欠史八代に関して、同時代の韓非子の論説を参考に思うこと | ネオポン日記 : 画家 三村 稔 のblog

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韓非子のビギナー向けの本を読んでいたら、日本の欠史八代についての参考になりそうな記述を見つけたので、メモ程度にこちらのブログに書こうと思います。

 

欠史八代は、第二代の綏靖天皇から第九代の開花天皇、前6世紀から前1世紀くらいとされています。

韓非は、秦王嬴政が天下を統一する間近に活躍した韓の王子ですので前3世紀(没 前233年)の人物です。

日本の欠史八代の時代にも重なる人物ですし、司馬遷が[史記](前1世紀)を編纂する前の人物でもあるので、同時代の知識階級の認識がわかるので興味深いと思いました。

[史記]の前にも、[春秋]という歴史書が各国で作られていますので、[歴史書]という概念は、勿論、韓非の時代にも存在しています。

 

※司馬遷が史記を完成させたのは、征和年間(前92~89年)で、第10代の崇神天皇が、西暦換算だと前97~30年なので、司馬遷と崇神天皇が同時代というのも、興味深いです。※日本書紀の記述に従えばですが。

 

それで、気になった韓非子の内容が、こちらです。

 

[韓非子 大体篇]より

 

[書き下し]

古(いにしえ)の大体を全うする者は、天地を望み、江海を観、山谷に因る。

日月の照らす所、四時の行る所、雲 布(し)き 風 動く。

智を以て心を累(わずら)わさず、私を以て己を累わさず、治乱を法術に寄せ、是非を賞罰に託し、軽重を権衡に属す。

天理に逆らわず、情性を傷つけず。

 

[訳文]

いにしえの「大体」を完全に体得していた人物は、宇宙の原理に従うために、天地の様子を見わたし、江海の様子を観察し、山や谷の様子に従った。

彼がよりどころとする世界は、日や月が照らすところ、四季が規則正しく巡るところ、雲が覆い風そよぐ自然の世界である。

だから、天地のようにすべての民を包容し、江海のような広大さと山や谷のような気高さや深遠さを持ち、日月のように常に民に光を与え、四季の巡りのように規則正しい政治を行い、その恩沢は、雲のように天下を覆い、風に吹かれて草が靡(なび)くようにその威風に民はひれ伏す。

このようであるから、人智によって心を患わさず、私利によって自己を患わさない。

治乱の問題の解決を法と術にまかせ、臣下の言動に反対する是非の評価を恩賞や刑罰に託し、軽重の違いの識別を客観的な基準であるはかりにゆだねる。天然(自然)の原理に逆らわず、人間の本性を傷つけない。

 

[書き下し]

故に至安の世は、法 朝露のごとく、純樸(じゅんぼく)にして散ぜず、心に結怨無く、口に煩言無し。

故に車馬 遠路に疲弊せず、旌旗(せいき) 大沢に乱れず、万民命を寇戎に失わず、雄駿 寿を旗幢(きとう)に創(きず)つけず。

豪傑 名を図書に著さず、功を盤盂に録さず、記年の牒(ちょう)空虚なり。

 

中略

 

[訳文]

だから最も平安な世の中では、法は朝露のように万物を潤し、人民は純樸で無垢な心を失っておらず、人々の心には消えることのない深い怨みというものがなく、不平不満の言葉を口にすることもない。だから戦争などは起こらないので、車や馬が従軍して遠路の途中で疲弊したりはせず、戦に負けて逃げ込んだ軍隊の旗が大きな沼地に乱れ動いたりもしない。

すべての人民は外敵のために命を失ったりせず、優れた人材が戦闘によって軍旗の下で寿命を縮めることもない。

かくて手柄を立てる機会である戦争そのものがないので、豪傑の士が書物に武勇の名声を留めることなく、儀式用の食器の盤や盂(う)に自分の戦功を記録することもない。

さしたる事件もないので、毎年の出来事を記録する公文書は、記録すべきことがなにもない。

 

ビギナーズ・クラシック 中国の古典 韓非子

西川靖二 著   角川文庫

234~239頁より 

 

要は、平和な世の中では、歴史を記すことがない。ということです。

欠史八代と言っても、天皇のお名前、ご生母、皇后や妃、都、御陵、太子などは記録されています。

 

韓非の言うような法や術を使っていたかは、別として、やはり平和であった。ということは言えるのではないでしょうか。

実際、日本の遺跡にもあまり大きな戦争の後も残っていないようで、しかし、後3,4世紀くらいには、前方後円墳等の文化は、関東あたりまで広がってゆくようですし。

 

神武天皇紀は、東征の戦争の話。

 

崇神天皇紀は、疫病により人口の半分以上という大変な被害が出て、八咫鏡を祀るため伊勢神宮となる宮の場所を探す旅が始まるところから始まり、続いて、四道将軍を遣わして、各地を平定しました。この平定により国が治まったので、[はつくにしらす すめらみこと]とした旨が書かれています。

 

また、少し異なった視点でも、韓非が理想の君主とされる堯や禹について

 

[韓非子 五蠧(ごと)篇]より

 

[書き下し]

堯の天下に王たるや、茅茨(ぼうし)翦(き)らず、采椽(さいてん)斲(き)らず、糲粢(れいし)の食(し)、藜藿(れいかく)の羹(こう)、冬日には、麑裘(げいきゅう)、夏日には葛衣。監門の服養と雖も、虧(か)けず。

禹の天下に王たるや、身は、耒臿(らいそう)を執りて以て民の先と為り、股に胈(はつ)無く、脛には毛を生ぜず。

臣虜の労と雖も、此より苦しからず。

 

[訳文]

堯が天下に対して王であった時、の暮らし向きは、王者であったにもかかわらず貧相で、茅葺き屋根の軒先は切って揃えておらず、櫟の木を用いた椽(たるき)は彫刻していないみすぼらしい家に住んでいた。そして、玄米と稷(きび)のご飯に、あかざや豆の葉の羹(スープ)という粗末な食事をとり、冬には小鹿の毛皮の服、夏には葛の繊維で織った衣という常に質素なものを身につけていた。今の時代で考えれば、身分の卑しい門番の服装や食事の賄いでも、この堯の暮らし向きよりは劣っていないのだ。

また、禹が天下に対して王であった時の働きぶりは、治水のために自分自身の鍬鋤(すき)を手にとり民の先頭になって働き続けたので、股の毛がすり切れて無くなり、脛には毛が生えなかった。今の時代で考えれば、奴隷や捕虜の苦労でも、この禹の苦労よりはひどくはないのだ。

 

ビギナーズ・クラシック 中国の古典 韓非子

西川靖二 著   角川文庫

218~220頁より

 

上の引用で、理想の君主とされた堯や禹もかなり質素な暮らしをしていたので、帝位を譲る禅譲をしたのであって、今の役人たちは、数年でもかなり裕福になるのだから、それに固持するのは、人の性である、という論説で韓非はこのように語っています。

 

勿論、考古学な裏付けもなく、論拠もわかりませんし、誇張もあるでしょうが、古代の日本もまた、天皇も質素な暮らしの平穏な日々にあったのではないかと思います。