヂのかみ と サシクニワカヒメ)
F100号

※東京展では、3室に飾られております。

韓非子のビギナー向けの本を読んでいたら、日本の欠史八代についての参考になりそうな記述を見つけたので、メモ程度にこちらのブログに書こうと思います。

 

欠史八代は、第二代の綏靖天皇から第九代の開花天皇、前6世紀から前1世紀くらいとされています。

韓非は、秦王嬴政が天下を統一する間近に活躍した韓の王子ですので前3世紀(没 前233年)の人物です。

日本の欠史八代の時代にも重なる人物ですし、司馬遷が[史記](前1世紀)を編纂する前の人物でもあるので、同時代の知識階級の認識がわかるので興味深いと思いました。

[史記]の前にも、[春秋]という歴史書が各国で作られていますので、[歴史書]という概念は、勿論、韓非の時代にも存在しています。

 

※司馬遷が史記を完成させたのは、征和年間(前92~89年)で、第10代の崇神天皇が、西暦換算だと前97~30年なので、司馬遷と崇神天皇が同時代というのも、興味深いです。※日本書紀の記述に従えばですが。

 

それで、気になった韓非子の内容が、こちらです。

 

[韓非子 大体篇]より

 

[書き下し]

古(いにしえ)の大体を全うする者は、天地を望み、江海を観、山谷に因る。

日月の照らす所、四時の行る所、雲 布(し)き 風 動く。

智を以て心を累(わずら)わさず、私を以て己を累わさず、治乱を法術に寄せ、是非を賞罰に託し、軽重を権衡に属す。

天理に逆らわず、情性を傷つけず。

 

[訳文]

いにしえの「大体」を完全に体得していた人物は、宇宙の原理に従うために、天地の様子を見わたし、江海の様子を観察し、山や谷の様子に従った。

彼がよりどころとする世界は、日や月が照らすところ、四季が規則正しく巡るところ、雲が覆い風そよぐ自然の世界である。

だから、天地のようにすべての民を包容し、江海のような広大さと山や谷のような気高さや深遠さを持ち、日月のように常に民に光を与え、四季の巡りのように規則正しい政治を行い、その恩沢は、雲のように天下を覆い、風に吹かれて草が靡(なび)くようにその威風に民はひれ伏す。

このようであるから、人智によって心を患わさず、私利によって自己を患わさない。

治乱の問題の解決を法と術にまかせ、臣下の言動に反対する是非の評価を恩賞や刑罰に託し、軽重の違いの識別を客観的な基準であるはかりにゆだねる。天然(自然)の原理に逆らわず、人間の本性を傷つけない。

 

[書き下し]

故に至安の世は、法 朝露のごとく、純樸(じゅんぼく)にして散ぜず、心に結怨無く、口に煩言無し。

故に車馬 遠路に疲弊せず、旌旗(せいき) 大沢に乱れず、万民命を寇戎に失わず、雄駿 寿を旗幢(きとう)に創(きず)つけず。

豪傑 名を図書に著さず、功を盤盂に録さず、記年の牒(ちょう)空虚なり。

 

中略

 

[訳文]

だから最も平安な世の中では、法は朝露のように万物を潤し、人民は純樸で無垢な心を失っておらず、人々の心には消えることのない深い怨みというものがなく、不平不満の言葉を口にすることもない。だから戦争などは起こらないので、車や馬が従軍して遠路の途中で疲弊したりはせず、戦に負けて逃げ込んだ軍隊の旗が大きな沼地に乱れ動いたりもしない。

すべての人民は外敵のために命を失ったりせず、優れた人材が戦闘によって軍旗の下で寿命を縮めることもない。

かくて手柄を立てる機会である戦争そのものがないので、豪傑の士が書物に武勇の名声を留めることなく、儀式用の食器の盤や盂(う)に自分の戦功を記録することもない。

さしたる事件もないので、毎年の出来事を記録する公文書は、記録すべきことがなにもない。

 

ビギナーズ・クラシック 中国の古典 韓非子

西川靖二 著   角川文庫

234~239頁より 

 

