大阪府堺市三原台にあった泉ヶ丘ヤングタウンと新左翼活動の話 | 北海道沖縄ニ地域居住生活

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自転車に乗る事が日々の糧のアラ還男性の備忘録
北海道と沖縄で二拠点生活中(三拠点目は海外)
読書と株と不動産も好き、最近はPodcastをよく聴く

自分が住んでいたのは7-4B

 

昔22歳で入社した通信機器の会社で、最初の一年間は神奈川の工場に配属されて、あー作業服着てつまらない!

 

JR南武線の某駅にあった社員寮は木造二階建ボロボロで、ここは先輩のいる部屋に新人が入る仕組みになっている2人部屋だった。

 

確か管理人夫婦も居たのではなかったか❓

 

で、同室のその先輩とも馴染めず、寮に帰らずに新左翼系の党派のアジトに出入りを繰り返す日々。

 

電車に乗る時は乗らないフリしてドアが閉まる瞬間サッと乗ったり、降りる時も降りないフリして閉まる瞬間に降りたり、普段と違う道を通ったりしたもの。

 

実際尾行された事はあった。

 

三里塚にも主に手作業での稲刈り等の援農で通ったり、デモや街宣は日常的にあった。

 

当時は身体が弱く持病の扁桃腺が月に一度は腫れて熱が出て会社勤めに支障が出る程だったので

 

肉体労働はひどく堪えた。

 

寮の同室の先輩は大して歳は違わなく沖縄出身で、当時は沖縄についての知識は皆無だったので何も思う事もなかったが、一度一緒に府中だったかの競馬場に行った記憶が残っている。

 

その後の人生でも競馬場に足を踏み入れたのは後にも先にもこの時一度きり。

 

ちなみに数回買った馬券は一度も当たらなかった❗️

 

この先輩とは部屋で話をしている最中に、どういう脈略でそういう話が出たのかは覚えていないが、顔を歪めて天皇は大嫌いだ!と言った事は今でもハッキリ覚えている。

 

当時はまだヒロヒトだったんじゃなかったか❓

 

だったら言われても仕方ない❗️当然だなと当時も今も思っている。

 

職場では昼になると体育館の様な社員食堂に一斉にみんな行き、流れ作業の様だったので、刑務所で食べてるみたいで、あー嫌だ!辞めたい!

 

と思っていたらやる気のなさが伝わったのか、一年も経たずに思いがけず淀屋橋の新大阪ビルにある大阪の支社に転勤の話。

 

やった❗️スーツ着て働ける❣️と喜ぶと同時に、これでやっと新左翼の某党派とも物理的に縁が切れると安堵したもの。

 

この組織は若者主体でメンバーとは色々な事をした。

 

山梨県の乾徳山という山に脚を引き摺るようにして登り、翌日まともに歩けないくらいの筋肉痛になった事はよく覚えている。

 

この時の経験が主に30代、登山にのめり込んだキッカケなのかも知れない。

 

1981年に製作されたアメリカ映画の『レッズ』も皆んなで仲良く観に行った。

 

1917年のロシア革命を記録したジョン・リードの半生を描いた映画でウォーレン・ベイティとダイアン・キートンが主演の長い映画だった。

 

ちなみにこれは今もDVDで持っていて2回くらい観直している。

 

関係ないが似たようなのに『ジュリア』という、劇作家リリアン・ヘルマンの回顧録を映画にして、ジェーン・フォンダとヴァネッサ・レッドグレーヴが出演している映画もたまらなく好きだ。

 

この党派は非常に人間関係は良好で、人間性に優れた頭の良い人が多かったが、今すぐにでも革命は起きるんだとか、実現性がない事を決意表明のような形で述べる事が苦痛だった。

 

心の底ではあり得ないと思っていても、実際言葉としてはそう言わざるを得ず、どんどん組織と自分との断絶が大きくなって辟易してきた時期だった。

 

集団で何かをするという事が性に合わない自分の性格も大きかったし、

よって縁を切るチャンスでこれ幸いと何も言わずに突然連絡を断ち大阪に赴いた。

 

しばらくすると、何処からか住所を調べたらしく、組織の人が家まで来て酒を飲みながらあれこれ語って一泊して帰って行った。

 

この時にフランスの作家であるセリーヌの話をした事はいまだによく覚えている

 

この人はナチスに協力してしまって晩年は不遇だったのだが、ちょうど幾つかの本を持っていて『世の果てへの旅』とか読んでいたので記憶に残っているのだと思う。

 

折角来たのだがこちらの辞める決意は変わらないと見たのかそのまま帰って行って、その後今に至るまでその人もその組織のかつての仲間とも一度も会っていない。

 

ただメキシコシティのペンションアミーゴという日本人宿に、40歳すぎて泊まった時に、そこに住み着いているかつての党派に近い人がいて、その後あの人はどうなったか?とかその手の話で盛り上がった。

 

話を大阪での新生活に戻すと、この新大阪ビルは屋上が植物園みたいになっているし、大理石を多用し廊下もトイレも非常に広いとても贅沢な造りのビルだったが、その後大分経ってから建て替えられた。

 

再訪した時には工事中だったと思う。

 

なお住居は寮は初めから拒否していて、大阪支店の総務の人が探してきてくれたのが、このヤングタウンだった。

 

共産党系の大阪府知事であった黒田了一さん時代につくられたと当時は聞いていた。

 

10階建て位で自分の部屋は3階で広さは6畳ちょっと位。

 

家賃は共益費と合わせても一万円位ではなかったか❓

 

冬に暖房が入っている時だけ数千円位高くなったかも知れない。

 

これもちょっと記憶は曖昧。

 

この安さのおかげで貯金はかなりできたのだ。

 

