二日前のグアム島での通り魔殺人事件は、元々善良な人と評価されていた犯人が、失恋かなにかで気が狂ったようになり、行った惨劇だった。4年ほど前にも秋葉原で似た事件があった。犠牲となった人とその遺族の方は非常に気の毒であり、凄惨な現場の情景をテレビで見た時、背筋が凍る思いであった。それを出発点にして、以下のような考察を行うのは遺族の方々には申し訳ない気持ちがするが、真面目な議論であるのでどうかご容赦ねがいたい。
 


 これらの事件は誠に憎むべき凶行であるが、計画性も何も無く、従って、幼児的な自己喪失の中で行われた様に私は感じる。つまり、自分の心の中で担いきれない精神的重荷が与えられた時、それまで善良に振る舞ってきた人が、人が変わった様に凶行に及ぶのである。これと対比的な捕食者的殺行為は、ライオンなど肉食動物では普通であり、ヒトが行う場合は例外的で精神障害(サイコパス)の結果であると考えられている。

 

私は、グアムでの犯行は、「ヒトが幼児的性質を生涯持ち続ける」ことと関連して起こる人間社会に普遍的なタイプの犯行だと思う。“濃淡”は大幅に違うが、同じ様な“色”の行いは、普通に行われている。例えば、成人男性の行う卓袱台返しなどもその一例である。大きな60歳の男が行っても、何の得にもならず何の説得力もない、ダダをこねる行為と本質的に同じであると言う意味で幼児的である。



 ところで、この幼児性であるが、たまたま人間が持つ、くだらない性質ではなく、「(幼児性が)ヒトのヒトたる所以に深く拘っているのではないか」というのが、ここでの主題である。我々は、高度に発展した文明社会に生きている。その社会の根幹を為すのが、ヒトとヒトとの密接な情報及び感情の交換である。それにより、緻密なルールを作り広い範囲において共同作業を行い、この文明社会を成長発展させてきた。「ヒトが緻密に感情などの交換を行う能力は、ヒトが幼児性を持つことにより得た、ヒト独特のものである」というのが私の考えである。



 どの動物でも幼児である間は、その生命を維持する上で100%母親に依存している。そして、幼児は親との接触で、(他の個体である)親との間に感情的な親和性(つまり、密接な感情の交換)を持つ。ヒト以外の動物の場合、成長して親から離れると同時に幼児性を失い、その結果、他の個体は親と云えども生存競争の相手になる。

 

一方、上の例でも解るように、ヒトは一生涯この幼児性をのこしていると考えられる。ヒトが哺乳動物で唯一肌を露出していることは、成人になったあとでも幼児性を残していることを象徴していると思う。つまり、感情は言葉ではなく、直接露出した肌(主として顔面)により伝達されるのである。風呂や温泉に入浴した際によく言う「裸と裸の付き合い」という言葉と、その際の親和的な互いの感情交換は、この考え方を支持していると思う。


 更に、"他(タ)"に依存することを特徴とするヒトの“幼児性”が、"自と他"の区別やそれに基づく外界への探究心の根源になっているのではないだろうか。それは、他を意識しないで自分という存在を意識することはないからである。「我考える。故に我あり」(Ich denke also bin ich)という言葉において、「我あり」との結論にデカルトが至ったのは、他を意識しそれとの関係を“我”が考えたからである。

 

ヒト以外の動物、例えば、成長したライオンに「我」という意識があるだろうか?私は無いと思う。注1) それは、他の個体を、自分の生命活動(食べて生きることと生殖活動)の対象以外のものとしては捉えていないだろうからである。“我”の発見があって“他”を区別でき、そこで初めて「他と我との関係」を深く多角的に思考分析することが可能になる。そして、“他”の中には仲間のヒトのほかに、ヒトが活動する舞台としての自然などがあることを知るのである。つまり、知性の存在根拠としてヒトの幼児性があるのではないだろうか。

 

別の表現では、「幼児性という不完全性が、他の存在への関心の根拠(良い単語が見当たらない)である」といっても良い。もし神が存在するとしても、完全なるが故にヒトの知性に相当するものはなく、従って神罰は神の思考の結果ではなく、数式適用の如く瞬時に下される筈である。注2)



 以上から、ヒトの作った高度な文明社会は、ヒトが幼児性を備え、“不完全である我”という意識を持った結果であると考える。この考え方はこれから緻密化していきたいが、ここでは一応文章を閉じる。

 

注釈:


注1) 従って、ライオンの成獣は人間より完全なる存在であると思う。厳しい自然の中で生きる動物の姿に気高さを感じるのは、その動物達が自立した完全なる生物に見えるからだと思う。
注2)聖書には、 ヒトは知恵の木の実を食べたため、完全性を喪失したとある。
 

