昨日、岡山市の住宅街にイノシシが現れ大騒ぎになったという。パトカー17台、署員や市職員ら計約70人が捕獲に当たる一方、同署が付近の幼、保育園や小中学校計15校園に連絡し、巡回を強化したとのこと。(注1)また、取り押さえるまでに警察官2人が怪我をした。テレビ(とくダネ!)で放送されていたので、その場面をみたのだが、まるで、大きなスケールの鬼ごっこのように見えた。司会していた小倉さんのコメントは、「住宅街なので麻酔銃などが使えなかったのだろう」というものだった。
 このTV放送での場面や山陽新聞のインターネット・サイトを見て、イノシシ一匹に大騒ぎするこの国を、私は情けない国であると思った。包囲したあとチャンスを見て射殺すればおわりである。住宅街とはいえイノシシに噛まれて怪我をしても尚、警察官が拳銃を使えない国を他の国の人々はどう思うだろうか。また、このような下らない話題をテレビのトップニュースや新聞で報道する国をどう思うだろうか?
 最近、林業や山間地での農業を生業とする人が減少し、イノシシやニホンザルは人に対する警戒心をなくし、時々住宅街に出没している。その度毎に、このような大騒ぎが報道されている。イノシシやニホンザルに対する右往左往は大した問題ではない。多くの人はきっと、遠くない過去に凶悪犯を目の前にしながら、取り逃がした幾つかのケースを思い出しただろう。
 
注釈:
1)http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013110712555882/
 小泉元総理は原発ゼロを言いだし、自分の存在を誇示している。テレビニュースによれば、昨日も十分な知識を有しない大衆を相手に、原発ゼロをあたかも安倍政権の政策を批判するような調子で講演している。現政権の政策をまともに理解もしないで、自分の拡声器が大きいことを利用していい加減な発言を繰り返している様に見える。真に日本を原発を廃止してもやって行ける国にしたいのなら、先ず、自分がその道筋を論文にまとめて新聞社か出版社に持ち込んで、公表すべきである。知識を積み、政治家として十分質の高い形で意見を持った上で、一流の専門家を各分野から招いて、“原発ゼロシンポジウム”とでも名付けて議論する場を開いたらどうか。数年前に総理大臣を行なった人間なら、それ位のことをしてから自分の意見を表に出すのが、国民に対する礼儀ではないのか。
 以下にその他、小泉氏の姿勢に対する疑問点を挙げる。
第一に、誰も原発全廃に反対などしていない。全廃の時期の問題で議論しているだけである。
原発に頼らないで、この国の経済が回って行くのなら、そして、エネルギー源を自然エネルギーに転換できるのなら、反対するものは殆どいない。太陽光発電を1.0 kWh当り10円(天然ガスによる火力発電)で出来るのなら、全て太陽光発電にすれば良い。風力発電や潮流発電なども同様にコストを下げる方法が研究されているが、未だに35円を切っていない。円安誘導で漸く国際競争力を取り戻しつつ在る国内製造業者は、電力料金の上昇によるコスト増大で再び競争力を失う。日本は貿易で利鞘を重ねなければ生きて行けないことが解らないのか?
第二に、聖域なき行政改革はその後どうなった?まだ政治に関与したいというのなら、自分が言いだしたことをやり遂げてからにしたらどうか。途中で投げ出すくせに、偉そうなことを言うなといいたい。
第三に、原発燃料の廃棄物の処理は、小泉氏が宣伝する程、困難でないかもしれない。また、核燃料廃棄物の問題は、原発全廃してもしなくても存在することを問題視していない。深く地中に保存することは、現在の技術だけでも可能だろう。放射性物質というだけで恐怖を抱くのは非科学的態度である。(注1)また、希釈した燃料廃棄物をガラス状に固めたものを海溝に放棄する方法も大前研一氏が提案している。海溝でプレートとともに地中深く潜ってしまえば、放射能が無くなるまでは少なくとも地表に出てこない。

注釈: 1)100兆ベクレルのガンマ線放射物質でも1メートル程度の厚さのコンクリートで取り囲めば、漏れてこない。アルファ線やβ線はアルミフォイルでとまる。紫外線をたっぷり浴びた顔をしながら、放射線を魑魅魍魎のように恐れるのは滑稽である。

 今年の一月、大阪の桜ヶ丘高校バスケット部での体罰について、本ブログでも書いた。その中で、日本の文化として教育者と披教育者の間でのビンタ程度の体罰が、1)当事者間に了解(暗黙の了解も含む)があり、従って、2)その場で私憤が無ければ、許容されていると書いた。


 本日中部地方で放送された“激論コロシアム”というTV放送で、体罰の問題が議論されていた。しかし、なかなか要領を得ない議論に終わり、結論を得なかった。その中で、”体罰は悪というには、体罰と善悪の定義が必要だ”という言葉が戸塚ヨットスクールの校長からあったが、その中身についての議論がなかった。その点について、少しここで書く。


 もっと解りやすい譬え話を用いると:病院で外科医が手術台に患者を縛り付け、ナイフで開腹することは、暴行や障害にはあたらない。それは、病院において医者と患者という当事者間で、それらは病気を治す目的で行なう行為であるという同意があったからである。(注1)従って、了解の範囲にない手術で患者が不利益を被った場合は、業務上過失が問われる場合もある。

 

ここで、“病気の治療”を“教育或は矯正”に置き換えれば、学校での体罰事件を考える上にヒントになると思う。例えば、戸塚ヨットスクールで、30年以上も前に体罰事件が立件されたのは、そこが学校と病院の中間に位置するからであると思う。しかし、戸塚ヨットスクールは今も存在し、病気とは言えないまでも”病的”と父母により判断された生徒が、更生のために在籍していることが、社会的に一定の機能を果たしていることを証明している。

 

戸塚校長により体罰を無くすることで、更生までの期間が延び、経費的にも親の負担が増加することになったという。これらを考えあわせると、上記病院の譬え話が学校での体罰のあり方を考える良いヒントになると思う。


以上から、体罰を暴力とは異なるところに、”教育”及び”先生と生徒という上下関係”を用いて定義出来ると思う。つまり、生徒は一人前ではなく、潜在的に持つ全ての人権を主張出来る存在ではないと考える。親権者と教育者(機関)との同意に基づいて、生徒にたいする先生による一定の範囲での物理的罰(体罰)が許容される。

 

私憤は、一時的に生徒と先生の関係を破壊するものであるから、それに基づく物理的力は暴力と看做される。この様に定義すれば、大阪桜ヶ丘高校で起こった悲劇をどのように処理するか、そして避けるべきかについて考察することが容易になる。つまり、40発にも及ぶ平手打ちは、一定の範囲を超えるので、私憤に因ると判断され暴行として処罰する。

 

また、教育者と披教育者という“当事者間の関係”を事前に解消すること(桜ヶ丘高校のケースではバスケット部からの退部)を、学校の他の職員(上司)や両親が仲介すべきだったと言うことになる。


尚、教育基本法では体罰を禁止している。従って、上記は理想論かもしれない。荒れる教室で授業が体を為さないとしても、教育者の責任ではなく立法府の責任ということになる。そして教育熱心な先生も、行政からお叱りを受けるので、怠けた方が利口である。社会的トラブルの責任は最終的には政治にあるということになる。(11/2投稿、11/3; 11/4改訂)

注釈:
1)手術前に書面で同意を明確にすることが多くなった。