潘国連事務総長は、「日本のリーダーには(歴史問題に関して)深い省察と、未来へのビジョンが必要だ」(http://www.j-cast.com/2013/08/29182501.html)と韓国で帰省中に発言したということである。これは、明らかに国連事務総長という立場を忘れた発言であり、潘氏のその地位への適性が問われるべきである。
 安倍総理は、しかしながら、「歴史の問題については専門家の議論に任せていくというのが安倍政権の基本的な方針だ」という逃げの姿勢を貫いており、官房長官も潘事務総長の中途半端な訂正発言を有り難く頂戴して、早々に矛を収めてしまった。国連事務総長に、あなたの仰る「未来のビジョンとは何ですか?」「ひょっとして、日本が中国や韓国のプロパガンダ的歴史認識をそのまま認めることですか?」と強く問いただす機会であったのに、それを逸した内閣にはあきれる。これでは、「詳しく調査すれば、事務総長の言ったことが正しいということが解る」ということを認めたことになるが、それで良いのか?中途半端な”和”は問題をもっと深刻な形で将来に送ることになることが未だに解らないらしい。(注1)
 彼ら内閣の政治家と比較して、橋下氏は明確な立場をとっている。それは、「当事国を含めた国際的調査団を組織し、例えば、当時の日本国家が朝鮮半島の女性を強制連行して、所謂“従軍慰安婦”としたとの証拠が得られたのなら、日韓の講和条約とは別に、公的な謝罪と当事者への補償をすべきである」である。私は、この方向が、日韓の歴史問題、日中の歴史問題の未来志向な解決策であると思う。この際、潘国連事務総長に、東アジア歴史問題調査団を、西欧諸国やアジア諸国の中立的立場をとりうる当時の政治家や歴史家を中心に組織し、詳細に調査研究することにより、東アジアの近代歴史の確定を行うよう提案したら良かったと思う。

 ここで一つ追加したいのは、日本のマスコミのレベルの低さである。先日日本維新の会の政党パーティーが開催され、橋下氏が憲法問題などについて演説したとのことである。しかし、日本の全てのマスコミは取材しなかった。その理由は、明らかにしないか、政党パーティー券購入することは特定の政党支持につながる、という下らない理由である。何らかの協定を水面下で行ったのかと疑う。パーティー券15000円が、特定の政党支援につながるというのは、東証一部上場の企業の台詞ですか?取材費に計上して、日本維新の会の主張を橋下氏の演説から汲み取り、疑問点があれば質問を堂々とする良い機会だったと思う。どうせ、大谷昭宏さんレベルの解説委員を使っている会社なので、そこから選りすぐりを派遣しても、かえり撃ち質問が怖かっただけだろう。(注2)

注釈:

1)「歴史的事象に関する評価は、当時の感覚を取り入れて行わなければならない。」というのは、部分的に正しいと思う。政治家は、歴史書はどのように書かれて行くかをもっと調べるべきである。つまり、政治をリアルタイムで進めて行くために、一定の時間内に歴史の評価を一旦暫定的に決めるのは政治家の仕事であると思う。その後、現実の政治とその歴史的事象が深く拘らない時代になって、詳細に歴史を確定するのが歴史学者の役割である。つまり、先の大戦の歴史は、未だ、現代政治に影響を持つ、政治家が関与すべき段階であるので、歴史家に任せるという発言は、”単に逃げている”ととられても反論できない。
注2) 「たかじんNO マネー」の番組で、水道橋博士の番組降板で話題になったシーン直後の、大谷氏と橋下氏の議論が非常に印象的だった。強制連行があったとして、その際の慰安婦の方に補償をすべきだと思いますか?「YESですかNOですか」という質問を何回も繰り返す橋下氏に、大谷氏はYESともNOとも答えられなかった。
--これは理系元研究者の素人としての意見ですので、厳しい意見を歓迎しますーー
