北野幸伯著のクレムリン・メソッドは、非常に判り易く国際政治の基本的なことを教えてくれる。その点については、別に書いた
 
ここでは、一読して得た智慧のエッセンスを書く。つまり、最も大切なポイントは、国際政治は善悪や正邪を争う場でないということである。日本のテレビで放送されている政治討論などの番組では、常にどちらが正しいか、どちらが悪か善かという話になる。しかし、その議論を繰り返しても、日本の国際的立場が良くなることはないだろう。
 
また、国際政治の場面において多くの国は、先ず戦略を立てて、それに沿って情報を集め、場合によってはその解釈を都合良く行なうことで、外交を有利に進めようとする。この方法は、現在日本の方法とは順序が逆のように思える。つまり、日本では先ず歴史的事実や現在得られる情報などを集める。次に、それらを基礎にして、世界の中での日本の行動を考えるのではないだろうか。
 
以上、二つの原理を理解しないことには、外交戦に負けることは必定ではないだろうか。つまり、尖閣諸島は中国固有の領土であると主張する中国に対して、歴史的事実をあげて、反論するしか、方法が浮かばないのだ。また、慰安婦問題でも、歴史を掘り返して、強制連行の事実はないという主張しか、対抗手段として浮かばないのである。
 
しかし、中国や韓国が持つ対日本戦略を想定することを最初に行い、その戦略から出たプロパガンダが慰安婦像の建設などであると理解した場合、歴史を掘り返すだけでなく、別の戦術を思い付く筈である。
以上が、クレムリン・メソッドを一読して得た中心的な智慧である。著者があとがきに勧めている様に、今後何度か読むことになりそうである。
1)先日横浜で簡易宿泊所の火事があり、思わぬことが明らかになった。それは、これらの簡易宿泊所の住人の多くは老人であり、生活保護を受けているということである。テレビ報道の中で、危機一髪逃げ出した老人にマイクを向ける場面があった。その老人は、「息子と娘がいるが、迷惑をかけたくないので、ここに居る」と話していたのである。私はこの発言に違和感をもった。
 
子供たちもそれほど裕福ではないのだろう。しかし、三畳くらいの簡易宿泊所の部屋で、定期的に支給される生活保護費で毎日を過ごすこの親と、その子供達の関係を考え、日本の家族は壊滅状態にあるのではないかと思った。これは問題の本質を考える前に出した結論である。 
 
2)昨日買物にスーパーに出かけて、女房が食料を買う間本屋に立ち寄った。そこには、下重暁子氏(元NHKアナウンサー)の書いた、「家族という病」と言う本が特設コーナーに並んでいた。私は即座に、病は日本の家族ではなく、下重女史の頭ではないかと思った。家に帰って、ネット販売のサイト(アマゾン)でこの本がベストセラー(週刊一位)になっていることを発見した。そして、我が日本国では、家族が鬱陶しくなる病に罹っている人がかなり多いと悟り(注1)、同時に上記老人の話が理解できた。その老人は自分の子供がその病気に罹患していることを恐れたのである。つまり、その子供の世話になることにより親子の関係が完全に破壊され、自分の心の中の子供の像を破壊してしまう恐怖を抱いたのである。 
 
3)人は、どのような努力をしても、どのような成果をあげても、必ず死ぬ存在である。その際、この世界に何らかの足跡を残したという実感を持たない場合、その寂しさは恐怖と言って良い位なのだろう。その足跡として、子供以上に確かなものはないのかもしれない。何故なら、子孫は永遠に続く可能性があるからである。つまり、上記老人も自分を親として認めてくれる子供が、日本の或いは世界のどこかにいてくれる限り、現在から死ぬ瞬間まで、自分の心の中を一定の豊かさに保つことが出来るのである。 
 
日本に住む限り、日本の中の”空気”を知っている。その空気には、”家族を拒否する病”の臭いが存在していることを、その老人も感じているのだろう。もし、子供に自分の窮状を告げれば、最初は何とかしようと努力するだろう。しかし、遠からずして努力の限界が近づくと、老いた自分を鬱陶しく思う様になり、子供に「親を捨てる」決断をさせるかもしれない(注2)。そうなってしまえば、文字通り“元も子もない”。 
 
今受けている、“生活保護と三畳一間の豊かさ”を、子供を頼りに倍にしようと考えて、窮状を子供に告げることは危険な賭けなのだ。つまり、子供が”家族を拒否する病”に罹患していた場合、これまで大切にして来た、自分を父親として受け入れてくれている心の中の子供の像を破壊してしまう可能性があるのだ。
 
4)日本は一般に豊かな国である。生活保護費を貰うという最底辺状況であっても尚、簡易宿泊所であれ、独立した部屋の中で眠ることが出来、食料も何とか手に入る。日本では、それ以下の生活を送る人々を見ることが(でき)ない国なのである。その一定以上の豊かさしか目にしないことが、人と人の結合を弱いものにするのだろう(注3)。  
 
