ここ数日ある漫画家の引退に関するニュースが何度も現れ、それに対する所謂“有名人”のコメントがテレビで報道されている。一人の漫画作家が仕事を止めることに、高いニュース価値があるのだろうかと驚いた。過去何度も止めるといって、止めなかった人であるから、今回も本当のところは解らないのに。手塚治虫氏の死去したときのニュースより大きいことに気づいた時には不愉快な気分になった。(注1)
 そこでその原因を考えてみた。そして直ぐに思い付いたのが、漫才や落語で、そして今回の引退ニュースの主人公も含めて、近い過去に文化功労者が何人も出たこと;それほどでもない女優が国民栄誉賞に輝いたこと、などと同じ現象ではないかということである。つまり、社会における“価値の物差し”が刻々変化しているのである。昔、「物を生産しないし、社会への貢献が無視出来る程度である」として、“河原乞食”と言われた芸人たちが、今や豪邸に住む貴族になったのである。
 それに気づけば、原因の追求は終わったようなものである。つまり、テレビとインターネットの発展である。そして、その道の原点が、量子力学とその原子分子への応用である。(注2) そこを出発点に、半導体の発見およびその理論的理解から、トランジスターやダイオードを駆使した電子回路という工学の分野が飛躍的に発展した。白黒テレビは真空管の発明で可能になったが、その後の発展やインターネットは、この半導体工学なしには不可能であったと思う。そして、その名も無い理学や工学の秀才たちが創った舞台の上で、踊っているのが、低い社会的身分から貴族的身分に登りつめた人たちである。上記ニュースの主人公もその一人である。(注3)
 言うまでもなく、人間は社会を為して生きている。社会は複雑な構造をしており、その全容は天才でも一人では理解できないだろう。それは、人間と同様、骨組みから、頭脳や神経器官、循環器、消化器、内分泌器、解毒排泄器、運動器官、などで喩えられる分野がある。テレビ俳優(タレントというらしい)、スポーツ、漫画といった分野で活躍して居る人も、社会の一部分を支え、且つ、社会の他の部分から支えられているのである。本来、貴族になる理由はないのである。
 最近、家の門扉周辺にレンガを敷いた部分があり、そこに出来たひび割れの修理を、左官屋さんに依頼した。暑い最中に、汗を流しながら、一人で黙々と作業が続けられた。冷たいものを飲んでもらおうと、清涼飲料水を持って行き、その際話を聞いた。「技術を息子さんに教えられたのですか?そして、後を継がれるのですか?」という問いに、その方は、「こんな仕事は勧められない。息子は電気の方に進んだ。それで良いと思う」との返事であった。かなり安い代金で良い仕事をしてもらい、大変感謝している。ただ、「こんな仕事は…」という台詞が非常に気になった。工事代金は、社会が決めた物差しにより決定されるのであり、私が無理を言った訳ではない。
 つまり、物差しが歪んでいるのである。(注4)

注釈:

(1) 手塚治虫氏は、大学の医学部を出て、そこから今ではアニメといわれる分野の創始者となった人である。もちろん評価は非常に高いが、当時の“社会の物差”からは、さしたる表彰の対象となる存在ではなかった。
(2) 量子力学は物質の性質を支配する電子の挙動を説明する際に産まれた学問である。その分野の開拓者の何人かはノーベル賞の対象になっている。しかし、その波及効果は、その程度ではなく、将に世界を変えたのである。
(3) 舞台俳優になるには、特別の才能と努力を必要とし、科学者として大成するのと同様に、評価されるべきであると思う。従って、芸能を磨き伝承してきた人たちを乞食呼ばわりするのは、当時の“社会の物差”も歪んでいたからである。
(4) 否、物差しの問題ではない。乞食だって、禅僧とどう区別するのか?全ての人は、「産まれて来て、生きて死ぬ」ことで社会へ参加し貢献しているという見方が正しいと思う。この注釈が結論であるが、上には敢えてその結論は書かない。ここは、仏教を論じるところではないのだから。
 今日、2020年のオリンピックが東京で開催されることとなった。シリアの件が無ければ、イスタンブールが最適だと思っていた。スペインはバルセロナで1992年にやっているので、そして、経済危機の可能性もあり、東京の方が適しているだろう。ただ、日本でやるなら、そして、政府が前面に出るのなら、本当は四国や九州の方がバランス的に良いと思う。

 7年後と言えば、世界がその間にどのように変わるかも(もちろん自分がこの世に居るかどうかも)、心配の種である。経済的な枠組みも現在の姿から大きく変わっているかもしれない。(注1) 東アジアにおける日本の位置も同じく心配である。(注2) テロを避けて、イスタンブールを避けたが、東京も緊迫感が無いだけに心配である。何とかそれまでに、北朝鮮とは国交を回復し、安定な外交関係を築くべきだと思う。国交が無いだけに、白紙の紙に絵を描くごとく、しっかりした関係を持つことも可能だし、台無しの関係にもなり得るだろうと思う。
寺島実朗さんが関口さんの番組で言っていた様に、「これを機会に、戦争の出来ない、しかし、国際的に確固とした地位を持つ国になって欲しい」(私の理解であり、発言をそのまま再現したものではありません。)と思う。

