1)以前に苛めを防止するには、その中身により暴行罪や脅迫罪という刑法の存在を現場の教師や生徒自身に教えることが大事であると書いた。つまり、法的に無力な教師ではなく、出番があれば警察に出てもらうことが、大切である。 
 
”虐められている子供も、安全な生活を営む権利を持つ”ということを幼少期より、学校で教育することが大切である。それは道徳や倫理という類いのものではない。社会の恩恵を受ける条件として、その保持と実行が<U>強制される基本的ルール</U>である。その基本的ルールを守ることが出来なければ、社会からの恩恵と保護を受けることが出来ない存在となることを教えるべきである。 
 
道徳は、人の道及び徳である。それは人として生きる前提が整っている人間に対して、より多くの社会への貢献とその為の人格形成を教える。しかし、最初にその前提部分、つまり“野獣ではなく人として生きること”を、確実に教えるべきである。
 
2)昨今、小さいボートに乗って、政情不安定な北アフリカから、命懸けでイタリアやギリシャに逃れる人が増加している。ユーロ圏では、年間数十万人に達する難民をどう受入れるかは、ギリシャの財政危機以上の難問として議論されている。
 
日本では当然の様に受け取られている生存の権利を、難民になって地中海を彷徨うアフリカの人たちは持っていない。我々日本人は、当たり前だと思っている生存の権利は、本当は大きな財産である。つまり、健康で文化的な生活を営む権利(憲法25条)は、我々日本人が日本人として産まれた瞬間に贈られる特別な財産であることを明確に意識すべきである。
 
それは特権であるから、それに対応する義務も意識しなければならない。その義務の一つが、他人の権利を踏みにじる野獣ではなく、生存の権利を他人にも認める人(ヒト)として生きることである(注釈1)。 
 
3)特権はその上に座しているだけでは保持できないのは、真理であり歴史も教えている。国防と同様、軍備を揃え、日々特権保持の訓練をすることが大切である。
 
一人で荒野に生きる時には、権利も義務もない。ただ、戦って獲物を得て生きる。それが生き物である人間の原点であり、その遺伝子は我々人間が等しく持っている筈である。集団で生きるときに始めて、他の個体との境界をどう決めるかという問題が生じ、そこに権利と義務が生じる。権利は相手に自分の生命を主張し、義務は相手の生命を認めるという、裏表の関係がある(注釈2)。
 
自分もこの世のこの空間で生きるのだという主張が原点であり、それが”生命の逞しさ”である(注釈3)。権利や義務は、長い時間をかけて主張し認めあうが、我々は動物と同じ様に、瞬間瞬間とその連続を生きなければならない。そこでは、”戦って生きる”という生命としての基本が必須要件である。 
 
人は、その生命としての基本(野性)と、社会で生きる人としての基本の両方を、バランスをとって持たなければならない。長い歴史の中で、野性を抑える方向で人は文明を築いて来た。そのため、集団で生きる人としての基本のみを意識しがちである。個性にばらつきのある子供達を教育する時、この両方のバランスを教師が自覚して、教育に当たる必要がある。

人として戦う気概を育てるのも教育だと思う。

注釈:
1)もう一つの重要な義務は、国内の公共の諸案件と正常な外交関係を持てるよう、国家の政治に貢献することである。
2)集団で生きる様になると、集団と集団との境界も問題となる。そこに、人類は更に高度な権利と義務関係を生み出して来た。それらが人間の文化であり、その構築過程が歴史であると考える。
3)“逞しさ”を他人への親切やその能力の様に教える人もいるが、それは柱が出来上がった上の枝葉の領域のことである。

1)豊田のゴミ屋敷火事についての記事(8/30)の続編として、地方自治体の首長のあるべき姿について政治屋になったつもりで考えてみる。
 
政治屋にとって、次回選挙に勝つ事が現在のあるべき姿の全てを決める。豊田市の市長もこの点では合格だろう。実際、地方自治体の首長の多くは、法的な手段をとると冷酷な印象を有権者に与えるので、次の選挙のことを考えて何もしない場合が多い。直接迷惑を被る人でも大声をあげるひとは日本には殆どいないので、無視しても反撃はないのだ。一般に、何も言わない多数は無視し、明確に反対の立場をとる少数を無くすことが、政治屋としては賢明である。
 
