和歌山県串本沖の海岸で125年前、トルコ軍艦エルトゥールル号が遭難した。その時、地元の人の献身的な救助活動により69名が救助された。昨日のNHKニュースによればその記念式典が行なわれたトルコ議会の会場には、串本にある記念碑の写真を挟んで、トルコと日本の国旗が大きく掲げられた。周知の様に、その後の日本とトルコの友好関係が、30年前のイラン・イラク戦争の最中に、トルコ航空機がイランに取り残された日本人200人余の命を救うことにもつながった。
 
また、テレビは、事故の現場である串本の記念碑の前で、一人のトルコ人が祈りを捧げる場面を写していた。インタビューされたその人は、日本に対する感謝の気持ちを「トルコ人は忘れない」と言う言葉とともに、世代を越え現在形で話していた。
 
この場面を見て、第二次大戦前後の日本軍の東アジアでの行為に関する、我々現代に生きる日本人の対応について、再び考え込んでしまった。つまり、記念式典などがあれば、少なくとも総理大臣や政府要人は、現在形で過去の日本の行為について、謝罪の言葉があって然るべきなのだろう。
 
幸せな気持ちで何か想い出す時に、感謝の言葉を口にするのは容易である。何故なら、その言葉は相手に通じ易く、一部は反射するように還ってきて、更に自分を幸せな気分にしてくれるからである。それに比べて、不幸な出来事に対する謝罪や悔恨の言葉を口にするのは困難なことである。その辛さの一部もやはり相手側から反射して、その言葉を口にする人の気持ちを更に暗くする。
 
その“しんどい”仕事を、やはり日本の代表である総理大臣は、しなければならないのだろう。
 
もちろん、過去の戦争が日本の正義の戦いだと思うのなら、その必要はない。しかし、あの戦争の始まりは、日本の満州侵略とそこからの中国大陸への侵攻であったことに異論はないだろう。リットン調査団の報告を受けて行なわれた国際連盟の決議を不服として、松岡洋右が国連を脱退した時から、日本国の命運はまるで坂道を転げ落ちるように敗戦へと向かった。殆どの日本国民は、正義の戦いとは思っていない筈である。もちろん、日本国の危険性を最小にすることを目的にした行為だと当事者は主張したが、それは大陸の人たちの不幸が著しく増加させることを無視したものであった。その行為は、日本を含めて東アジア全域の人にとって、危険性を著しく増加させる不幸な結果に終わった。
 
ところで、その背後について最近考えている。つまり、身勝手な皇国史観を抱き込んだ尊王攘夷思想の延長に過去のアジア侵略があったのではないだろうか。「随分離れていて関係ないのでは?」という人には、「明治元年から満州事変まで、わずか63年であり、敗戦から今年2015年までの戦後70年よりも、かなり時間的に短い」と答えたい。

明治からの3/4世紀は、江戸時代の安定した日本の姿(幕末維新、井上勝生著、岩波)からは考えられない。その過激な日本は、明治の混乱の際に幕末の下級武士や下級公家らの活動などにより、日本に導入されたという意見がある(明治維新という過ち、原田伊織著、毎日ワンズ)。あの戦争は、その人たち”維新の志士”から引き継いだ考えを持つ、昭和の軍人と政治家たち(薩長)の過ちの結果であるというのである。東アジアの国への謝罪の言葉は、同時に日本の近代史を総括すれば、自然に口から出てくるのだろう。

長州出身の安倍さんには、そのことを考えて欲しい。


弁証法的手法は、ある問題についての客観的判断を求める際に便利である。弁証法といってもここでは対話法と言い換えても良い位の意味で用いている。つまり、裁判の弁護側と検察側の様に、夫々の立場を代表する役割を二つのグループに与えて、その立場を主張させ、為政者を選ぶ国民や選ばれた為政者が、裁判官的視点でその議論からその問題についての判断材料を得るのである。 

つまり、例えば有識者会議を組織する場合、有識者に自分の学説や主張は別にして、二つの立場のどちらかになってもらう。尖閣諸島問題では、「領有権を中国が主張しているが、それに対して日本はどのような対応をとるべきか?」という政治課題がある。それについて日本で聞くのは殆ど、「尖閣諸島は日本固有の領土であり、中国の主張は全く根拠に欠けるものである」である。しかし、論客に自己の主張は一旦棚上げにして、双方の立場で議論してもらうと、もっと客観的な考察が可能かもしれない。(注1) 

現在の様な世論で定着しては、それは誘導された世論かもしれないという不安が残る上に、今後の日中両国関係として、両政府間の対立と双方の国民感情の悪化しかないという方向以外に出てこない。(注2)それで良い筈が無いと思う。 

過去の日本の歴史を見ても判るが、日本は一丸となって勝つか負けるかのどちらかであり、負ければ悲惨な数十年があり、勝てばそれが対日国際感情の悪化と将来の敗戦の準備となる。ここで、政府、マスコミ、知識人すべてが、双方に役割を割り振った形での対話を進めて、複眼思考が出来る国にした方が良いと思う。<br><br>

前回の時事放談については既に前回ブログに書いたが、そこで藤井氏が屡々言ったのは、「あなたは判っている人だから、あなたと(議論を)やるのは嫌なんだが」という言葉である。日本人は、前にも書いたが、議論と討論と口論と喧嘩の区別がなかなか難しい言語環境にある。元大蔵官僚の藤井氏ですら、議論すべき最高の相手である筈の高村氏と、議論は嫌だと本音が出てしまう。 

