おらのなにがし~かしく、瀧左とのへ~ -10ページ目

おらのなにがし~かしく、瀧左とのへ~

    ことしはきうてんさまのおんとし

きよすは、

七月廿八日~

( ..)φメモメモ

今回は、

滞在十九日目、

 

『パパ三郎訪問記』!

 

天文二年 八月十八日

 

十八日、

戊子、天晴、

平手中務丞来、此間種々馳走之間、

息助次郎に葛袴被遣了、則御禮に二百疋進上候了、

織田右近尉飛へ花むけとて三百疋進候、同息與三郎百疋進、同丹波守子息七歳、竹滿丸に、八境圖、鴨沓之免状被遣候、圖者未遣也、

蔵人、毛利十郎両人に鞠扇被遣了、

武衛息治部大輔義統、方へ、鴨沓、葛袴、八境圖、同免状

等、以速水兵部丞被送遣了、

毛利十郎大江敦元予に毛抜数六、送候、祝着々々、

勘解由小路治部大輔被来候、鞠道之門弟に被成候、太刀

糸、千疋持来候了、予、蔵人両人見參禮申候了、速水

兵部に百疋、

織田丹波守子竹滿丸禮に来、飛鳥、予両人に太刀糸、

にて禮候、蔵人には太刀代三十疋也、

赤林、坂井、矢野善十郎等来、

織田監物鞠道之門弟に成候、明日可申聞、云々、今日

禮に来、太刀糸、馬代三百疋、沓、葛袴に五百疋也、

速水兵部に百疋等也、

※勘解由小路治部大輔…これ武衛息の治部大輔義統と同一?

なぜなら(・ω・)…この義統のじいさん

斯波義寛(1457~1513)が、

「勘解由小路殿」

と呼ばれている形跡があるという…

勘解由小路に御立派な邸宅があったからなんやて

なので

武衛で決り(^_-)-☆

 

★

 

飛鳥井の速水さんがひっさびさ登場~(・∀・)

あの日の所勞すぐ治ってたんやろか…

 

さすがお侍さんだからか、

一番エライからか、

武衛のところに御使いだよ~

(∩´∀`)∩「鴨沓、葛袴、八境圖、御免状…被送遣了、」

山科さん、暇さえあれば

八境圖いっぱいこさえてたんかなぁ~卒業証書卒業証書卒業証書

 

 

今日もパパ来ず

(・ω・)またしても

平手…

と、息の助次郎

きよすは、

七月廿八日~

( ..)φメモメモ

今回は、

滞在十八日目、

飛鳥井さんの闘病は、

もう十二日で病みあがったかな

(・ω・)

 

『パパ三郎訪問記』!

 

天文二年 八月十七日

 

十七日、

丁亥、雨下、

織田右近、同丹波守、毛利十郎、矢野善十郎、那古屋

又七、坂井攝津守、平手中務丞来候了、

今日上洛依雨来廿日へ延引、仍大和守暇乞に来候、

飛鳥へ太刀持、一腰、馬一疋、栗毛印雀目結、五千疋

進候了、予に太刀、持、馬一疋代三百疋、蔵人にも同前也、

飛へ毛利花向とて二百疋進上、

従勝幡三郎方、先日乃折紙錢二百疋到、

けぬき十四代二十疋出来了、

木綿袴代二十疋遣了、

雑色與三郎詫言候間、二十疋遣候了、彌七に借候代八十疋返、

飛鳥井さんなんとか生き永らえたよ~

 

えっと…( ..)φメモメモ

しゅうにゅう

大和守:五千疋(飛)、三百疋(山)、三百疋(蔵)

毛利:二百疋(飛)

パパ三郎:二百疋、「先日之折紙」ってアレ(七月廿七日)?

 

でてった

けぬき十四代:二十疋、

格安でいいもの作れた(∩´∀`)∩笑い

木綿袴代:二十疋、

これ蔵人さんにあげたのと別?

雑色與三郎詫言:二十疋、おこづかい?

彌七に返:八十疋

 

だいぶふところこえたような

(∩´∀`)∩もやもや「思ひきや彌七の利分のきびしさよ」

六十借りて、二十も利息!?

一昨日から三割増し!?

 

 

今日はパパ

ではなくて、パパ三郎方

いらっしゃい

(・ω・)やべ

平手きてたね…

というわけで、

うわさにきいてた尋憲(1541~1585)の

越州下向の記録

「越前国相越記」

を少しひろえたので、以下時系列でみてみよお

(^_-)-☆

 

天正三年八月廿日(以降?)

 

今度織田弾正忠信長越州一揆為成敗、八月十二日出馬、

同至十 日…、入国云々、就其両庄為届、愚彼国

可相越覚悟也

じんけん(=゚ω゚)「さぶろうさん越州おるうちに

愚が直接越州いくねん覚悟したで」

※両庄…河口・坪江庄

 

えいすんm(_ _)m「新御所さま、御下向大儀造作也…

われら神前信讀、

大般若にて祈禱いたし、

御結願御成就なさられるべく、

護摩祈禱、読経、写経、専一もっとも珍重珍重…」

 

天正三年八月廿一日

 

奈良より発足

 

天正三年八月廿七日

 

越前一乗谷到着

 

天正三年八月廿八日

 

さぶろうの豊原陣替のため、

(たっきーにも報告済み)

同道して魚住隼人の陣所を宿にする

 

天正三年八月廿九日

 

取次の松井友閑と武井夕庵を通して、

さぶろうに越前再征圧祝いの挨拶、

さぶろうに「遠路わざわざどうも」、と深謝され、

さきの二人に

両庄還付の件の取次をたのむと、

 

「…当国之事未取シツメ不申候、逗留中ニ郡分ヲ仕テ

各ニ可申付候、其砌京都方も無別可申付候、当御門跡

之儀自本無別候状、至其砌ニテ可申付候、…、

可被御心安…」

越前逗留中に郡分して、

支配担当者が決まったら指示を出すから、

門跡領については留意するし、

御心安くあれとのこと、

ふむ…(・ω・)

 

★

 

その夜、

さぶろうに、

「幸若舞」やるから(`・ω・´)ぜひきて!