親子という関係や家族という関係は、全ての哺乳類の 遺伝子の中に、生き残ることと子孫を残す為に存在する筈である。そして、その目的がその個体において達成された時、幻のごとく消え去る様にプログラムされているのだろう(注4)。
人の場合、家族という関係は一生続く。しかし、子供が独立した時には、“家族という関係”は言わば残滓であり、社会的関係として残っているだけだと思う。つまり、それは人間の築いた文化としてであり、生物としてプログラムされたものではない。 
 
その残滓としての家族という関係も、豊かな日本では他の多くの社会的関係(注5)と同様に、消え去ろうとしているのだろう。 ”家族という病”はその本来”消え去った家族という関係”を、取り戻そうとすることだと思う。つまり、精神的肉体的に独立期に達した子供の、親に対する反発と、(その時点では残滓或いは幻でしかない)家族という関係に執着する親との”摩擦”なのだろう。 
 
5)人間は自分という意識を持つ唯一の動物である(注6)。自分という意識は、全体から個として切り離されることの自覚を意味する。また、自分という意識がなければ、考えることも智慧を持つことも出来ない(注7)。人は、智慧をもって生まれ、自分の死を知る唯一の動物である。そして、自分の生の意味、つまり、永遠の価値を、自分の一生の中に探す(注8)。しかし、人の一生の意味も動物のそれと本質的に同じであり、遺伝子にプログラムされているのは、子供を産み育てることのみだろう。そのような運命にある人間は、子孫を産み育てる段階は上り坂であり何の疑問も持たないが、それ以降は下り坂であり、前途に道が無くなったような感覚を持つと思う。そこで、上に書いたように、人は家族という関係をしっかり残して、子孫の中に自分を残すという欲求を持つのだろう。
 
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私(このブログの筆者)は、下重暁子氏の本「家族という病」を読んでいませんので、本文章はその本の内容と直接関係ありません。
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注釈: 
1)アマゾンには、読後(使用後)のコメントも他の商品同様に掲載されている。そこには、酷評が多いのだが、4点や5点(5点満点)を付けているのもあった。そのトップに紹介されていた長文のコメントの最後に「親の犠牲になるべきかどうか、選択を迫られている人にはおすすめです」ということばで締めくくられていた。  
2)”家族という病”を主張する病に罹患した人の症状は、その限界のレベルが非常に低いことである。 
3)豊かさをエネルギーと考えれば、基本粒子である分子の世界まで、この法則は成り立つ。例えば、水分子はお互いに強く手をつなぐ性質をもっていて、0°Cまで互いの位置まで変化せず固まって存在する。つまり氷である。0°Cで液体となり、100度でバラバラになって空中を浮遊する。また、井上陽水の”人生が二度あれば”という歌がある。貧しい状況下一生懸命に自分を育ててくれ、そして年老いた親に対する感謝が唱われている。親孝行(=家族の絆)と貧しさは、対で存在するのだ。
4)哺乳類では、成長した子供に食物を与えず、親が独り立ちを促して追い払う行動をとる種が多い。それを、道徳との関連で考えるのは間違いで、家族の絆が消失した結果だと思う。
5)他の社会的関係も原始的なもの、例えば地域共同体の中での協力体制などは、生活を豊かにする為に発生したと思う。地域で協力する為の社会的関係は、豊かになれば消え去る。各種組織の消失は、社会科学分野でもエントロピー増大の法則との関連で理解されている。 
6)猫は鏡の中の自分の像を理解できない。自分の像を理解できるのは霊長類とイルカやクジラだと言われている。チンパンジーやイルカが死をしっているかは疑問である。死を知らないものに、Life(生命、人生)の空しさはないだろう。 
7)我の自覚がなければ、考えることは出来ない。「我考える(想うは訳としておかしい)故に我在り」は、「我在るが故に、我考える」でもある。 
8)智慧を持つことは旧約聖書の中の記述がいつも気になる。「禁止されていたにも拘らず、智慧の木から実を採って食べたアダムとイブは、自分が裸であることを知り、イチジクの葉で局部を覆う。それによりエデンの園から放逐され、子孫である人間は死する存在となった。」勿論他の動物も個体としては死ぬが、それを意識する智慧はない。従って、人以外の動物は自分の生命に空しいという気持ちを(自分の気持ちそのものも)持たないだろう。 
 
 
大阪都構想は昨日の投票により否決された。大阪自民党府議連や共産党らの議員達は、議席を失うことによる私的な損害を防ぐため、市民府民の不利益が予想されるように理屈をつけて、必死に反対運動をしたのだろう。太田知事時代の放漫財政など、橋下氏以前の府や市の状態を考えて投票しろと言っても、一般市民府民のレベルでは無理である。