 週刊新潮8月15・22日号の連載コラム「日本ルネッサンス」(172頁)に掲載された櫻井よしこさんの文章を読んで、所謂右寄りの人たちが靖国に参拝する理由について、私は重要な誤解をしていることに気づいた。櫻井さんを始め多くの自民党議員たちは、単に戦死した多くの兵士達の慰霊だけではなく、戦争主導者達(所謂A級戦犯を含む)を含め全戦犯の慰霊も、重要な参拝理由であることが解ったのである。つまり、彼らは戦争責任者などいないという考えを持っているのである。櫻井さんは書いている、「独立を回復したとき、全国で戦犯の赦免及び保釈の運動が湧き起こった。赦免を求めて署名した総数は4739万人だった。A級戦犯注1)をはじめとする全ての戦犯の赦免こそ、国民とほぼ全ての政党の切なる願いだった。」更に、「A級戦犯を含めた全ての戦犯は、日本国内外の合意と承認を得て赦されたのであり、合祀の時点ではもはやどの人も戦犯ではなかったのである。」と。
 この文章において、櫻井さんは明解な、しかし私にとってはとんでもない、主張をされている。その為、歴史的データを自分に都合の良い方向に解釈されている。例えば、1)4739万人の署名は、全ての戦犯の赦免を要求するものだったのか?という疑問がわく。つまり、戦犯のほとんどはB・C級戦犯であり、極限情況での捕虜虐待などの犯罪行為を裁かれ投獄中の人たちである。東京にいて戦争を指揮し、既に絞首刑になったA級戦犯たちを念頭において署名しただろうか?しかし、櫻井さんは強引に、「A級戦犯を始め全ての戦犯の赦免こそ、殆ど全ての国民の願いだった」としている;2)「全ての戦犯が赦免されたのだから、靖国に合祀された段階では戦犯では無かったのである」と勝手に解釈している。赦されたのだからその人達は戦犯ではなかったという、とんでもない理屈である。注2) ボケた頭のせいなら兎も角、全体的に練られた文章の中に、このようなとんでもない理屈を入れるという手口は悪質としか言い様が無い。
 また、絞首刑にされたA級戦犯の多くは、終戦時内閣を組織し、原爆や空襲で数十万人の民間人に死者を出しながら、尚、自分達ではポツダム宣言受諾を決められなかった指導者である。注3) 急激に大きくなる黄色人種の国に、脅威を抱く西欧諸国側(西欧のエゴであったとしても)の見地に立つ想像力の欠片もない彼らは、破竹の勢いでアジアに侵攻するか、或は西欧諸国に戦争を挑み国家の存立さえ危うくするかの選択という愚かな賭けをしたのである。国民の平穏な生活を守るというような視点はなく、国民全てを自分達の危険な賭けのチップとしたのである。そのような人たちを英霊として何故拝まなければならないのか? 戦争は、ましてや一億玉砕や神風特攻隊は日本国民全員の本来の意志ではない筈である。そのように国民を煽動した者達の霊を拝む必要はない。それに、神社ではなく何故墓地に戦没者を埋葬し、墓参しないのだ?
 靖国神社は、戦死したら神になるというごまかしを用い、兵を死すべく戦場に追いやるのに用いられた国家主義的施設なのである。
注釈:
1)日米開戦には慎重派の閣僚でも、開戦時内閣の構成員だったという理由でA級戦犯となった人もおり、一括りにして論じるのは不適切であると思う。櫻井さんは全ての戦犯を同等に考えておられるから、文字通りで良いが、私は、A級戦犯を以下戦争指導者の意味で用いる。
2)A級戦犯合祀が1979年4月に毎日新聞のスクープ記事となった直後、靖国へ参拝した大平首相は、6月の参議院内閣委員会での質問には、「(A級戦犯についての)審判は歴史が下すであろうとかんがえています」と答えた。その後12月には中国を訪問した際、多いに歓迎された。中国の姿勢が変化したのは、中曽根首相が85年8月15日に10回目の参拝をした後の9月20日である。明らかに政治的な理由がある」と書いておられる。中曽根首相の終戦記念日での参拝に対する批判までに、6年近く経っていることから、中国は政治的に利用していると結論している。明確に先の大戦と関係つけて参拝したのが終戦記念日に参拝した中曽根首相であるのなら、中国の批判は瞬時ということになるが、その点には何もふれていない。
3)ポツダム宣言は前の米国の駐日大使であった、グルーの努力により日本を救う為に出されたということである。厳しい内容の中に、そのような意図が汲み取れない指導者は、一国の指導者たる資格はないと思う。
善を尊び、悪を憎んで人間社会が運営できれば理想的である。しかし、歴史上現実の世界はそのようには運ばなかった。この理想と現実のズレは、本質的なものなのだろうか?
