おとといだったか、円ドルレートが160円を超えた。神田財務官が若干の口先介入をしても何の効果もなく、160円は単なる階段の踊り場かもしれないという予感を誘う。経済評論家の大井幸子氏がその原因について議論している。

 


その一つが日米の金利差であり、米連銀の高金利政策で各国通貨ともに対米ドルで安くなっている。ほとんどの国が政策金利を上げて対応しているが、日本はそれが軽々にできない状況下にあり、いまだゼロ金利のままである。(下のグラフで、日本円の価値は対ドルで今年12%減少している)


大井幸子氏は更にこの円安問題の根本的原因として、構造的に日本が赤字体質になっていることに言及している。大井さんが強調するのが、昨今のデジタル赤字である。米国の例えばGAFAMのデジタルサービスやコンテンツ利用に支払う金が年々増加している。2023年で5.6兆円、2030年には15兆円の赤字が予想されている。

これは、赤字体質の原因として日本に先端産業分野を牽引する企業が育ってこなかったこととも重なる。なぜ、日本にGAFAMやNvidiaが育たなかったのか? 大井さんは、日本の産業政策の失敗とそのような産業を育てる金融政策がなかったことなど、国家が行うマクロ政策の失敗を取り上げておられる。

この後半部分の考え方は間違いだと思うので、私は以下のコメントを書き込んだ。

日本の構造的赤字の原因として経済政策のまずさを取り上げておられるが、それは根本的に間違っています。日本に先端産業が育たない原因は日本文化にあります。日本の雇用文化、教育文化、美的感覚など。例えば和服と洋服の違いを見れば、その一端がわかる。和服にはボタンがない、服を上下に分ける工夫がないなど。陶磁器を見ても、自然に迎合し人工(アート)を排除する日本文化の特徴が現れている。(翌日削除; 6/30 再度コメントアップ)

その後失礼になると思い削除し、ここでこの文章の意味について記事を書くことにした。

これ以外に重要な点として、大井さんは食料品とエネルギーに関する日本の構造的貿易赤字について看過しておられる。それに言及しないでは画竜点晴を欠く議論になってしまう。あまりにも当然のこととして、言及されなかったのだろうが、一般向けの動画配信では一言だけでも言及すべきである。

この円安の問題は5月14日の記事にも書いているが、円安の原因は明らかである。日本は米ドルで買うものが多く、売るものが少ないのである。そんな状況下で、国民に米株買い入れを推奨するような新NISA制度を制定し実施するのでは、円安が益々進むのは当たり前である。

 
2)経済及び産業に対するマクロ政策について

日本の産業政策や金融政策が原因で日本にはGAFAM等が育たなかったという議論だが、一理あるものの、国家が行うマクロ政策に期待するのは本来間違いだと思う。

マクロ政策が大きなプラスの効果を出せるなら、共産党独裁の方が経済発展や産業振興には有利ということになる。それが間違いであることはソ連崩壊や中国経済の困難な状況が既に証明している。

自由主義経済の方が産業振興には良いのは、民間全体に経済主体が分散し其々が有利な方向を探す方が結局経済発展の効率が高いのである。従って、防衛・治安や厚生・保健など広い意味でのインフラ部分以外には、小さな政府で対応することが自由主義経済でも有利だと言うことになる。

 

経済産業省が支援金をばらまく場合でも、文科省が大学を一律に支援する場合でも、結局金の無駄使いに終わる可能性が圧倒的に大きい。

また、財政・金融政策だが、公式通りに進めることが必要だろう。アベノミクスの一本目の矢の異次元の金融緩和策は、病弱企業に一定の息継ぎを与えることになったものの、今日の円安の大きな原因となった。3本の矢のうちその他の2本を上手く放てなかったのは、上述のように政府による有効な産業振興策など元々無理な話であることを示している。

画期的アイデアは周辺の思わぬところから飛び出てくる。 米国のアップルやツイッターの創業物語などを読めば、国家の政策変更であのような企業が生まれるとは到底思えない。それら企業の成功は、創業者の人生を賭けた戦いや偶然の結果であり、米国の金融政策や産業政策の結果ではない。

