先ず、今回の後藤さん達日本人2名の惨殺を、そしてそれを行なったイスラム国(注1)を、日本国民の1人として強く非難する。更に、二人の日本人を救う為の努力を十分せず(注2)に、徒にイスラム国を刺激し、結果として二人の命が奪われたこと、更に、今後海外で活躍する多くの日本人を不安にしてしまったことに関して、安倍政権に抗議する。(注3) 
 
以下の文章は、テロリズムを一般的に考えたものであり、今回の件を論じたものではない。 
 
以下の文章では、テロリズムの定義としてウイキペディアのものを用いる。つまり、テロリズム(英: terrorism)とは、ウイキペディアによると、何らかの政治的目的のために、暴力や暴力による脅威に訴える傾向や、その行為のこと。また恐怖政治のこと。フランス革命での恐怖政治に由来し、フランス語のterreurはラテン語のterreōから派生した語で「恐怖」を意味するという。 歴史に拘らなければ、英語のterror(恐怖)にism(主義とかやり方を意味する)をつけたものとも言えるだろう。
 
注意を要することは、我々一般国民は、テロリズムという言葉を、凄惨な場面とともに聞かされているため、テロリズム=邪悪という等式(厳密には、テロリズム∈邪悪、つまりテロは邪悪の一つ)とともに理解するように調教されていることである。(注4)更に、為政者によってこの言葉がヒステリックに使われる場合、その政治的目的に関する一般国民の間(そして為政者となった者以外の国民に選ばれた議員達の間)での議論を、封殺する目的が潜んでいる可能性があるということである。
 
ある政治的な暴力行為(つまりテロ)があったとして、その評価を行なう場合には、その政治的目的も同時に論じなければならない。しかし、その議論に入ると、その行為を非難する側に何らかの不都合が生じる場合もあるかもしれない。その場合、議論を避けながら、その行為を行なうものを排除すること(これも政治的行為)を容易にする為、屡々テロリズムという言葉が強い言圧で用いられる様に思う。
 
歴史をすこし遡って考えてみる。例えば、凄惨な場面の行為者として、比叡山を焼き討ちした織田信長や、邪魔者である豊臣秀頼らを三条河原で晒し首にするという手法でその他の反抗勢力を封じて、江戸幕府を開いた徳川家康が居る。しかし、二人をテロリストと呼ばないし、その手法にテロリズムのラベルを貼る人はいない(注5)。この例は差し障りがないので選んだが、もっと近い時代に、強国が弱小国の国民に対して、或いは為政者が自国の国民に対して、暴力や暴力に因る脅威に訴えて、政治的目的を達した場合が数多く存在する。しかしそれらはテロとは呼ばれていない。それは、勝者であり歴史を書く側だからである。つまり、勝者にテロリストは居ないのである。そして、歴史の再評価により敗者になったものは、後にテロリストとされる場合もある。例えば、旧ソ連のスターリンが行なった粛正がテロの例としてあげられている。(上記ウィキペディア)
 
以上から、テロと呼ばれる行為は大抵、力の弱い者が力の強いものに政治的に反抗する目的を持って行なわれる。一般市民を巻き込む暴力的行為は、行為者の強弱と無関係に許されるものではない。しかしその原因、つまり、(1)彼らの政治的目的、と(2)その目的が生じた経緯など、とについて十分考察することが、テロを防ぐことにもつながる。場合によっては、力の強いものに改良すべきことがあるかもしれない。そのテロを減らす為の努力をしないで、一方的にテロリズム=邪悪=排除すべきものという公式により、強者が力のままに振る舞うことは、テロに巻き込まれる一般市民の数を増加させ、消費される兵士と武器と予算が増加することになる。
 
一部の識者が指摘する重要な問題として、その武器と予算で得をする人間が、強者の近くに居る可能性があることである。つまり、強者(つまり強国の政府)は弱者が起こすテロの共犯者であるかもしれないのだ。
 
