国旗国歌要請:文科相「適切判断」迫る 国立大学長は困惑と題する記事http://mainichi.jp/select/news/20150617k0000m040055000c.htmlによると、
下村文科相は16日、「各大学の自主判断」としながらも「長年の慣行により国民の間に定着していることや、(1999年8月に)国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」と要請した。
 
国旗・国歌法は、国旗の形や図柄や国歌の詩やメロディーを示したもので、国民が何かの時に国歌を斉唱しなければならないなどの内容は全く書かれていない。一方学問の自由に関しては、憲法23条に「学問の自由は、これを保障する」と明確に定められている。学問を行なうところは主に大学なので、「学問の自由」が重要であるとするこの憲法の規程は、そのまま「大学の自治」が重要であるとする根拠となる。従って、文部大臣の要請にはあまり根拠がなく、学長たちの困惑は当然である。
 
この政府の要請に関するコメントを書いたが、それにたいして学問の自由の意味が十分理解されていない方のコメントがあったので、ここに最初からの説明を試みる。学問は、“真理とそれらを繋ぐ論理の発見、集積、及び検証”を目的とする人間の知的行為とでも定義できるだろう(注釈1)。学問の構築・発展は、通常分野を限定して進められる。それは、時空を越えてこの世界全体を対象にするほど、人間の智慧は優れていないからである。つまり、多くの専門領域の夫々に「学会」を設立し、研究者が協力して夫々の領域で学問を極める様努力する。 
 
専門分野に別けて、学問を深めるのは、丁度、スポーツに多くの種目があり、夫々の種目で技を高めるようなものである。ある種目を専門とする者の技は、一般の人など到底及ばないレベルに達する様に、学問においても、ある分野の専門家の知識や論理は、一般人の知識レベルを遥かに越える。そして、それらの知識や論理を、政治や経済などの活動に活用することで、人類は高度な文明社会を築いてきたのである。その結果、個人の能力を遥かに越えた文明社会を築き、我々はその恩恵を受けているのである。 
 
学問が発展するには、研究者の集まりである学会や大学などが、全体として真理や論理を最優先する必要がある。一方、研究者や学会&大学を代表する者も人間であり、私的な経済的及び社会的利益などから自由ではない。従って学会や大学は、出来るだけフラットな組織を持ち、真理と論理を最優先する心(雰囲気)をその構成員と伴に、作り上げる不断の努力が必要である。政治など外部からの干渉は、簡単に学会の機能を毀損する可能性がある(注2)。従って、学問の自由がその発展の為に必須となる。 
 
一方政治は、人間と人間が活動する全ての領域を対象にする。区分けは通常地理的なものであり(注3)、最も明瞭な区分として国家がある。政治の目的は、国民の安全を確保し経済的豊かさを維持或いは促進することであり、総合的、現実的、そして具体的である。それは、狭い専門領域で真理や論理を最優先する学問の存在形式とは大きく異なる。政治との関わりでは、学問はその限られた専門分野から政治を評価する物差(基準)としての役割も持つ。そして、学問からの評価を十分価値のあるものにする為には、多くの専門分野からの評価を総合しなければならないと思う(注4)。 
 
この評価は、政治という多変数関数の変化を評価するのに、夫々の変数に関する微分係数(偏微分)を得て、それを基に政治の全微分を得ると言えるかもしれない。何れにしても、評価する対象が評価の物差に干渉しては、正常な評価は出来ない。従って、学問の正常な発展と政治との関わりを可能にする為には、学問は自己完結的でなければならない。 
 
また、学問はあらゆる人間活動の“基礎”にあるべきものであるが、夫々受け持つ範囲は狭く且つ現実に直結していない。従って、逆にある狭い領域の学問が、政治に干渉する場合、間接的かつ限定的でなければならないと思う。最近の例では、安全保障に関する政治的問題に憲法学が干渉するとしても、間接的限定的でなければならないと考える。民主党のように、憲法学者の意見を天下の宝刀のように持って、安倍内閣の安保法制を批判するのは、既に書いた様に(最近の投稿数題)適切ではない考える(注5)。 
 
注釈: 
1)「学問の自由」という場合の学問という言葉に、適当な英訳が辞書にみつからない。辞書にはknowledge;learning;ologyなどが書かれている。ここでは、science(科学) 或いはphilosophy(哲学)とするのが適当だと思う。 
2)例えば、スタップ細胞のスキャンダルは、理化学研究所の特定研究法人への指定を得るという研究所の方針(政治との関わり)と無縁ではない。 
3)勿論、宗教的、風俗的なものもある。 
4)例えば防衛問題では、憲法学だけではなく、法学、歴史学、政治学、地理学、財政学、等の他色んな側面から、国民の将来に亘っての安全確保を目的に戦略的問題として考えなければならない。
5)憲法による政治の評価、つまり違憲云々の判断は、最高裁判所が行なうのであり、学者が行なうのではない。
昨日国会は、集団的自衛権行使の問題で党首討論を開いた。集団的自衛権行使が違憲であるとして、改めて攻撃するためには、自衛隊も個別的自衛権も合憲であるとの認識で一致していなければ、噛み合った議論にはならない。自衛隊が違憲であると考える社民党や共産党が、集団的自衛権行使を憲法違反として与党攻撃するのは、予算と時間の無駄使いである。今回、個別的自衛権が合憲であるかどうか考える機会があったので、ここにその考察を書く。 