全世界的な経済発展とそれに伴う輸送や通信のコスト低下により、国境を超えて活動することが企業の生き残る条件になった。その結果、社員に国際的に活動できる能力を必須条件として要求することになり、日本企業といえども日本人を優先的に採用する時代が終わりつつある。従って、これからの会社員は、国際的慣習や多くの個別文化に対する理解を含め、国際的にコミュニケーション出来る能力が必要とする様になる。そして、日本人一般のレベルでも、ある程度の英語を理解し話すことが、”生きる上に”必要になって来た。初等及び中等教育は、20年後に活躍する人材を育成するのであるから、この視点での語学教育の改革が急がれる。また、英語が意志と情報の伝達において能率の良い言語であることは、その構造を日本語と比較すれば明らかであるから、英語学習を通して、「沈黙は金」を言い訳にして学校以外での議論する訓練を避けて来た”悪しき習慣”と(その結果として生じた)閉鎖的な国民性も、改善されると思う。注1) 英語が大きな顔をすることは歓迎すべきことでなく、日本国(及び国語)の喪失につながると騒ぐ人もいるだろう。しかし、我々は日本人である前に生きねばならないし、英語が共通語になることは歴史の進む方向であると思う。また、中途半端な英語が巷に氾濫することがなくなり、むしろ、日本独自のものは何か良く解る様になる可能性もあると思う。
次に、その方法について一案を出す。小中学校教員として、外国人を多量に採用する案も無いではないが、経費的に、そして、日本人から仕事を奪っては元も子もないので、現在の教員に努力してもらうことを提案したい。具体的には、例えばNHKの英会話のCDを繰り返し聞いて暗唱することを教室で行う。学校の先生(は前日から)と生徒が同時に教室で学べば良いと思う。先生は、数年後には英語で会話が出来る様になるだろうし、生徒に英語で話しかけることも出来るだろう。
英語教育関連での二番目の提案として、日本に英語(北米英語)で講義する国立のエリート大学を一つ作ったらどうだろう。定員は1000人程度で、授業料は無料。教員の半分程度は英語を話す各分野の優秀なph.D.(一応訳せば、日本の博士号)保持者を、英語圏から採用する。幼少期からこの頂点を見て英語教育を受ければ、金のかからない上記初等中等英語教育下でも、必ずや英語で専門的な会話が出来る人材が、毎年数万人できるだろう。
日本国は現在斜陽状態である。これは、現在進行中のマクロ経済的視点の対策だけでは解決しない。一つ一つの企業の実力、そしてそれを支える、一人一人の日本人の実力、国際的にも通用する実力の総和を上昇させるしかないのである。
注1)http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
今朝のニュースステーションでは、桜宮高校での体罰事件から、小学校からの英語教育、更に学校の教育行政まで広範な議論がなされていた。その最後の部分で、出席者の一人である大学の先生から、今一番改革を要するのは大学であるという意見もあった。つまり、大学が終着駅と見なされているから、その終着駅がいい加減だから、高校以下の教育が上手く行かないのだという考えである。大学で教育を受けた人が社会に出て、その一部が小中学校から大学の教員になる。大学でいい加減な教育を受けた人間が小中学校の教員になるのだから、そこでの教育レベルは低下するのは当たり前。つまり、日本国は知的デフレスパイラルになっているのである。大学を改革出来れば、そのデフレがインフレに転換できるかもしれないという意見だと思う。日本の経済対策として聞いた話に似ている。

更に、日本の小中学校長には人事権や予算執行権がないので、組織のトップとして何もすることが出来ない。その原因は米国が戦後作った教育行政の枠組みがそのままにされているからであるとの話。あれもこれも全て、戦後の枠組みから脱却しないで米国依存を決めこみ何もしなかった自民党政治と、その中で育まれた霞ヶ関官僚たちの独裁体制の相互依存制に問題の根幹があるようだ。

この知的デフレスパイラルも経済的デフレスパイラルも、今まで何もしなかった自民党が生まれ換わって改革できるというのだろうか?

このような議論を展開すると最後は、日本の文化にまで話が及んでしまう。(注1)
 元に戻って、日本の知的デフレスパイラルの原因としての大学の能力低下(注2)であるが、その原因は大学の人事にある。大学教員の実質的な人事権を教授会が持つことがこの知的デフレの出発点である。より具体的には、その人事制度により、助教(昔の助手)が出身講座の大学院修了者から選ばれることになり、その大学助手が最終的にどこかの準教授や教授になり、大学のレベルを決めることになるのである。一旦レベルが低下し始めると、際限なく低下する。そのプロセスは、英語の諺「一級の人間は一級の人間を選び、二級の人間は三級の人間を選ぶ」(注3)を思い出すと容易に想像できる。問題は、その大学出身者が大学だけでなく日本の全ての分野でのレベルを決める点である。

 このデフレスパイラルを改革するには、出発点である助教の人事を、例えば客観的指標を決めるとともに人事プロセスを公開するなどで改革する必要があると思う。
更に、もっと根源的な部分で、大学行政への国の関与の仕方である。私は、大学への助成金を大幅に減額することを提案する。大学への進学費用は、それにより得る利益を受ける側が負担すべきである。それにより、まともな大学のみが生き残り、従って大学はレベルの向上とその為の人事等を必死に考えるだろう。


  1. http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/mopyesr/view/201211の最初の文章
  2. 日本はノーベル賞をかなりとっており、大学のレベルが低くないのではないかという意見が出てくるかもしれない。しかし、ノーベル賞の大半は数十年前の業績に与えられているのであり、現在の大学のレベルを繁栄していない。また、東京大と京都大だけが大学ではない。現在の大学のレベルは、世界の大学ランキングが参考になる。
  3. First rate mathematicians choose first rate people, but second rate mathematicians choose third rate people. ネット検索ではこの言葉しか出てきませんが、NHKビジネス英会話の中では、数学者ではなく単に人:peopleが使われていたと思います。