滝川一益…森寺と…はかりて… | おらのなにがし

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    めめんともり

いやはや、いい加減見落として妄想に逃走し迷走しとる自分が情けない。

ちゃんと出典もとってやつはあるじゃないの!!

 

(´;ω;`)じーん。

 

これで、たっきーが、

やっぱりちっさい時からパパのもとにいたって言っちゃえる。

やっぱりパパ育ちだって言っちゃっていいんじゃないすか…感涙。

 

というわけで、出典もとから内容を、

書き下してみるべし。

 

結局、池田だよりなんだけど、まあこればっかりは感謝感激雨霰。

大事なところをしっかり引き抜き書いときましょう!

 

爰に尾州勝幡の城主織田備後守信秀と云ふ人あり。

天文三年五月廿八日嫡子誕生ありて吉法師と申せしが、

これ後年の信長公なり。

天文五年吉法師三歳に達し、

智能發育の最も大切なる時期なれば、

然るべき乳母をぞ擇ばせけるに、

瀧川左近将監一益は森寺藤左衛門尉秀勝とはかりて、

護國公の御母を推擧し參らす。

 

以下略

 

…やっぱしはっきり言って、簡潔すぎか…

しかも、結局のところ、

たっきーと、森寺と、池田家の関係がはてな?やし。

 

でも!!

この史料がものすごいのは、

たっきーが、

織田家に関連する記録史上に名前を出した中で、

おそらく最も古い時期(最も若年のころ)のものなのではないかということ!

 

しかも、然るべき乳母探しの任務を、

どうやら先ず、

たっきーが任されたうえで、

森寺とはかりもうした。

ってニュアンスで書かれてるところ。

 

たっきーは当時、まだ11、2歳くらいだけど、

既にその前にはパパの身近にいて、

きっぽの癇癪ぶりと乳母たちの被害事情も当然見知っていて、

 

ある意味パパによる、実力試験というか、

たっきーの能力の見極めも兼ねて、

然るべき乳母選び、という結構重要なおしごとを

与えられたんじゃないかって思える貴重な記録だよね。

 

森寺と備後守と池田ツネに関しては、

なにげなく詳細な逸話があるので、

次回以降にまた改めて。

 

結局、たっきーだけ不明瞭だという…

 

たっきー…パパ…何を隠してるの?

たわいもなくて言い忘れただけ?

もしくわ重大すぎる事情なの?国や歴史を揺さぶるくらいに…

二人してなんもかも抱え込んだ顔しちゃってさ…いけづぅ…

 

パ 「なに、わしはかまわんのだが、監物と左近が、なあ?」

 

た 「私は生涯、備後守様に御威光を放ち続けて頂きたく…」

 

パ 「ほれこうきた。わしの大ふあんなんじゃと。たっはっはっはっは。こればっかりはしかたあるまじ」

 

わかる。

わしもパパの大ふあんだもの。