要は、平和な世の中では、歴史を記すことがない。ということです。

欠史八代と言っても、天皇のお名前、ご生母、皇后や妃、都、御陵、太子などは記録されています。

 

韓非の言うような法や術を使っていたかは、別として、やはり平和であった。ということは言えるのではないでしょうか。

実際、日本の遺跡にもあまり大きな戦争の後も残っていないようで、しかし、後3,4世紀くらいには、前方後円墳等の文化は、関東あたりまで広がってゆくようですし。

 

神武天皇紀は、東征の戦争の話。

 

崇神天皇紀は、疫病により人口の半分以上という大変な被害が出て、八咫鏡を祀るため伊勢神宮となる宮の場所を探す旅が始まるところから始まり、続いて、四道将軍を遣わして、各地を平定しました。この平定により国が治まったので、[はつくにしらす すめらみこと]とした旨が書かれています。

 

また、少し異なった視点でも、韓非が理想の君主とされる堯や禹について

 

[韓非子 五蠧(ごと)篇]より

 

[書き下し]

堯の天下に王たるや、茅茨(ぼうし)翦(き)らず、采椽(さいてん)斲(き)らず、糲粢(れいし)の食(し)、藜藿(れいかく)の羹(こう)、冬日には、麑裘(げいきゅう)、夏日には葛衣。監門の服養と雖も、虧(か)けず。

禹の天下に王たるや、身は、耒臿(らいそう)を執りて以て民の先と為り、股に胈(はつ)無く、脛には毛を生ぜず。

臣虜の労と雖も、此より苦しからず。

 

[訳文]

堯が天下に対して王であった時、の暮らし向きは、王者であったにもかかわらず貧相で、茅葺き屋根の軒先は切って揃えておらず、櫟の木を用いた椽(たるき)は彫刻していないみすぼらしい家に住んでいた。そして、玄米と稷(きび)のご飯に、あかざや豆の葉の羹(スープ)という粗末な食事をとり、冬には小鹿の毛皮の服、夏には葛の繊維で織った衣という常に質素なものを身につけていた。今の時代で考えれば、身分の卑しい門番の服装や食事の賄いでも、この堯の暮らし向きよりは劣っていないのだ。

また、禹が天下に対して王であった時の働きぶりは、治水のために自分自身の鍬鋤(すき)を手にとり民の先頭になって働き続けたので、股の毛がすり切れて無くなり、脛には毛が生えなかった。今の時代で考えれば、奴隷や捕虜の苦労でも、この禹の苦労よりはひどくはないのだ。

 

ビギナーズ・クラシック 中国の古典 韓非子

西川靖二 著   角川文庫

218~220頁より

 

上の引用で、理想の君主とされた堯や禹もかなり質素な暮らしをしていたので、帝位を譲る禅譲をしたのであって、今の役人たちは、数年でもかなり裕福になるのだから、それに固持するのは、人の性である、という論説で韓非はこのように語っています。

 

勿論、考古学な裏付けもなく、論拠もわかりませんし、誇張もあるでしょうが、古代の日本もまた、天皇も質素な暮らしの平穏な日々にあったのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログ更新が滞っておりますが、このブログはまだ稼働しております…😅

 

現在、宮簀媛命の兄君である建稲種命の御影を構想しております。先日、モデルのポーズも決まり、撮影も終え、古墳時代の船の模型と合成したり、と作業を進めておりましたが、肝心の海や背景の取材ができておらず、ふさわしいところも検討がつかず…と止まっておりました。その折、先日、知り合いました若い僧侶の方にその旨をお話ししたところ、その方の故郷の吉良町、西尾市に建稲種命のご遺体が流れ着いた神社や所縁の地があるとのことで、しかも、そこを案内してくださることになり、行ってまいりました。

 

今回は、そちらを経ての建稲種命についての覚え書きとして残そうと思います。(ほぼ自分用です…😅)

 



[志葉都神社由緒]