注釈:
1)諸国の承認を得ていないから国と呼べないと言う考え方がある。領土、領民、主権を持っていることが国家の定義だとすれば、彼らの主張が本当であれば国家と呼べないことも無い。議論があるが、ここでは便宜上、イスラム国と呼ぶ。
2)イスラム国に人脈をもつ、中田考氏(元同志社大客員教授)やフリーのジャーナリスト常岡浩介氏www.youtube.com/watch?v=rqnm8KzHh5Mを利用しようとしなかった。中田氏は要請があればイスラム国に出向く用意があると表明していた。
3)二人の日本人を救うための努力を十分しなかったにも拘らず、あの事件を利用して、積極的平和主義や邦人救助の名目で、自衛隊員の海外派遣を常態化する道を開こうとしている。
4)殺人などの行為は邪悪であるが、その邪悪は国境或いは法律を越えて成立しない場合もある。つまり、戦争で敵を殺すこと、法に従って死刑を執行することなどは、悪とは看做されない。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n233038
5)不特定多数の者を対象に暴力を働くことがテロリズムの定義ではないだろう。暴力や脅迫で政治目的を達成しようとする行為で、外交の延長上に位置する形での戦争以外のものである。
安倍晋三首相は2日の参議院予算委員会で、過激派組織「イスラム国」とみられるグループに日本人2人が殺害された事件について、「国民の命、安全を守るのは政府の責任。その最高責任者は私」と述べた。

その上で、自衛隊による在外邦人の救出を可能にする議論を進めていく考えを改めて示した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150202-00000024-reut-asia

今回の後藤さんのケースについて、その経緯に関する質問に答えないで、この様なことを云う無責任さに呆れる。後藤さんのケースでも家族に身代金要求があったことを外務省が把握しながら、そして、中東訪問の時期が適切でないとの意見もある中で、出かけていってわざわざイスラム国を刺激する様なことを行なった。

「国民の命、安全を守るのは政府の責任。その最高責任者は私」と述べるのなら、今回後藤さん救出のために、何を行い、どのような経緯でそれが実を結ばず、自衛隊の派遣がもし可能であったなら、何が新たに出来、後藤さんのケースではどう結果に影響したか? を中東出発前から説明すべきである。

それをすまさないで、自衛隊の海外派遣を言うのは、今回後藤さんが殺されたことを単に利用しているだけではないのか。


1)経済発展により、経済活動の主役が個人から法人に移った。個人は参政権を持つため、少なくとも政治的には主役の座に留まっている様に見える。しかし、経済的には法人に支配される様になったため、個人は住居を一定の場所に持つ自由を失う。勿論どこに住むかは法的には個人の自由であるが、法人は実質的に個人の住所決定権に経済的な理由で介入することになる。経済発展が進むと、法人は益々広い範囲で活動する様になり、最近では上場企業の殆どはその活動をグローバルに展開している。
 
ある特定の個人に注目した場合、大学選択の段階で両親の下を離れる。そして、就職の段階で場所を変える。転勤などで移動したのち、壮年期に最後の転勤で落ち着くことがおおいだろう。定年後はその最後の場所に住み続けることが多いのは、主として住宅の取得とその土地への馴染みが関係している。
 
ある大規模な団地に落ち着いたとして、その団地の町内会のメンバーには、地元の人が最も多いだろうが、半分以上は全国から集まっているだろう。勿論、勤務先の法人も異なり、経済的にも宗教的にも、人々の間には何の関係もないだろう。
 
その地で育った子供達も同様に、全国に散らばり、老年期に入ると夫婦は孤独な状態で取り残される。片方が死亡すれば、独居老人となる。その時には、経済的にも行政からの年金に頼る場合が多く、そして何かあった時には行政が出て行くしかない場合も多く、将に行政のお荷物になる。自分もそうなるのかと思うと、寒気がする。
 
2)ここで人間社会の成立過程を考える為に、大昔に戻る(1)。人間は数千年前までは狩猟生活を送っていたと言われる。2-3千年前に、人間が密に住む様になったのは、食料生産の方法として狩猟よりも遥かに効率が高くて安定している農業が始まったからである。この農耕社会が出来てから、共同作業という経済活動上の必要性が、田舎の地域共同体を創った。
 