個別自衛権行使は合憲で集団的自衛権行使は違憲と解釈する論理が、憲法が専門の木村草太・首都大学東京准教授の寄稿として紹介されている。
その論理は、以下の理由でこじつけであると思う。先ず、木村准教授の考えを以下に抜粋する。

『憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。
つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条(補足1)の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。』

つまり、一般的な項目と特別な項目が矛盾しておれば、後者を前者の例外とするのが、法律の読み方であるというのである。判り易い例では、刑法第199条:「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と、刑法第36条:「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」という正当防衛の規定の関係である。人を殺しても、正当防衛にあたる特別の場合、刑法199条は適用されない。 

この論理を憲法9条と憲法13条に適用するというのだ。憲法13条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書かれているので、この条文全てを議論に用いるべきである。ゴリ押しだと言うのは、この条文の前半部分を考慮すれば、「立法その他の国政」の中に、個別自衛権行使に不可欠の外交や戦争をいれることは不可能だと思われるからである。

つまり、憲法13条前半部分にある「全ての国民は、個人として尊重される」がこの条文のエッセンスであり、それをより具体的に示したのが後半部分であると考えられる。明らかに、軍隊(自衛隊)を用いての防衛活動は、兵士個人の命を無視する活動であり、全ての国民を個人として尊重する場面ではない。(補足2)従って、木村准教授の解釈に示された「国政」の中に外交や戦争は含まれず、憲法9条の例外として用いることは不可能である。 

木村准教授は政治家におもねる発言をしておられる。学者にあるまじき態度であると思う。 

尚私は、安倍政権の集団的自衛権行使を可能にする安保法制に賛成である。魂を抜かれた日本国では、超法規的手段でしか、この国と国民を守ることなど出来ないからである。 

憲法第九条:  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 
憲法第十三条:  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 
補足2:自衛隊員も国民だから、その国民の生命を重視するのは、防衛戦争時にあっては公共の福祉に反するとでも言うのだろう。将にゴリ押し的解釈である。
昨日の日本記者クラブでの会見で、憲法学者の早稲田の長谷部氏と慶応の小林氏が、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法案について「憲法違反」との見解を重ねて示した。この中で、小林氏は更に「憲法を無視した政治を行おうとする以上、独裁の始まりだ」と安倍政権を痛烈に批判した(補足1)。この二人の憲法学者は、先日の憲法審査会での発言で話題になった人たちである。

両氏に要求したいのは、先ず、自衛隊及びそれを用いた個別自衛権行使が合憲であることを、一日本国民としてではなく憲法(補足2)を専門としる“学者として”示すことである。憲法9条の第二項であるが、それは「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書かれている。憲法は明確に軍隊保持と戦争をする権利を国家から奪っている。“自衛の為の最小限の軍備は戦力に当たらない”という様な誤摩化しは、学者を名乗る以上出来ないだろう。

もし、自衛隊も個別自衛権行使も憲法違反だというのなら、改めてこの時点で集団的自衛権行使を違憲だと批判する資格はない筈である。今問題になっているのは、現状の安全保障体制が合憲で、安倍内閣の提案している新しい体制が、合憲の枠を越えるかどうかという議論だからである。

更に、小林氏には、独裁の定義を明確にしてもらいたい。安倍政権に終止符を打つ事は、我々国民が次回選挙で野党を選べば出来ることである。更に、安倍政権が掲げる集団的自衛権行使を可能にする法整備も、その時に改訂出来る。独裁とは小林氏が気に入らない政権につける形容詞だとすれば、小林氏の方が独裁志向ではないのか?

このような混乱を日本にもたらせたのは、憲法を専門とする学者や彼ら及び彼らから”薫陶”を受けた最高裁判事ではないのか。一昨年のブログに書いた様に、自衛隊を合憲としたところから、この様な混乱は容易に予想される。

補足:

1)私は、現在の憲法の不備にはずっと批判的であった。一方、昨年までは安倍政権の集団的自衛権行使する方向への”性急な動き”も批判してきた。
しかし、今は、この国が変化するには、安倍さんのような数の論理(最低限の民主主義)による強引の手法も時として必要だと思う様になった。 

2)第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。