と招かれ、

二階座敷に赴き、

巻数と油煙三十丁(内三丁が英俊から?)

(南都のかほり(∩´∀`)∩)

わたして挨拶

そして座敷の奥から出てきたさぶろうは、

 

「…座ヲサリ手ヲツカエテ、遠路ハル〱ノ処ニ是マテ為

御見舞御越、近此々々過分之至候、先度河州表へ御越

さへ過分と存候処、遠路ナンカンヲ御越候事御芳情

中々可申尽候…」

うわ~いかにもさぶろう~

演出屋やねえ(`・ω・´)ヤリスギ~ハズイ~

だいもんさまは関白さまの

アレだし、将来興福寺の別当になりえるしとだし、

いちおー

それくらいの挨拶したほがええやね

★

たっき~も、この日きてちょいわれてたから、

どこから出るんかわからんが、

御茶筅たちは置いて

単身(班?)、豊原に到着したんやろか(・∀・)…

まさか舞って、ない、よね?

 

あらなんかいいにおい?(=゚ω゚)…

キラキラ(-_-)キラキラ「よぉ~、ぽんっ」

Σ(゚Д゚)

 

…さらに

幸若舞終了後、

宿所に帰って、

大和守護(?)ハラビ(原田備中守)が

一揆掃討の山狩から戻ったので

挨拶に赴く…

すると、

 

(=゚ω゚)ノ「ハラビの陣はあすこか…」…

もやもやもやもやもやもや

ΣΣ(゚Д゚)ひいいぃ!!

ぢ、ぢごくぢゃ…!

 

陣の西の田にて…

連行した二百余の捕虜のくびを

すべて斬っている現場に遭遇してしまった…

 

…その日(八月廿九日)は

父二条尹房の二十五回忌でもあった…(-_-)ナムサン

その追善を

早めの十七日に講問(なんと南都の英俊が講師!)

にて行ってきたけれど、

よりによって忌日にこんなおそろしい目にあうなんて

不吉すぎるので、

 

…、多首切所へ行合事、シカシナカラ後大染金剛院之

御事、一入(ひとしほ)憐ニ覚テ、彼河口十郷幷坪江庄上下郷百姓等モライ免除サセタク思、原田備中申出処、

可到馳走由請条悦入物也、

※後大染金剛院…二条尹房のこと

 

これがうわさにきいてた

(((=゚ω゚))もやもや「…もうやめて…」

の内実だったのね

自分の領民にあたるしとたちだけでも助けて、って

頼んだふうだよ…

 

天正三年九月三日

 

両庄を免除する

さぶろう発給の制札十一通がもらえた

深謝を伝えようとしたら、

さぶろうの伝言で

 

「未此表ニ御逗留候哉、御領之儀ハ柴田修理ニ
可申渡候、御逗留可為御造作候間、可有御上洛」

まあ、

「じゃまだから帰れ」みたいな、ね(^_-)-☆

決してそんな風には言いませんけどね、

事実、興福寺の御別当に等しい御かたに

血生臭い此表の御逗留は御造作でしょうからねぇ

 

でもふんばるじんけん(=゚ω゚)ノ「諸辺難成!可有逗留!」

あんがいつおい子なのね(・∀・)なれたみたい

 

天正三年九月八日

さぶろうでは上手くいかんやったからか、

大和守護のよしみやし、と

ハラビにすがるじんけんだけど、

「…先御上洛候て可然…」

と、やっぱりじゃまもの扱い(´・ω・`)ふびん

とりあえずハラビにはさぶろうへの取次を頼んで、

そのあとゴンちゃんに両庄の還付の依頼をして、

この日

両庄十一郷からなんか謂れ無きことを催促されて

ハラビにまたすがったら、

一族とおぼしき塙喜三郎が出てきて

なんや百姓に堅く申付けるの約束してくれたって

 

天正三年九月十一日

奈良から飛脚があり上洛が促され、

河口十郷の領民の還住について指示を下し、

北庄に行ったあと上洛すると

魚住隼人に伝え、

ハラビに両庄の取り成しを依頼し快諾されたものの…

 

「越前国相越記」も

これでおわりという(´・ω・`)

 

天正三年九月十六日

そして尋憲が南都に御上りする前日、

英俊の日記にこんなことが…

 

坪江・河口両座(庄)可有存知之旨信長朱印被出、

則両庄へ市衛門被遣之旨注進在之云々、一定歟、

尤珍重々々、ウソ也、

ちょっと…どっちなん

ウソウソ(´-ω-`)ウソ也

※一定…確実、はっきりしてること

※ウソ也…英俊のくちぐせ