米国(西欧)では、サンデル教授の熱血講義を聞いた人は判っただろうが、議論はむしろ楽しむものである。何故なら、より高い理解に双方が辿り着くからである。一度、そのような議論を有識者でやってもらいたいものだ。中国の利益を代表する側の人も、そのような役割だから、右翼に狙われる危険性はない。 

南沙諸島の問題でも、日本が戦時中占領しており、終戦後台湾の領有になったという経緯があると、何処かで読んだ。もしそうなら、台湾の領有権主張にはある程度根拠があり、台湾が中国の一部であるのなら、中国の主張にも微小かもしれないが、ある程度の根拠があるかもしれない。その件も、上記のような有識者会議を組織すれば、新しい理解が産まれるかもしれない。 

注釈:
1)イスラエルかどこかで、全く反対の命題を二つ与えて、「それらの命題が夫々正しいと主張するよう、論理展開せよ」という試験問題があったという記事を読んだ。
2)共産党や社民党が居るではないかという意見があるだろう。しかし、かれらはアンチテーゼになり得ない。単に国会に於いて自分の議席を維持するという観点で主張しているからである。
今朝の時事放談のゲストは、自民党の高村正彦氏と元民主党の藤井裕久氏であった。放送内容は、安保法制に関する議論であった。藤井氏は集団的自衛権行使に反対であり、国際問題があれば時間はかかるが、国連を中心に解決すべきだと主張する。高村氏は国連で解決出来ればよいが、安保理事会の常任理事国に拒否権があるので、当事国が常任理事国であれば国連は無力であると主張する。 
 
明確には言えないだろうが、中国が絡んだ紛争を考えている以上、藤井氏の考えは机上の空論に聞こえる。藤井氏は日米同盟だけでなく同盟全体に関して否定的である。その理由として、セルビアとオーストリアの戦闘から、同盟関係を導火線にして第一次世界大戦となったことをあげている。 
 
しかし、その考え方は間違いである。戦争でも化学反応でも、メカニズムとエネルギー(注1)の両方から考える必要があることを、文系秀才の藤井氏は判っていない。戦争の防止は、メカニズムを無くすることでは出来ない。戦争に向かうエネルギーの蓄積がある限り、遅かれ早かれ戦争になる。つまり、オーストリアの皇太子がサラエボで暗殺されなくても、別の火花がそのエネルギーを戦争という形で解放しただろう。 
 
また、藤井氏は仮想敵国を考えることは危険であると指摘している。同盟関係は仮想敵国を想定して結ばれる場合が多いだろうが、仮想敵国はあくまで仮想なのだ。それを想定しては危険であるというのは、国家は戦略を立ててはならないという議論に等しい。日本が第二次大戦であのような悲惨な敗戦に至ったのは、戦略が十分で無かったからであるとの議論が大勢を占めていると思う(注2)。藤井氏はどう考えているのだろう。藤井氏や多くの野党の議論は、突詰めれば非武装中立論に至る。「丸腰の人間に襲いかかる悪人は居るだろうか?居る筈はない。」という考えである。何と言うナイーブな人たちだろうか。 
 
藤井氏は、新たな安保法制の下では自衛官のリスクが増加すると指摘している。しかし、自衛軍(自衛隊を英訳すれば、self-defense forceとなり、それを再度和訳すれば自衛軍となる)なら、出動する事態が生じれば、犠牲が増えることを誰も否定できない。そして、高村氏が指摘するように、そのような事態が備えを持ったことで防止できれば、国民全体のリスクが大きく減少すると反論する(注3)。
 
中国南シナ海埋め立てと武器導入とそれに対する米国の警告など、東アジア及び南アジアは危険が近づきつつある。それに対して、米国が“知らんぷり”をすることは原理的に可能である。その延長上にあるのは、尖閣諸島だけでなく沖縄や奄美諸島の中国による占領だろう。現政権が考えているのは、日本が巻き込まれることではなく、米国を巻き込むことだろう。
 
藤井氏は、中国の巨大化には同意するものの、孔子などを産んだ偉大な国として、中国を見ている。しかし、中国が共産党一党独裁の国であること、その中心部分が権力抗争と腐敗にまみれていること、などへの言及は今回の議論では一切なかった。確かに高村氏が指摘するように、中国は“この1年で日本と上手くやりたいという雰囲気が高まっている”のは事実だろう。しかし、微笑外交と脅迫外交の使い分けは、覇権国家の常識である。私は、中国が日本に対してBig Stickを振りかざさない様に米国との関係を密にすべきだと思う。http://ja.wikipedia.org/wiki/棍棒外交
 
注釈: 
1)このエネルギーは化学反応として解放可能なエネルギーと言う意味で、フリーエネルギーと呼ぶ。化学反応で解放されるエネルギーは、フリーエネルギーの減少分である。(P.W. Atkins著の物理化学参照)この化学反応を戦争に置き換えたのが、上記議論である。 
2)クラウゼビッツの第一編に戦争の政治的行為としての本質が書かれている。以前のブログにも書いたが、日本は大学でクラウゼビッツのクの字にも触れない世界でただ一つの主要国だそうだ。(伊藤憲一著、新・戦争論17ペイジ) 
3)この論理は、クラウゼビッツの「武力による決定の担保の原理」が根拠だと思う。伊藤憲一著の新・戦争論に、その説明が書かれている:武力を行使してみればどうなるかという結果が、予め相当程度確実に交戦者双方に見通される場合、つまり武力による決定の担保がある場合には、敢えて武力を行使するまでもなく、政治的な解決が出来る筈である。 
<理系人間の素人の意見ですので、反論等歓迎します。>