また革嶋家文書から…
こわいめの書状ですよ…(^_-)-
たっきぃ…
やっぱこわい人だったのかしら
本日七月廿八日は、
月読分、松室之儀、
革嶋被仰付候処
の日
以下
書状特別紹介!
年未詳(※元亀四年前後かな?) 七月廿八日
今度月読分、松室之儀、革嶋被仰付候処ニ、松室幷
百性退出之由候、曲事候、然者当郷彼者共、於
許容仕ハ可有御成敗之由被仰出候、其上預物在之ハ、
革嶋かたへ持可遣候、恐々謹言、
瀧川
七月廿八日 一益(花押)
松室在所
名主百性中
※革嶋…河嶋一宣(1509?~1581?)か、河嶋市介(秀存)か
※月読分…やっぱ月読神社(つきよみ)のことかと…(・ω・)
月読神社の月神は、古くは海人(壱岐氏)により信仰された
これがちと複雑でね…
いまみるところ、禰宜は主に松室氏で、
はじめ、松尾社におされて
関係持つことなって(それまで無い方が不思議)
壱岐姓だったのを、
源平時代ころには?
秦姓を名乗りだしたという…
結局んとこ
だれだ!?(´・ω・`)
まあ、おらの見る文書類には
「松室」さんしか出てこないから、
これでいくけどね
この頃の松室さんは、前にもちょびっと触れたけど、
系図がナゾすぎるので、
松室秦重清(天文五(1536)年、73歳没=1463生)、だけど、
勧修寺晴豊(1544~)の養子だったり…
まあ、山科さんに言わせれば、
天文十七年三月には、
「松尾社務秦相光」なるものはいるらしいので、
その跡くらいの世代が今回の
松室さん、かなあ?
ん?
なんか前にも似たような話した??
でじやぶ?(゜o゜)
本日
七月廿八日は、
月読分、松室之儀、
革嶋被仰付候処
の日!