スティーブ・ジョブズ(アップル創業者)もジャック・ドーシー(ツイッター創業者)も大学を中退し、様々な出会いと闘いの中で、あのような先端企業の種を生み出すことになった。そのような様々な人生と多彩な出会いが可能なことの背後に、日米の大きな文化の違いがあると思うのである。


3)日本文化の問題

近代の西欧は、産業革命を経て大きな産業技術の発展を遂げた。そして、近代工業が世界に広がり経済活動が活発化した結果、世界人口が急激に増加することになった。19世紀初頭には10億人に満たなかった人口が1950年には25億人になり、2023年には80億人を超えた。

この産業革命とその後の産業発展は金融の発展とともに西欧文化の中で進んだ。西欧では、人間は自然(人を養っている)と対峙し対立・克服する形で生活の改善を行っている。そして、自然と人工をNatureとArtという形で峻別する。(補足1) 一方日本では、人は自然と調和するのが良いとする文化である。

西欧における自然と人工の分立は、人工側(人間側)に連携を生み出す。人間側は自然の観察を集団で行い、対話と議論の文化を生み出す。西欧では、人の基本的な生き方は人(味方)の中で生きることであり、日本では人は基本的には自然の中で生きるのである。(補足2)

更に、西欧の神は民族のリーダーから生まれ、人の形をしている人格神(ヤハウェ)であるが、日本の神は自然(神道)である。日本人は外敵(野蛮人)よりも荒れる天候の方をより強く恐れたのだろう。

従って、日本人は自然に服従するが、西欧人は自然を克服する。人と人の連携なくして自然を克服することなどできないので、西欧は個人の人格を尊重すると同時に、人と人の間に“デフォルト”で味方である(補足2)という感覚を持つ文化を作り上げたのだろう。

その文化の違いによると思うのだが、日本人は自然に対しては受け身で対応する。例えば、日本の住宅は自然の空気を受け入れる形で造られ、冷暖房の工夫があまりない。日本の庭園は、自然を模倣する形が基本である。

その受け身の姿勢では、不足や不便が創意工夫と直結しない。不足や不便には先ずは我慢することが大事だと学校でも教える。それらの感覚が産業の種として育ちにくい。新しい次元の人工物にとっては、日本は砂漠である。

したがって、西欧の文化では人工的なデザインと工夫が重要だが、日本の工芸文化は自然の利用と模倣、つまり自分自身を自然に順応させるという部分が大きい。(補足3)

その結果の一つとして、日本の衣服には上下を分ける工夫がないし、ボタンで留めるという工夫もないことを思い出す。この日本文化の特徴は、ある意味深刻である。自分たちに馴染みのない環境が現れると、先ずはその環境を作り変えることを考えるべき時でも、そこへの順応を考えてしまう。それは、例えば戦後の日米関係のように、一歩間違えば卑屈な姿勢となってしまう。

上述のように日本では外の空間での人と人の心理的距離が遠い。(追補1)そのため会社などの機能体組織を屈託なく作ることができない。それでも組織を作らねばならないので、封建主義体制のような強い結合形式を会社は採用する。

それでは適材適所の原則が生かされず、労働の流動性も低くなる。9時〜17時は社会に出て機能体組織に参加して働き、それ以外の時は家庭でプライベートな時間を過ごすという西欧文化が日本に輸入できていないのである。

一事が万事、日本は隅々まで近代化されていない。明治以降、西欧文化を積極的に取り入れたが、どのようにして西欧文化が出来上がったかという歴史に学ぶことなく、その外形を模倣しそれに順応する方法で取り入れた。教育制度も学校や大学の制度を取り入れても、何故そのようなシステムを必要とするかについてはあまり学んでいない。

その根本原因を探すと、そこには言語文化の問題が横たわっている。言語の原点にある哲学が日本には育っていない。(追補2)そのため個人の思考や複数人の間の議論が深いレベルで出来ない。伊藤貫氏が言及していたのだが、日本では知識人でもパラダイム思考や哲学的思考(補足4)という思考の設定が不得意なのである。

追補:

 

1)他人の存在を無視するのではなく、むしろ重視し他人に遠慮することがその原因である。

 

2)日本では哲学を特別な学問のように考えられている。私は、何の前提も置かずに、単にそそぐ知的探求心を物や概念にそそぐ行為だと思う。自然科学が哲学の一分野として発展したことが、本来すんなりと理解されなければ、概念として「哲学」を理解できたことにならない。

