日曜の夜放送されているNHKの看板番組「花燃ゆ」を見ている。視聴率が低く、内部でも“不穏な空気”が流れているという。

http://news.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&p=花燃ゆ+視聴率&ei=UTF-8

評価の高い作品を原作としておれば、一定の視聴率が予想できるが、このドラマの脚本はオリジナルであり、始まってみなければ人気がわからないのは当然だろう。
 
面白くない理由は分らないでも無い。それは、松下村塾を作った秀才吉田松陰とそこに集まる秀才達が結論として出した「攘夷」とそれに至った彼らの思考の経緯が全く描かれていないのである。日本に外国の軍艦が多数来たこと、清国が英国の植民地となったこと、の二つの事実から、どうして攘夷が出てくるのだろうか? 現在の我々にも当時の攘夷を叫ぶ緊迫感が伝わる様に、話を作ってもらわねば人気が出ないのは当然だろう。
 
異国の軍艦に囲まれたことで国の将来が危うくなって来たとき、どうして“異国討つべし”なのか?異国と交易を開始すれば、何故、日本が植民地化するのか? 「清国が植民地化されたのは何故なのか?」に答えを見つけていたのか?彼らの思考の経緯が、さっぱり分らないのである。
 
植民地化を防ぐためには、国を富まし武装を強化することであるが、それは攘夷とは異なる。攘夷は、現在の自国なら異国と戦争して勝てる可能性があるという場合には、一つの選択肢ではある。しかし、軍艦やそれに搭載された大砲を見て、日本が軍事的に劣っていることが分っていた筈である。実際、薩摩も長州もそれらの国とその後戦って大敗している。それでも尚攘夷を叫ぶ長州の秀才達は、どういう議論を行なったのか?そこに一定の回答を与えなければ、この連続番組が歴史ドラマとして成立し得ないのではないか。
 
異国と互角の地位を確立するには、中央集権的な国民国家の建設を行い、富国強兵を実現することが必要だった。そしてその為には、尊王&倒幕は必要だっただろう。しかし、その前段階は攘夷ではない筈である。攘夷=>尊王攘夷=>倒幕の流れは、十分な説明がなければ判りにくい。攘夷派は、最初から“隠れ倒幕派”だったのかもしれない。その当たりのことは最低限、ドラマの底流になければならないと思う。
小学校の校庭から蹴り出されたサッカーボールが原因で交通事故が起きた、2004年の愛媛県今治市での事故に関して、ボールを蹴った小学生(当時)の両親に賠償責任はないという判決が、9日、最高裁第一小法廷(山浦善樹裁判長)で出された。理由であるが、「日常的な行為のなかで起きた、予想できない事故について、当事者の子供の親にその賠償責任はない」とのことである。

事故は小学校脇の道路で起きた。バイクに乗った80代の男性がボールをよけようとして転倒し、足を骨折。その後認知症の症状が出て、約1年半後に肺炎で死亡した。遺族が2007年、約5000万円の損害賠償を求めて提訴。二審は、ボールを蹴った当時小学生だった男性の過失を認め、「子どもを指導する義務があった」として両親に計約1100万円の賠償を命じたが、両親が上告していた。

この裁判の判決は、方々で司法の方針転換の様に報道されているが、新聞記事などを読むと(中日新聞4/10朝刊一面)、非常に微妙な問題であることが判る。この件、「子供の起こした事故の責任を、親が負うかどうかという問題で、最高裁は親に責任は無いという判断を示した」という様にとられかねない報道もあったが、それは誤解である。論点はその小学生に「原因となった行為について、事故に至る危険性の予測ができたかどうか?」である(注1)。第一審も二審も、子供に危険性の予測ができたからという理由で、民法の規定により親に賠償責任が負わされる判決が出された。最高裁の判断は、「子供に危険性の予測は困難だったので、親にも賠償責任は生じない」であった。つまり、本質的には、下級審とは事実認識に差があったと言うだけである。

子供がフリーキックの練習をしており(中日新聞紙上の事故のイメージ図)、ゴールの向こうは一般道であるから、ボールが一般道に出て交通の障害になることは十分考えられる。従ってサッカーゴールは、小学生の日常的なサッカー練習に於けるゴールへの蹴りでは、ボールが一般道にでない様に設置されている筈であるし、学校はボールを一般道に蹴り出さない様にと指導していた筈である。この点に疑いがあれば、それは校庭管理者である学校の責任が問われることになる。更に、子供のキック力が通常のこどもよりも格段に大きかった様な場合、つまり、その小学生が一般のサッカースクールなどで訓練をしていた様な場合、校庭で練習をする場合に特別の注意が必要だったと言うことになる。その場合、その子供には特別の注意がされるべきであるし、もしそれがなかったのなら、両親などに責任の一端があると考えられる。