注釈
1)ドルを決済通貨とした国際経済が、ユーロや元が決済通貨に加わるような事になったら、米国の多額の債務がどうなるのだろうか?経済は全く解らない人間だが、何となく心配である。
2)最近の韓国の姿勢にはあきれる。日中関係の修復が大事だろう。
 最高裁で、「婚外子の遺産相続分が嫡出子のそれの1/2であるとする民法の規定は、法の下の平等を保障する憲法に反する」という判断が示された。(注1) 最高裁の判決の中でそう示されたのだから、民法をその規定を含めて矛盾の無いように改めるしかない。ただ、本当に妥当な判断だろうか?14人全員の一致した判断だというのだから、無効にすべきではないだろうか?(注2)などと思ってしまう。

 婚外子と言ってもいろいろある。事実婚状態にあった男女の間のこどもで、父親が死んでしまったと言うケースもあるだろう。そのようなケースでは、配慮はあって然るべきだと思う。だが、次のようなケースもある。所謂、二号さんや三号さん?に生まれた子供である。子供が同等の権利を有するとなると、人生の最初の婚姻関係として、お金持ちの二号さんを目指す女性も増加するかもしれない。民法の規定に反して、重婚を認める方向に一歩近づくことになるからである。これから格差社会になって行くから、最高裁もそのような事態にそなえているのだろうか?日本国は、そのような乱れた国になって行くのだろうか?

 言うまでもなく日本社会の枠組みは、一夫一婦制で出来ている。今回の判決は、既に日本国において一夫一婦制の原則が、部分的に破壊されていると、最高裁が判断したことになると思う。子供には責任はないという論理は、子供の全ての性質や情況に当てはまる。嫡出子である無しの他に、頭の良し悪し、外見の良し悪し、身体の良し悪し、全て子供の責任ではない。後の3つに関しては、子供に責任はないものの、最高裁判事を含めて誰も何もしてくれない。金持ちは、社会に於ける勝利者であるとすれば、ほかの人より平均して頭が良く、体力もあるだろう。法的差別も社会の偏見も少なくなるのなら、金持ちの二号さんを母に産まれるのも、結構ラッキーなことじゃないのか。法の下の平等というが、そもそも法(民法)が想定していない婚姻状態から産まれた子供である。従って、今までの解釈(1995年の最高裁判決)が全くおかしいという訳ではない。法に定めていないことを原因に持つ事に関して、法の下の平等という理屈は解らない。(注3) 

 高裁の判決を、何回もひっくり返せば時代遅れの価値観を持った人だと言われるだろう。14人全員一致の判断だという不自然さは、そろそろ、このような判決を出すのが無難だという”打算の産物”なら説明がつく。1995年から、日本国はそんなに変わってはいないのだから。(注2) とにかく、最高裁の判事なんて、何かにつけ、真面目に議論をしているようには思えない。例えば、「一票の格差」に関する裁判でも、2.0を超えたら違憲だとか、アホなことをこの前まで言っていたのだから。(注4) 

注釈:


1) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130904-00000073-jij-soci

2) イエスの処刑を全員一致で決めた判決は、当時の規定により無効であった筈といわれます。(サンへドリン規定)今回も、偏見、興奮、そして全員一致の打算の何れかによるので無効とすべきです。1995年に同じ民法の規定に対して合憲判決が出たのに、18年後の14人全員一致の違憲判決は不自然である。上記本文の理由に加えて、一人だけ反対すれば、目立ってしまう;全員一致なら自分だけの責任ではない;などの理由も考えられる。何れも最高裁判事には相応しくない理由である。

3)子供を差別するのは可哀想である。しかし、それで社会の骨組みが緩んでくるとしたら、そのような子供を少なくすることが完全ではないが最善の対策なのだ。全ての判断には2つの面がある。一面しか見ていないのでなければ全員一致なんてあり得ない。つまり、最高裁は真面目に審議をやって居ないのだ。

4) 一票の格差が1.1倍でも、可能な限り選挙区の区割りなどを考えて解消しなければならない。それが民主主義の原点である。そんなことも解らん連中が、最高裁判事になっているのが日本国の現状である。「完全に1.0にすると、田舎地区を代表するものの考えが国政に反映しない」という論理はインチキ論理である。街の者が、田園地区の必要性を考えなないで投票し、国政上マイナスになったとしても、それは選挙制度の責任でなく、選挙民の責任である。