2000年頃、20年前の韓式旅館や旅人宿の思い出 | 北海道沖縄ニ地域居住生活

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自転車に乗る事が日々の糧のアラ還男性の備忘録
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韓国に行き始めたのは、最初はタイなどに行くときに金浦空港経由の大韓航空の90日オープンチケットが安く、帰国の飛行機待ちで数日ソウルに滞在した事がきっかけ。
 
その後、登山目的で数年間で計7回くらい通うことに。

 

この時に産まれて初めて参鶏湯(サムゲタン)という料理を食べました。

 

これが、タイなどに行って弱って下痢気味の胃腸や疲れた身体に沁み渡り、すっかりハマってしまって帰国まで毎晩食べたのです。

 

衝撃でした。こんな旨いものが世の中に存在し、それまで全然知らなかった事にショックを受けた事を今更のように思い出します。

 

当時は8000Wでした。

 

韓国で飛行機待ちをしないと、直ぐには日本に帰れないと旅行代理店に行って分かってから、バンコクの紀伊國屋書店で購入した『地球の歩き方韓国』に掲載されていた大祐旅館(当時一泊2万ウォン)。

 

親父さんは日本語ペラペラで、娘さん?と思しき30代後半くらいの女性も多少日本語が出来て大変親切でした。

 

これをきっかけに定宿としてその後二回くらい泊まったのですが、何年か後には無くなっていて、心の灯火が消えたような寂しい気持ちを味わいました。

 

恐らく2003年には無くなっていた様な気がします。

 

場所はホテルプラザの裏手の方でした。

 

明洞にも歩いて行けて大変地の利が良い場所だったので、再開発でいずれ無くなるのは必然だったのでしょう。

 

その節は前日にお土産で買ったキムチを、冷蔵庫に預かって頂きありがとうございました。

 

その節は満室の時は、一緒に歩いて他の宿まで掛け合って頂きありがとうございました。

 

親父さんは恐らくとうに亡くなっている事でしょう。

 

写真の一枚でも残しておればという残念な気持ちです。

 

頂いた名刺

 

満室の時に歩いて連れて行って下さった旅館

 
ここが無くなってからの定宿は、鍾路2街にある宇盛荘旅館(ウソンジャンヨグァン)に。(当時25000ウォン)
 
ここの宿主のおじさんは日本語は出来ませんでしたが、手軽に泊まれ重宝しました。
尤も連れ込み宿でもあったので夜の居心地は。。。。。。。。
 

釜山で泊まった安宿 当時10000W


旅人宿というのは、どうも韓国の宿の中では下の方らしいです。

布団を敷いたオンドル部屋で広さは3畳程、風呂、トイレは廊下にありました。

 

ここを去るときに宿の女性がこの名刺を大量に私に手渡しながら、何か言った事がとても印象に残っています。

 

恐らく知り合いにでも配って宣伝して欲しい!というような事だった事は容易に想像出来ますが、残念ながら渡す様な人は居らず、申し訳ないなと思いながらも捨てざるを得ませんでした。

 

ここに泊まった時は、宿の前の道で子供が昔ながらの素朴な遊びをしていて、それがとても印象深く脳裏に刻まれています。

 

市場でタライでどじょうを売っていた光景とか、韓国の地方都市に古き良き昭和を見たのでしょう。

 

後印象に残っている宿は、木浦(モッポ)にあった旅館?です。

 

月出山に登る為に前日にソウル駅からセマウル号という列車で来ていました。

 

この列車の普通席は日本のグリーン車並みの広さと、飲み物が無料で付いてきたので驚いた記憶が残っています。

 

到着後駅周辺のホテル街を歩いて宿を探していると、声をかけてきたおばさんがいました。

 

言葉はわからないのですが、私がジェスチャーで寝るポーズでホテルと言うと、手招きして自分の宿に連れて行ってくれました。(15000ウォン)

 

自分の家の一部を貸しているという感じでした。

 

夜、椅子もないオンドル部屋で胡座をかいて、コンビニで買ってきたマッコリを飲んでいると、それを見たおばさんは小指を立ててきたのでビックリ。

 

柔らかく断りましたが、この家には年頃の笑顔の素敵な綺麗な娘さんもいたので、そのギャップにちょっと驚いた事が特に印象が残っています。

 

そしてあの時もしもOKと言っていたら、果たしてどうなっていたのだろうか?

 

もう一度あの頃に戻りたいと感傷的になる事がある。

 

もっと貪欲にあちこちの地方に行けば良かったとも思うが、当時は山に登る為にその登山口に近い都市に行くという感じだったのでやむを得なかったか。

 

なお10山以上登ってしまうと、一段落した感じがあったり、パニック障害みたいなものを発症した事も合わさって飛行機に乗るのが怖くなり、そんなこんなでその後韓国にもそれ以外の外国にもすっかり行かなくなってしまった事が、今から考えるととても残念に思う。

 

40代後半から50代の良い時を棒に振ったような気がするのです。