例えば、何か改革を行なおうとすると必ずそれによって利権を失う勢力の強い反対にあう。従って、何も改革などしない方がよいと政治屋は考える。
 
社会の動きにその地方行政が遅れてしまい、不満が高まった場合には、選挙に落ちれば良いのだ。その方針をとる方が、結局在任期間が長くなり、名誉も利益も多くなる。何故なら、日本には何もしない罪は存在しないし、在任期間の長さに応じて褒賞など社会の評価もあたえられるのだから。
 
大阪府の太田房江元知事が手本だ。東大卒、元中央官僚の知性がありながら、何の改革もせずに知事を二期つとめ、退職金もたっぷり貰った。橋下徹が現れたのは単に一時の不運である。その証拠にその後自民党から国会議員にもしてもらった。
 
それに比べて橋下は政治屋反面教師だ。府民のことを考えて、改革を行なっても、”しんどい”だけなのに。この国は本当の危機がくるまで変わりはしないのだ。 
 
橋下財政改革にありがたみを感じる知性などない大衆は何の頼りにもならないけど、怨みに思う少数は恐ろしい。 結論? 金があれば、中国人同様、カナダかオーストラリアに逃げる方がよい。
 
2)”政治屋になったつもりで”という設定とは言え、たいへん後味の悪い文章を書いてしまった。そこで少し追加したい。週刊東洋経済の8月29日号に、「日本が世界地図から消滅しないための戦略」と言う本の著者、月尾嘉男東大名誉教授、へのインタビュー記事が掲載されている。古代都市国家のカルタゴやベネチア共和国は、長期にわたって安泰で、繁栄を謳歌していたのに、地球上から消えたしまった国である。現在の日本がこれらの国に似ているというのである。
 
カルタゴが亡んだ原因として、1)防衛を自国の力でおこなわなかったこと、2)経済大国であったが、文化大国ではなかったこと、3)ローマの政治家(大カト)が「カルタゴ滅びるべし」と、ローマ市民間に反カルタゴの空気を醸成したこと、だそうである。
 
日本がカルタゴの様にならない為には、独自に防衛力を持ち、一人前の政治文化を育て、隣国に「日本滅びるべし」と言わしめないことが肝心である。防衛を自国で行なう第一歩を踏み出そうとする動きを封じるべく、政治屋の見本とも言える野党の党首達が揃って協力する光景に、日本国民は嫌悪感を感じないのだろうか。
 
小沢一郎氏も典型的な政治屋の一人として、安保法制反対の輪の中心にいる。これが元自由民主党幹事長の姿なのだ。政治屋天国日本を象徴する光景ではないだろうか。
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芥川賞の作品が掲載されている文芸春秋9月号を買ったので、両作品を読んだ。火花については別に感想文を書いた。良く出来た作品だと思った。特に、社会の際にいきるが真ん中に引き返す主人公と、その際に張り付く様に生きる先輩の対比が面白いと思った。
 
一方のスクラップ・アンド・ビルドには何の共感も覚えなかった。趣味の悪い性的描写(注釈1)も何の為なのかわからない。祖父の面倒を見る孫息子の人格が、1人の人間として実在しうるという感じがしない(注釈2)。祖父の描写も面白くなかった(注釈3)。
 
スクラップ・アンド・ビルドは自分の人生に於けるのと、人間の世代間における(肉体)のとの二通りの意味を持たせているのだろう。
 
選評を見ても、高樹のぶ子と言う人が正面から評価しているが、高樹氏が面白いと思う所も面白くない。まあ、素人には解らないプロのみが知る面白さがあるのかもしれない。ただ、介護の現実を知るのには、良い材料かもしれない。
 
注釈:
1)体作り(bodybuilding)の一つだと言う言い訳はバカバカしい。
2)老人から運動の機会を奪って早く楽に死ねる様にするという冷酷な計算とその為に行なう表面的親切行為は、現実的且つ緻密でない人格では両立しない。
3)老人の”早う死にたい”が”もっと楽に長生きしたい”の別表現であることは、常識だ。