 元々、弱い生き物に過ぎない人間は、大きなグループ(注1)を造ることで個人の多様な能力の総和をとり、全体として大きな力の集団を形成する必要があった。その為には、グループへの帰属意識とそのグループ内での揺るぎない結束(=信用)を作ることが重要である。家族関係にない個体間にも、固い繋がりを可能にするための背景として、“善と悪”という価値(倫理)が創られた。(注2) その結果、他の生物を圧倒することが出来、人間がその生存をかけて対立するのは、他のグループの人間ということになった。もちろん他のグループでも、同じ様に“善と悪”を背景に構成員が結束している。このグループの形は、相似形をなすため、“善悪”という倫理的物差は普遍的に人間社会に君臨することになる。(注3)
 ところが、マルサスの人口論にあるように、地球は有限であるが人口は急速に増加するため、他のグループとの生存競争が生じる。必然として、人の歴史は戦争の繰り返しとなり、敵を討つ事がグループ内で評価される。その為、善悪はグループ内だけで成立する価値となる。私は、この人間生存のメカニズムが、自然現象のように進んだと思う。その結果、平均的な人間は敵地において、善悪を始め多くの人間的価値を脱ぎ捨てる事となる。しかし、この善悪に境界があることを常に認めると善悪の価値が崩壊するので、人類にとっては公然の秘密である。(注4)
 現代、上記グループとして最も適当な領域は、国というレベルまで大きくなった。近代史において欧米の民主主義が世界を席巻し、その結果善悪に適用領域を設けないで生きることが可能な世界国家を目指しているように見えなくもない。しかし、国際社会というかなり獏とした権威により、戦争にも一定のルールができ、(一定の範囲の国の間では)外交の中に包含することが出来る様になったのが精々である。(注5) 
 現代政治の世界において、この戦争行為を大衆に向かって正当化することは困難である。そこで、理想主義と現実主義という二極を設けて、その後に理想主義を退けるという方法で、敵国を通常の善悪の適用領域外において戦争を可能にした。民主政治の根本的困難は有権者一般が十分な想像力を持たないため、理想に高い価値を置き、現実主義を汚いものとして嫌うことである。結局、政治は巧妙に嘘を用いて、この困難を克服?して来たと思う。(注6) また、人類の創る社会は国家のみではなく、複雑な多層構造を創っている。日本では、会社や官庁の省庁まで、共同体的グループである。その結果、善悪がその境界の内外で不確かになり、社会の信用環境を損なっている。一神教の国では、要するに神の戒めに従うことが善であり、それを受け入れた後は善悪からは自由になる。注7) その結果、宗教以外のグループの地位は低下し、相対的に個人は自立する。「一神教、個人の自立、民主主義の正常な機能」の組は、切り離せないのではないだろうか。(注7) 


『注釈』
注1) 人間は家族関係、血縁関係、地縁関係といった重複した社会構造を持つ大きなグループを作る唯一の動物である。
注2) 更に、大きな国家レベルでは、その中に多くのグループが多層的に含まれてくる。そのため、厳密な定義と強力な執行力を伴う“法”を併用することになる。その場合でも、善悪は社会生活を送るうえで、重要な信用という環境を養っている。
注3) 創世記によると、善悪を知る木の実を食べたイブとアダムは楽園から追放され、死ぬ存在、つまり生身の人間となったのである。
注4)知る人ぞ知るという意味。親鸞(浄土真宗)のことば、”善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや”は、悪を人間が生存する上での必然と見抜いてのことばだと思う。
注5) イスラムの世界やアフリカを見ると、そして、現在頻繁するテロリズムを考えると、これも一時の幻想かもしれない。
注6) 欧米の政治家は嘘がうまい。太平洋戦争開戦時の、米国のセオドア、ルーズベルトなどが良い例である。
注7) つまり、善悪を神に返すことで永遠の命を得ることが宗教の本質であると思う。(神との強い繋がりにより、)個人が思想行動において独立することが、民主主義の正常な機能の為に必須である。(小沢一郎氏の日本列島改造計画)