 


補足:

1)artはnatureの対語である。artは普通芸術と訳されるが、人工と訳してもよいと思われる。それはartから派生したartificialという単語の意味を知ればわかるだろう。このように日本語と英語の間の壁は厚い。そのような注意は、schoolを学校、faceを顔と訳す場合にも必要である。

2)デフォルトは他に指定がなければという意味。ピッタリであり、既に日本語化していると感じたので用いた。

海外を旅した経験のある人は、ホテルから空港へのシャトルバスなどでも話かけられる経験をする人が多いだろう。私の乏しい経験からしても、日本での公空間における人と人との距離は外国でのそれよりもかなり遠いと感じる。日本語の赤の他人とか人ごみ(ゴミではなく混みだという人も多い)などの表現がこのことを暗示していると思う。

3)テレビ番組の「なんでも鑑定団」で、茶器等の鑑定を行う中島誠之助氏のセリフ「自然釉の作った景色が素晴らしい」などは、幾何学的模様と花鳥を描く西欧陶磁器の世界とはまるで美意識が異なる。この工芸品の世界でも、日本では自然を重視し、欧州では人工(アート)を重視する。

4)哲学的思考とは、原点から思考することである。そのことすらわかっていない人がほとんどである。物がなぜ下に落ちるか? その問題から地球が引っ張っているからであるという結論を出したのがニュートンである。日本人のほとんどは、「物が下におちるのはあたりまえだ」としてこの問題を思考できないだろう。そして上下の区別には定義が必要だと気づく筈。そこから人と人の間の上下とは何だろうという疑問がわき、社会学の視点を得るだろう。

 

(翌朝編集、追補を追加し最終稿とする; 6月30日、コメント再度アップ)

イスラエル・ハマス戦争は、現在の情況下ではガザ地区からパレスチナ人が居なくなるまで続くと考える人も多い。現在までの悲惨な情況をみれば、この戦争の本質が昨年10月7日のハマスによる対イスラエルテロの報復だけでは無いことは明らかである。今回、現在グローバルに進行中のグローバリスト対BRICS等保守勢力の争いの中でのこの戦争の意味について、以下に短い私の考察を示す。

 

現在ガザで進行中なのは、パレスチナ人に対するホロコーストであり、ヨルダン河西岸或いはネタニヤフらが考える大イスラエル地区の民族浄化(エスニック・クレンジング)の一環だと考えられる。この詳細についてyoutubeチャンネル「越境3.0」を主催する石田和靖氏が松田学氏のyoutubeチャンネルで話している。https://www.youtube.com/watch?v=YEZFZC-OhV8

 

 

石田氏はハマス・イスラエル戦争の経緯を202212月に発足した第6次ネタニヤフ政権の対イラン政策であるオクトパスドクトリン(補足1)から話し始める。その過激な対アラブ政策の中で、ヨルダン河西岸のパレスチナ地区への過激な入植活動が行われ、それがパレスチナ人に対する挑発行為となったのである。

 

石田氏は大イスラエルということばをその分析の中で用いなかったが、ハマス・イスラエル戦争の原因は、ネタニヤフ政権の“大イスラエル”を建設する戦略に存在すると解釈される。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12825669281.html

 

現在米国のネオコン勢力がネタニヤフ政権のこの戦争を支援する背景に、ネタニヤフ政権の大イスラエル構想はグローバリズムと調和的であるという事実があると思われる。つまり、グローバリスト達を指揮或いは支配する世界の大金融資本家たちの多くは、ネタニヤフ政権が目指すと思われる大イスラエルを地球全体に拡大する戦略を持っているのである。

 

2)米国の政治戦略との関連: 以下に今年312日の記事中に補足として書いた文章をモディファイし追加する。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12844098245.html

 

米国の政治は、軍産共同体が握っていると言う人が多い。軍需産業は軍事力を維持する為に必要だが、その軍事力の諸外国での行使は軍需産業とドルの国際的権威を守るためだけと考えるのは十分ではないと私は思う。

 

その究極の目的は、政治経済におけるグローバル化(補足2)の完成であると思う。グローバル化とは単に地球規模化ではない、シオニズム構想の拡大版であり、世界の全体主義支配を目指すことである。レーニンとトロツキー(共にユダヤ系)による国際共産主義革命はその最初の試みであった。

