日本人の宗教感覚について
 
1)日本人に自分の宗教を問えば、「自分は無宗教です」と答える人が多い。しかし最近、西欧人から、「無宗教と答えるのは誤解を招きます。西欧では無宗教という言葉は人でなしと同義語ですから」と教えられ、仏教や神道を答えとして準備している人は多い。つまり、日本人の多くは骨の髄まで宗教的なので、自分が宗教を持っていることにすら気付いていないのだろう(補足1)。
 
上の話は、日本人と西欧人との間で、「人間から宗教を完全に剥ぎ取った時に、どのような動物があらわれるか」について、認識の違いがあることを示している。日本人は、人間から宗教を剥ぎ取ったとしても、善意とそれに裏打ちされた社会性が残っていると考えている。一方、西欧人はそうは考えていないということである。
 
例を挙げて更に説明する。日本人はよく、「人間というものは、他人に迷惑をかけてはならない」という風に、人間の本来の姿を定義する。その中に既に、宗教的規範が含まれているのである。この本物の人間、つまり”真人間”に対する概念として、”人非人”つまり人にあらざるヒトがある。人非人とは、人間としての本来の姿を持たないヒトを意味し、”道徳性も社会性”も剥ぎ取ったヒトの定義である。それを西欧風の感覚で表現すれば、「人から”宗教”を剥ぎ取った場合、道徳など持たない反社会的な動物になる」ということになる。
 
しかし、日本人は自分の宗教を感じていないのであるから、人である以上道徳性も社会性も剥ぎ取ることはできないのである。つまり、非常に深い信仰心を持った民族であるということになるのではないだろうか(補足2)。それが文化の一側面だとすれば(日本人は文化だとは考えない)、日本人は非常に稀な文化を持っている民族だということになる。日本を旅行した外国人からよく聞く感想は、「どこでも日本人は親切である」というものである。日本人は、利害関係が無い外国からの客人には、人として自然に親切にするのである。
 
つまり、日本人は「人間は本質として善意の存在である」と信じている。更に、「自然は人間の理解を超えた神のような存在であり、人間はその恵みと脅威の下で小さい存在として生きなければならない」が付け加えられる。それが、日本人の信じる宗教である(補足3)。
 
仏教の位置であるが、それは個人によりまちまちである。しかし、それは本質的に日本人固有の宗教の上に僧衣のごとく着用される宗教であると思う。日本人のキリスト教の信者も、おそらく、日本人固有の宗教からは自由ではないのではないかと想像する。
 
2)上で、日本人は自分の宗教を感じていないので、それだけ信仰深い民族であると結論した。しかし逆に、自分の宗教を感じるとはどういうことなのだろうか。
 
服を着ていると感じる人は、暑くなれば服を脱ぐだろう。 しかし、服を着ていると感じていない人は、暑くなっても服を脱ごうとはしないだろう。つまり、西欧の人々が自分の宗教を感じているということは、服を脱ぐように神を裏切る可能性を感じていることになる(補足4)。
 
服を脱ぐように、宗教を脱いだ人。そのような可能性のある人と、過去に日本人は出会ったことがあるのか?これから出会うとすれば、どう準備するのか? もう一度原点に戻って、この大きな問題を考えた方が良さそうである。
 
 
補足:
1)     その宗教は、山本七平氏のいう日本教ではない。
2)     日本人は、「人は社会性をもっているから人間と呼ばれる」と考えている。別の表現では、日本人は他人に対して善意で接するのが人間の原点であると考え、感じている。ちなみに、社会性が遺伝子レベルまで及んでいるのが、昆虫の“真社会性”と呼ばれる性質である。極端な言い方をすれば、日本人はミツバチの様に、社会性を種の本質のように信じている民族である。もちろん、その本質から外れた人も居ることは知っているので、その由来は遺伝子ではなく宗教(日本教)である。
3)神道と儒教の影響で作られたのかもしれない。
4)聖書の中に、裏切るという言葉をよくみる。若い頃読んだ時の感想は、宗教で
  裏切るとはどういうことなのかと不思議に思ったことがある。一神教とは常に
  裏切りと背中あわせの宗教なのかもしれない。
事後補足:日本人は善意と社会性を人という概念の中に組み込んでいる。しかし、西欧人はそれらを宗教の中の一要素に入れている。それは言語上の定義の違いと考えても良いが、定義以上のものをもっているというのが上記文章の意味である。何故なら、それら善意と社会性の前提は、宗教の違う人に出会った時には適用されないからである。(10/20/am)
沖縄県民は隣国の助けを借りてでも独立を目指すか?それとも、翁長知事を不信任とするのか、選択の時期である。
 
翁長知事が国家の防衛政策に反対するかの様な行動をとっている。沖縄県民はそれを支持するのだろうか? 沖縄の基地負担が多すぎるという考えはあるだろう。それは、日本国民としての不満なのか、それとも沖縄を分離独立させてでも、基地を無くしたいというレベルの不満なのか。
 