民主主義など何らかの“裏打ち構造”(注1)がなければ、衆愚政治に終わるというのは、既にギリシャ時代に証明されたことである。共産党と自民党が共闘する理由は何なのか?それは現在の議席確保以外に無いのである。それすら一般市民には理解できないのだから、救い様が無い。

大阪は再び、財政再建団体に向けて走り出すだろう。自民党と共産党が共闘するような議員連中に、まともな政治など出来る筈がない。昨年の野々村兵庫県議の涙の会見で、彼は感情の支配に負けて、県会議員という議席を失うことが最重要な問題であることを白状している。それは現在の地方自治体議会議員のレベルを証明している。

現在の形での地方自治体議会は、住民の多額の税金を投入して運営する価値などないのは、前回の統一地方選の低い投票率や多くの無投票当選が出たことで証明されている。それは、中央集権的に地方自治もかんがえるという現在の日本の政治体制の結果である。つまり、地方自治体など知事と行政職員が居れば、議会など不要なのだ。投票などに行っても、地方政治が変わることがないことを、10年もその中に生きていれば肌感覚的に判る。それは、最近テレビの政治番組で石破氏が出れば、私は自動的にテレビを切る原因でもある。

地方が必死に生き残る道を探すような、あの幕末の時の各藩のような、地方政治が現在の日本にも必要である。つまり、日本全体を見る視点も大事だが、地方の視点を持つことも日本国全体には同様に大事であるということである。それには、地方の知事や議会議員の出来不出来が、直接地方の人たちの生活に影響するようにすべきである。

地方創生は、地方のことは地方に任せることで初めて可能になる。それは、地方が中央から自立することを意味するのだが、それは同時に、中央が地方から自立することも意味している。現在は、それとは逆に地方は完全に中央に依存し、その地方が選出する形で中央の議会や内閣を作っている。そして、山口県の第4区の民意で、日本国は総理大臣を選んでいるのだ(注2)。

国会議員を選ぶ現行選挙のあり方は、点での依存であっても、中央が地方に強く依存するメカニズムである。そして、その中央の地方依存のメカニズムがあるが故に、地方も中央に強く依存し、その結果として地方創生を中央で考えるのである。その点を改革する第一歩が大阪都構想であり、それに続く道州制の導入構想である。今回の橋下氏敗戦で、道州制は大きな歴史的出来事が無い限り成立しないことが明らかになった。

最近、「明治維新という過ち」という本(原田伊織著、毎日ワンズ2015)を読んだ。そこには、薩長の下級武士達がテロリズムで江戸幕府を転覆させた経緯が細かく書かれていた。著者は、薩摩や長州の下級武士たちの数々のテロ行為を無駄且つ有害な行為として糾弾している。そして、もし彼らの企みとその後の所謂明治維新がなければ、大陸侵略へと進んで日本国を破滅に導いた、昭和の政治まで変わっていただろうと書いている(注3)。

歴史にIFはあり得ないのだがという前置きに続く、上記薩長下級武士の行為を攻撃する文章は、やはりおかしい。何故なら、将に、歴史にIFなどないからだ。そしてその証拠に、上記著書には日本国が列強の植民地になったという可能性には触れていない。薩長下級武士の熱意とその結果としてのテロがなければ、藩として薩長が倒幕に動くことはなかっただろう。それは大政奉還の直後の小御所会議において、山内容堂や松平春嶽が徳川慶喜を会議に呼ぶべきだと主張したことで判る(注4)。

つまり、“歴史に何故革命が必要だったか?”という問いに対する回答を、小さい規模ながら、今回の橋下氏の”平成維新の失敗”が与えていると思う。勿論、もっと大きなレベルで明治維新の成功が教えているのだが、成功だけに判り難い。何故なら、成功は一般には教訓にならないからである。

注釈:
1)細胞膜を裏側から支える蛋白質を裏打ち蛋白と言う。生体膜の主なる構造がリピッド二重膜だといっても、それだけでは細胞の形が維持出来ない。民主主義が脂質二重膜で、裏打ち蛋白にあたるのが、民の意見を誘導するための諸団体である。 
2)この論理に反対の人は多いだろう。その方々には、“万が一山口4区で安倍さんが落選していたら、どのようにして彼を総理大臣に選ぶ方法が日本国民にあったか?”と問いたい。 
3)詳細は、別途感想文に書く予定。
4)大政奉還した徳川慶喜を会議に呼んで辞官納地をさせることは、彼ら大名には出来なかっただろう。徳川300年の後、公武合体による統一国家(国民国家)が出来ると考えるのは、知性欠如というよりもっと重症の感覚欠如である。