農業の生産量が土地の広さで決るため、人口の増加で紛争が生じるようになる。そこで生き残るのは、大きな単位でまとまった集団であり、それらは疑似国家から国家という形態をとる様になる。そして、紛争が戦争と呼ばれるものとなる。生き残る為には団結と武器が必要であり、その団結の旗頭になったのが宗教であり、強力な武器の原料となったのが鉄であり、その後の火薬を使った銃である。
 
最近、1)で述べた団地での孤独な老後の問題を解決する為に、地域の人々の間に連携を取り戻そうという運動が、増えている。私の住む町でも、市長が地域協議会をつくることで、行政と地域との関係を密にし、そのプロセスで地域社会の人間関係をより密なものにしようと考えているらしい。しかし、それらは結局成功しないだろう。それは、昔の濃厚な人間関係は生き残る為の手段として発展したのであり、遺伝子の中に人間が本来持つ性質によるのではないからである。現在の団地では、昔の地域共同体に似た濃厚な人間関係などが形成されるポテンシャル(化学的ポテンシャル)はなく、従って出来る筈がないのだ。
 
3)そのような団地でも、地域社会的でない或る種の人間関係の構築がみられる。それは、宗教を介する人間関係である(注2)。ただ、宗教も定年過ぎてから準備もなしに入信し、その中に一定の場所を見出せるとしたら、その裏に経済的メカニズムがある可能性が大きい。或る種の宗教に入っていることが、狡い人間の出世のコツであるという現実は腹立たしい。そして、宗教のようなネットワーク的な関係は、そこから疎外される人を多くつくる。
 
今後、日本国が経済的に力を無くしていった場合、そのような任意的なネットワークからも漏れた孤独な、そして、経済的にも恵まれない人は、社会を不安定なものにするだろう。人は元々孤独であり、日本(東洋)では偉人といえども無常とか空とか当たり前のことしか言わないし、言ったとしても誰も救われない。
 
創世記には人は智慧の木の実を食ってエデンの園を追放されたと書かれている。つまり、智慧の木の実は、実は苦い味がするのだ。法然と親鸞の専修念仏は、色即是空の諦めと念仏とを同封して安心の境地に導くものだろう。それは、智慧の木の実を食べたことを忘れる様に暗示をかけることであり、ひとかじりだけの人は救われるかもしれない。しかし、智慧の木の実を半分以上食べてしまったヒトは、両上人の企みを見抜いてしまい、救われないだろう。
 
どうすれば良い?差し当たり、不必要な人の移動を無くする様、経済圏を一極集中から多極化すべきである。そして、人と土地との親和性を高め、自然人としての立場を部分的であれ回復する人も他の動植物と同様、土地から生まれその土地に帰る(注3)。その自然人としての重要な一部分を人間が回復するためにも、道州制が必要だといっているのである。経済的な悪影響を最小にするために、日本国を道州制つまりThe United States of Japanに改造することだと思う(注4)。中央集権的な制度は人間的でなく、歴史の中に送るべきである。ただ、中央集権は主として軍事的な意味が重要な時代のものであるから、軍事的な面だけは中央に残せば良い。
 
坂道を下りながら、そんなことを考えた。
 
注釈:
1)ジャレド・メイスン・ダイアモンド著、『銃・病原菌・鉄』
2)宗教は多くの場合過去の優れた思想家やリーダーの言葉を説く。そこには一定の重みがあり、たぶん、自己暗示が得意な人たちの間で共同体的意識を醸成するかもしれない。ただ、そこでの失敗は心理的重傷を伴う可能性があり危険かもしれない。
3)啄木の歌の「ふるさとの山に向かいて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな」が共感を産むのは、生まれたところの土に帰るという想いがあるからだろう。
4)橋下さんは、経済的な面での道州制の必要性を説いているのであり、この文章は単なる橋下支援のものではない。