翁長知事の辺野古基地建設に反対する姿勢は、既に日本国民としての不満というレベルを超えている。国連人権委員会で、基地移設を人権無視と演説する翁長知事を、どう県民はおもっているのだろうか。翁長氏は福州市名誉市民として、自分の努力を認めて欲しいという思惑があるだろうと疑う人もいるだろう。一般県民も同じ考えなのか。その態度を今や明確にすべき時に来ている。
 
日本国内でも、米国基地の近くに住む人たちは、沖縄の人たちと同様の不満や不平等感を持っているだろう。原発周辺の一部住民もその危険性を考えて;また、日本の工業化を支えてきた鉱山や工場の近くの住民は、公害などで大変な犠牲を強いられてきたために;更に、近くに突然高速道路などができた地域の住民たちは、騒音や空気汚染に悩んで;其々大きな不平等感を持っている(た)だろう。
 
他地域住民と比べてなんらかの不平等感を持つ人間は、この日本中では多数派である。しかし、その不平等感をなんとか埋め合わせるべく、当事者間での議論を通して、日本国内で解決してきたと思う。
 
しかし、上記のように国連にまで話を持ち込んだことを考えると、現在の沖縄県知事の基地反対の強固な意志は、既に沖縄県が日本から独立を目指す方向に進んでいることを示している。そして、基地問題の解決が目的なのか、それとも沖縄独立が目的で基地問題をそのために利用しているだけなのか、わからない状況である。
 
つまり、普天間基地の危険性除去という基地移転の動機が、翁長氏が知事になってから、基地周辺住民の安全確保をいわば“人質”の様にして、沖縄の基地廃止、或いは同じ意味だが反日本政府へと、県の姿勢が変わっている。そう思う根拠の一つは、辺野古基地の環境にたいする影響の過小評価が、前知事が出した埋め立て承認における「瑕疵(かし)」である(今朝のウエイク;中京テレビ)としていることである。つまり翁長知事の主張は、現在の枠組みで考えれば、普天間基地の危険性除去よりも、辺野古のサンゴなどの保護に万全を期すことが、より重要であることを前知事が見過ごしているということになるからである。
 
沖縄の地政学的位置から、沖縄以外に基地を移すことが困難であると国家が主張するのなら、せめて周辺住民の安全性確保のためにどこかに早急に移転するように要求することが県知事のできる範囲の最善の行政であると思う。
 
それに同意しかねるというのは、独立を主張する事にほかならない。そうなら、翁長知事は正面から独立を主張し、県民に訴えるべきである。もちろん、その際に政府がすんなりと認める訳がないだろう。その際は、隣国に味方を頼むのも一つの選択だとして、県民に問うたらどうか。沖縄県民は、事態はそこまで進んでいることを知るべきである。
NHK夜9時のニュースによると、安倍政権が企業の内部留保が多すぎると文句をつけている。テレビ放送された麻生副総裁の発言は、異常である。「金を溜め込んで企業は一体何をしようというのか?」というのが、私企業に対する自由主義国であるはずの財務大臣兼副総理の公的発言である。
 
自由主義国では、私人も私企業も経済行為は独自の判断で行なって良い。もちろん、その姿勢を私人や私企業が非難するのも自由である。しかし、政府要人が政府を代表して、あのような発言をするのは、おかしいとしか言いようがない。
 
もちろん、要請はありえるだろう。しかし、要請をする場合、日本語には“お願い口調”の言葉つかいが用意されている。あのように非難するような口調では要請にならない。つまり、あの口調は社会主義か共産党一党独裁国家の要人の言い方なのだ。
 
内部留保が350兆円あると言っても、借金も同程度以上ある。日本の代表的優良企業のトヨタ自動車でも、資本48兆円の2/3は短期及び長期負債(借金)である。成長企業として代表的なソフトバンクは総資本の80%以上が借金である。もし、金利が急上昇するような事態になれば、恐ろしいことになる。
 
勿論、昔から貯金を溜め込む習性の企業もあるが、それらには投資する知恵がないのである。知恵がない不利を、貯金でカバーしていると言えなくもない。知恵のある企業も国内で投資する企業は少ないのではないだろうか。国家が直接的に、内部留保を減らせという前に、企業がその気になる環境を作るにはどうしたら良いかを考えるべきである。
 
「このような規制を撤廃するから、このような投資チャンスがある」という様な、要請なら分かるが、「一体企業は金を溜め込んで何をしようというのか」と政府要人が脅し口調で言うのは、さっぱりわからない。
 
企業が投資をできないのは、更に理由があると思う。それは、国家経済の将来が読めないことである。つまり、1000兆円を超える赤字を持つ政府が運営する国家には、将来何が起こるかわからない。増税と経済収縮、あるいは、年100%を超えるようなインフレなど、異常な事態が将来発生することを恐れるのは、我々年金生活者だけではなく、企業も同じではないだろうか。一億総活躍社会というのは、「年金が将来払えないかもしれないので、年寄りも活躍してください」に聞こえる。