 

レーニンが死亡しトロツキーはスターリンとの政争に破れ、その生き残りが米国のユダヤ系と合流して作り上げたのがグローバリスト勢力(補足2)であり、民主共和両党の中核(補足3)を為した。彼らはオバマ政権の時、米国に彼らの目的達成の為の強力な政権を作り上げた。

 

その政治が米国民の福祉向上からはずれていることに気づき、米国を米国民のための米国に戻そうと訴えて大統領になったのがトランプである。もしトランプがもう一期政権の座についたなら、彼らグローバリストの戦略が崩壊する可能性があり、非常に焦り始めたのが昨今の激動する世界政治の背景だと思われる。

 

以上は、一理系素人の考えであることをご承知おきください。間違いなどの指摘があればコメントをお願いします。

 

補足:

 

1)イスラエルと戦うハマスやレバノンのヒズボラなどはタコの足に過ぎない。イスラエルの安定は、タコの頭であるイランを叩くことでのみ達成されるという考え方がオクトパスドクトリンである。

 

2)ここでの政治経済のグローバル化は、世界の全体主義的支配である。地球は80億人の地球人を永遠に養うことは不可能である。その文明崩壊が既に環境汚染や地球温暖化として始まっており、今後資源の枯渇も問題となるだろう。それらの問題を本質的に解決し、末永く人が地球上で地球と調和的に生き残るには、選ばれた人のみが地球人として世界を支配すべきであるという考え方だと思う。

 

 

3)彼らは民主党ウィルソン政権の時に大きく躍進した。その後、民主党は労働者の正統からグローバリストの政党となった。その後保守政党と見られていた共和党に移った人たちも多くなり、かれらはネオコンと呼ばれるようになったようだ。

 

(18:30 第一節最後に一文追加;翌早朝2,3箇所の文章修正し最終稿)

昨日のニュースによると、サウジアラビアの聖地メッカを訪問する人たちが熱波の中で倒れ1000人以上が死亡したようだ。毎年死者が出るのだが、今年は異常に多いということである。https://www.youtube.com/watch?v=GIsnuQwuGP4

 


この時期(イスラム歴第12の月)一生に一度聖地メッカを訪問し拝礼すること(大巡礼;ハッジ)は十分な財力と体力を持つイスラム教徒たちの義務だという。厳しい天候の中で大巡礼を続ける人たちのことを知った時、表題の言葉が頭に浮かんだ。彼らは宗教の中で人生を全うするのだろう。

西欧では、科学と工業そして経済的発展及びそれらと並行した文化的変化により、宗教的義務に於ける厳格さは徐々に弱まり、宗教改革とその後の歴史の中で形骸化した。個人の自立を前提とする民主主義などの近代政治システムは、その結果として産み出されたのだろう。

また、市民革命と国民国家の時代を経て、主権国家と国際法とによる国際政治文化が出来上がり、国家間や民族間の残酷な戦争を減少させる国際体制が一旦出来た。

 

その一方、一神教の強く残る中東では、これらの西欧が産み出した国内及び国際政治システムは導入されない。一神教は社会的宗教であり、個人は自立しないからだろう。(補足1)

一神教の世界では、宗教は民族間の競争における旗となる。その民族の父として神が存在し、民は子であり、預言者は民を束ねる。前回記事でゼレンスキー氏のイスラエルでの演説を引用して示した様に、民族構成員全員が姉妹兄弟である。勿論、イスラム教徒でも同じだろう。

かれら中東の人たちは、同じ宗教の下で民族単位で生きている。民族間の対立は主に宗教間の対立でもある。生存競争の中にあって、宗教の違い故に対立すると言うよりも、元々は対立のために宗教が存在すると言った方がより正しいと思う。(補足2)

例えばイスラム教のスンニ派とシーア派の対立と言うが、これも彼らの対立の為に出来上がった宗教の違いとも言える筈である。


2)西欧近代の脱宗教化

西欧では、科学と技術の発達から産業革命(18世紀半ば~19世紀)が起き、金融システムの改良なども寄与して、飛躍的に経済発展が進んだ。大航海時代、世界の植民地化、更に経済のグローバル化が進み、世界人口が爆発的に増加した。(下図、国連世界人口基金より)