 当社鎮座記ニ曰ク 人皇十二代景行天皇ノ四拾年東夷反ス。

皇子日本武尊、詔ヲ奉シテ征伐ニ向給フ。吉備武彦命、建稲種命、之ニ従フ。

駿河国ニ至リ・・・帰路甲斐ニ入リ酒折ノ宮ニ駐リ給ヒ、更ニ上野ヲ巡視シ、軍ヲ三分シ、

吉備武彦命ヲ北陸道、建稲種命東海道、日本武尊ハ東山道ヨリ碓日嶺ヲ踰ヘテ信濃ニ入リ、

三面分按シ、美濃ニ会セント期シ給フ。建稲種命ハ海路ヲ取リ給ヒシガ、駿河ノ海上ニテ

乗船覆リ、卒ニ沈溺シテ薨去シ給フ。

当社御祭神ハ、此之地開拓祖神、建津牧命又御名津比良彦命

尾張之国造建稲命第二子トシテ御父ニ従ヒ、日本武尊ノ東征ニ共ニ供奉シ給ヒ、

当国ノ梟師等ヲ平定サレシ後、幡豆郡ノ地ヲ御兄建蘇美彦命ト共ニ開発シ給フ故、

御名ヲ以テ当地字名ノ津平トナセリ。・・・。

  
こちらは、志葉都神社のご由緒書きの碑
これによると、建稲種命の第二子の建津牧命がこの地を開拓したことがわかります。
兄君の建蘇美命もご協力なさったとのことで、建津牧命が第二子とのことですので、建蘇美命は、第一子ということでしょう。

※吉良町の隣の幸田町には、蘇美天神という建蘇美命を祀った社もあります。こちらは、行けておりません。

この東征の帰途で、軍を3つに分けた話は、日本書紀と熱田神宮縁起をみると、載っています。
※それぞれ2つに分けたような記述ですが、場所は、この志葉都神社の記述通りです。

 




式内 幡頭(はず)神社 祭神
建稲種命
大物主命 誉田別尊
 
由緒
 
景行天皇の御代日本武尊 東夷御征討の際 大功をお立てになった建稲種命は帰途 海上で御薨去
御遺骸 この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社で
大宝二年文武天皇 勅して社殿を建て官社に列せられたと傳へられ延喜式に載り・・・
 

こちらは、幡頭(はず)神社の碑

こちらの岬に建稲種命のご遺骸が流れ着き、それをお祭りしたことがこの神社の始まりとあります。

↓下が、岬からの眺め

 
↓下が今の鳴海駅(成海神社そば)と本星崎星駅(知我麻社、星宮社、建稲種命の生家そば)の間にある天白川からの眺め ※ほぼ僕の住んでるあたり…😅

 
↓下は、古代のこの地方の地図

[上の地図の引用Wikipediaより]



海岸線が今より内側で、天白川の辺りは海でした。干潟だったようで、引潮時は、歩けたようです。
上の2枚の風景は、2枚の手前が海だとすると結構、似てる気もします。

今回は、外から眺めただけですが、近くに法正寺古墳という三河地方最大級の前方後円墳がありました。
前方後円墳といえば、熱田神宮のそばにある断夫山古墳。こちらは、宮簀媛命の墓ではと言われています。

推測になりますが、正法寺古墳は、流れ着いた建稲種命のご遺骸を納めた古墳なのではないか?と思いを巡らしました。そのため、この西尾の地に留まって開墾して、古墳も作ったのではと。

断夫山古墳が、全長151m
法正寺古墳が、全長94m

と断夫山古墳の方が大きいですが、平らなところにある断夫山古墳に比べて、正法寺古墳は山のようになっているところにあるので、遠目には、なかなかの威厳を感じました。

また、知多半島にも、字は違いますが、同じ読み方をする、羽豆(はず)神社があります。
こちらも建稲種命をご祭神としている神社です。

そちらには、まだ行けていないのですが、こちらの【まのっちゃお! season3】さんのブログで詳しく書かれておりました。
 


建稲種命の妻の玉姫と東征前に二人で過ごされたところで、東征の帰りをここで玉姫は待ち続けたとのことです。
※昔なので、何人か奥さまがいらっしゃるかもしれませんが、玉姫さまが、建蘇美命、建津牧命のお母様ということでしょうか。

【はず】というのは、【はたがしら】のことで、東征の旗頭を努めた建稲種命のことを【はず】とお呼びしてるようです。