以上二つのケースのどれにもあたらない偶発的な事故であると、最高裁は判断したのである。

注釈:
1)危険性が予測出来たのなら、子供に過失があったことになり、子供の親が事故の賠償責任を負うことになる。

CBCテレビのサンデーモーニングを見た。そこで、沖縄返還交渉での密約についての話がでていた。その際に交わされた密約を、外務省女性事務官からの取材で得た毎日新聞の西山太吉記者が、社会党国会議員に漏洩した事件である。その件、女性事務官と西山記者が、国家公務員法違反で有罪になった。 

この事件であるが、西山が情報目当てに既婚の外務省事務官に近づき酒を飲ませ泥酔させた上で性交渉を結び、その事実を武器にして密約の存在を入手したという。当時、その取材手法が西山記者有罪の根拠となり、市井の非難があつまった。しかし、密約の存在そのものについての審理は行なわれなかったという。この密約の存在を明らかにしたのが、当時外務省官僚で先日なくなった吉野文六氏(返還調印の年、1971年にアメリカ局長であったらしい)である。 

取材に応じた孫崎亨氏は、このような密約は他にもたくさんあると語っていた。また、パネラー諸氏は、このような密約に関する資料も後世に残し、一定期間後に歴史資料として公開すべきであること、更に、今後は特定保護法の存在で取材が一層困難になるという意見で一致していた。暗闇の中に日本国が入り込むことを危惧しているような雰囲気だった。また、ゲストの田中秀征氏は、「米国では一定期間後には外交資料も完全に公開しており、民主主義のレベルが日本とは異なる」とコメントしていた。 

ただ、この密約の評価については、未だに聞いたことが無い。この密約が、沖縄が日本に返還されるにあたって、決定的役割を果たした筈である。この種の密約とそれを用いて沖縄返還を実現した佐藤内閣の外交、それを違法な手段で得て野党議員に漏洩した記者の行いの評価は、沖縄返還という成果(プラスの成果)及びそれらのプロセスが今後の日本の政治形態に及ぼす影響(マイナスの成果)などを、総合して判断しなければならない。それは、西山記者の司法の判断とは別の話である。 

一般市民には、“民主主義政治において、密約を用いて政治的解決をするのはおかしい。或いは、密約は明らかにされるべきである。”という原理主義的な姿勢が分り易い。今回のサンデーモーニングでも、論理的に明確な発言は全てその原理主義の立場でなされていた。田中秀征氏の米国の民主主義を日本とはレベルの違うものと持ち上げる発言も、結局は上記原理主義をより正しい方向とする趣旨でなされている。 

私は、もう少し現実的視点に立つべきだと思う。隣国の政治やその隣国(つまり日本など)との外交など、つまり日本の外交環境は、嘘と密約で満ちていると思う。そのなかで、日本政府だけを密約を用いたことや、情報公開を行なわなかったことで攻撃するのは間違っているかもしれないのだ。田中氏が高いレベルの民主主義の国であると評価することに異論は無いが、それは、米国の世界一と言える情報収集能力や軍事的能力、それに裏打ちされた政治能力があるから出来ることなのではないか。つまり、米国の情報公開は世界一の軍事的政治的能力の結果であり、高度な民主主義文化だけがそれを可能にしているのではないと思う。

由らしむべし知らしむべからず(よらしむべししらしむべからず)という言葉がある様に、損をしないで成果を出すことが政治家として大切なことかと思う。政治で大切なのは、“国民を飢えさせないことと、国民の自由と命を大切にすること”であり(注1)、情報公開はそれよりも低位にあることだと思う。一般国民に評価できないことで、しかも重要な交渉の積み重ねをぶちこわすような秘密漏洩は、罰せられて当然である。ただし、ルールとして一定期間後に全て公開することは無理だろうが、非公開資料も全て保存することが大事だと思う。 


注釈:
1)番組の中で、式典かなにかで沖縄を訪問した俳優の菅原文太氏が、「政治で大事なことは、1。国民を飢えさせないこと;2。戦争を絶対しないこと、の二つである」と発言したことが紹介されていた。その一部変更したものである。