自分の部屋は西陽が暑く、当時西友で取り扱っていたSears(シアーズ)というアメリカの小売店が自社開発した窓取り付け用のエアコンを自分で付けていた。

 

なおこの会社はその後潰れたようだ。

 

ちなみに動作中に出る除湿された水は室内で容器に溜めて、その都度捨てていた。

 

最初は窓の外にポタポタ落としていたら、管理人から怒られた事はしっかり記憶している。

 

暖房はスチームで暖かかった様に思う。

 

トイレや洗面所や洗濯機は階毎にあった。

 

コンロもあったと思うが自炊は一才しなかったので詳細は覚えていない。

 

もしかするとコインを入れて使うタイプじゃなかったか❓

 

最初に入居した時に炊事場の水を飲んで、そのあまりのカビ臭さに愕然とした覚えがある。

 

一階には大きな浴場があり、7年の間に何百回も入っただろうに中がどうなっていたかとか皆目思い出せず悲しい。

 

郵便受けも一階に全戸分あって7年間ずっと朝日新聞を購読していた。

 

これはその後も今もずっと続いている。

 

電話は一階に公衆電話の様なものが3台位あって、コインやテレホンカードで掛けられる様になっていたと思う。

 

向こうから掛かってくる着信は管理人が取り次いで、管理人室まで降りて行って、そこで立ったまま話をした。

 

今でも鬱陶しかった思い出として、工場勤めの時の先輩で創価学会の信者が、選挙になると東京から電話してきてウンザリしたもの。

 

別棟には食堂もあって余り美味しかったという記憶はないが、よく利用していた。

 

スーツやワイシャツも別棟にあったクリーニングに全て出していた。

 

当時のここでの生活の写真が一枚もないので、細かいところはホント思い出せない。

 

一枚くらいなんで写真を残さなかったのかとホント残念に思う。

 

居心地がとても良く、一度も出たいと思った事がなかったのだ。

 

なので結婚する迄ずっと居た。

 

ヤングタウンは男子棟と女子棟に分かれていて、男子棟には女性立ち入り禁止。

 

女子棟にも男性立ち入り禁止だった。

 

確か親や兄弟でもダメで、今の妻を非常口から入れたのが見つかって怒られた事はしっかり記憶している。

 

サークルも色々あったと思うが、私は全く入らなかったし住民とも交流はなかった。

 

党派活動での一種のトラウマみたいのが、サークル活動を頭から除外視したのだと思う。

 

今は自転車が趣味だが、自転車置き場があったのかなかったのか❓思い出せない。

自転車に乗っている人がいた記憶もない。

 

当時は仕事が楽しくて忙しく出張も多く、平日は泉ヶ丘駅からの通り道の大阪府住宅供給公社内にある食堂で食べるか難波で食べて帰ると、久米宏と小宮悦子のニュースステーションの時間でこれを見て寝るだけだった。

 

仕事終わって飲んで帰る事も頻繁にあった。

 

通勤は難波まで30分かかったのでそう楽ではなかった。

 

最寄りの泉北高速鉄道泉ヶ丘駅は始発駅ではないので座れなかったし。

 

そして25年後ここを再訪したのだが、建物は取り壊され、新しい住宅が建っていて

記憶に残っているものが殆ど無くなっていてガッカリ。

 

再訪するのが遅すぎた❗️と後悔した。

 

自分の青春の思い出も消えた気がしたのかも知れない。

 

ちなみに結婚でヤングタウンを出てから甲子園球場の至近にあったマンションに2年、分譲マンションを買って奈良の学園前に3年ほどいてからマンションを売却し、会社を辞めて北海道にUターンした。

 

子供二人がまだ小さい時だったので良いタイミングだったと思う。

 

当時はバブルの真っ盛りで、関西にいても一生ちゃんとしたマンションや戸建てには住めないなと、億の物件が並ぶリクルートの住宅情報片手に不動産を見て回ってはため息をついていた様に思う。

 

購入したマンションは3倍の値段で売れたが、そのお金を持ってしても関西にマトモな家は買えない狂乱バブルの時代だったのだ。

 

それでも奈良の田舎に河遊び用にログハウスを建てたり(のちに売却)株にのめり込んだり、仕事以外では色々な事をやっていた時期でもあった。

 

ちなみに私は在職中はかなりの不真面目な社員だった。

 

仕事が出先で終わっても真っ直ぐ会社に戻った事は殆どなかった。

 

映画見て帰ったり、本屋寄ったり、夏など証券会社の株価ボードを眺めながら涼んだり、直接家に帰ったりしていた。

 

出張もそうだった。大体休暇とくっつけて遊んでいた。

 

なお昔は証券会社に売買注文を出すと、幾らで買えたとか売れたとか会社に電話をくれた。

 

その時に証券会社名では拙いので個人名でお願いしていたが、あまりに頻繁に電話があり怪しまれたので、外の公衆電話から掛けて確認したり、今では考えられない不便な時代でもあった。

 

こういう自分が会社という組織から脱走したのは、党派活動から脱走した顛末と似ているような気もする。

 

要するにあれこれと徐々に齟齬が大きくなって心底嫌になると、ある時ブッツリとそれまでの人間関係をあっさりと捨てる事が出来る性格なのだ。

 

卒婚だと言って中古の戸建てを買い、道東ではじめた田舎暮らしも、初冬の雪が降る中、血痰を吐き熱がある中、車に家財道具を一杯詰め込んで夜逃げの様に脱走したのもそういえばなんだか似ている様な気がする。

 

そのうち沖縄での生活も、ある時いきなり嫌になってサヨナラとなる兆候は、完全移住した訳ではなく丁度良い距離感で楽しめているので今後も多分ないとは思う。