経済的豊かさは人々から厳しい生存競争の必要性を少なくした。それが宗教改革の土壌を作り、人々はカソリックからプロテスタントに宗教を替え、そしてそれも近代化の中で色あせていき、学問の世界では無神論が認知されるに至った。

凄惨を極めた中世の生存競争(戦争等)から解放され、近代の西欧は戦争を外交の中に押し込めることに成功した。その中で出来たのがハーグ陸戦条約(1899年;補足3)やパリ不戦条約(1928年)であり、それを受け継いだ国連憲章などである。

経済の発展が続き人口が急増すると、やがて人々は地球が有限であることに気付く。そして聡明な人々は、人類の危機を予想した。「成長の限界」が出版されたのが1972年である。一旦薄くなっていた民族間(或いは国家間)の生存競争の空気が再び濃くなりだした。

この世の終わりが近いのではないかと言う人たちが増加し、その中で文明のリセットを不可避と考えて、自分たちと所属する民族こそ何とか次の時代に生き残るべきだとの考えが発生する。そして日本では永遠に”信仰”されるだろう世界平和などの思想は、海外では時代遅れとなった。

 

それが、世界の富裕層を中心とした所謂グローバリストたちのグレートリセットや新世界秩序などの壮大な戦略である。そこには民族間の平等や人道や世界平和などの価値観は表を飾るだけである。表の理想論と裏の現実主義の時代になった。

つまり、西欧が産み出した近代の政治文化は既に時代遅れになっている。しかし不幸なことに、日本の政治家や政治評論家は、国際法を未だに世界政治を考える基準にしている。原爆を二度投下されても、その世界の変化に気づかないのである。

このブログサイトでは何度も、サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC;米国ユダヤ系圧力団体)副館長のアブラハム・クーパーが「原爆投下を人道に反する罪だとは思わない」と明言したことを紹介している。

彼らは、上記新世界秩序の達成に向けて、主権国家体制だけでなく、ハーグ陸戦協定などの西欧の政治外交文化を全て無視しても良いと考えている筈である。彼らは、古代の価値基準を復活させているのである。

 

それをユダヤ人の性格だという風に差別思想を用いて議論を終わること間違いであり、知的怠慢である。それは、米国から世界に伝搬している「脱近代」(ポストモダン)の時代の必然である。

ポストモダンの時代は、生活の道具立ては全く異なるが、価値の尺度において原点(先祖返り)に戻る。人々は、原始時代の民族主義や大家族主義を持ち、近代の主権国家体制や民主主義国家の価値は徐々に消滅する。近代政治文化圏との共棲は、表で理想論として行い、現実論は持ちつつ表には出さない。つまり、多くの”先進国”(日本以外)は二枚舌になる。

民主国家として歴史を積み上げた中で、近代の終わりとともに利己的、派閥的、民族主義的に人々は分断される。その流れの中で、米国の一マイノリティであるユダヤ民族が米国の政治経済を牛耳る程になったのである。彼らはポストモダンの先頭を走る。

 

以上は、社会学の大学院教育を受けていない一理系素人の考えである。もし不十分な点や間違いがあると思われる社会学に詳しい人が居られれば、コメントや議論を書き込んでもらいたい。


補足:

1)宗教には二種類ある。社会的宗教と個人的宗教である。一神教は前者であり、仏教や神道などは後者である。神道に一神教的要素を加味したのが伊勢神道つまり天皇を中心とする神道であるが、日本人の心の中に深く根差しているのは元々の神道である。(これは自説であり、学会の説かどうかはチェックして居りません)
二つの宗教:自分が生きる為の宗教と他人を支配する為の宗教

2)古代、国家をまとめるために宗教を取り替えることがあったと聞く。ローマがキリスト教を国教としたのも政治的な決断だったようだ。イラン(ペルシャ)も最初拝火教だったが、イスラム教へ変更した。

 

3)ハーグ陸戦条約では:戦争は厳格に戦闘員の間だけで行われ、市民一般を攻撃してはならない; 捕虜は虐待してはならない; など人道的な取り決めが多くなされた。従って、第二次大戦末期の大都市空襲や原爆投下は、国際条約に反し明確な戦争犯罪である。

(6・22早朝、編集あり)