韓国朝鮮日報のネット版に、「日本植民地時代の朝鮮、生きることは地獄だった」と題して、国立劇場で上演されている舞台「切れ端」(ユ・チジン作、キム・チョルリ演出)のレビュー記事が掲載されている。
その中で記事は、「希望などというものはまったく見えない日本植民地時代のすさまじい人生がそこにある」、と感想を書いている。 

日本植民地時代と書くことで、過酷な日本の搾取を想像させ、韓国の若い人たちの反日感情を煽るのが目的だろう。そして、日本の若者にも日本は朝鮮半島で過酷な植民地支配をしたと宣伝したいのだろう。 

歴史をよく知る日本人が、「日本が過酷な支配をした訳ではないはずだ」と記事の書き方を非難すれば、「日本植民地時代というのは、年代を示しただけで、日本に併合されていたこととその頃の朝鮮の地獄のような生活との関係を強調した訳ではない」というだろう。 

それに、日本は朝鮮半島を植民地支配したというのは、正確ではない。大韓帝国を日本が条約に基づいて併合したのである。それは、ヨーロッパ諸国がインドシナなどを植民地支配したのとは全く違う。日本は半島にインフラ整備や大学設置などに多額の投資をしたはずだ。もちろん、その時代の大韓帝国では、生きることは地獄だったのは事実かもしれない。そのような背景があったからこそ、娘が自分の親族に慰安婦として業者に売られたりしたのだろう。

とにかく、韓国は国を挙げて、日本を「ホロコーストのドイツと同罪」の国と、歴史を捏造したいのだろう。それにより、同じような利益を得る国が複数あることを、日本はよくかんがえなければならない。 

国策として、大学の一つ分くらいを、近代の韓国や中国と日本の関係を研究する機関をつくるべきだ。あるいはより適切なのは、日本の有志が寄付をして、そのような機関を支えることである。もちろん、日本が残酷なことをした事実が出てきても、それを発表すべきである。完全にオープンに、詳細を全世界にあきらかにすべきだと思う。 
日本の外務省も政府もやる気のない人たちの集まりだ。慰安婦像などを米国など海外に造られて怒ってはいるが、外に向けての諜報活動や広報活動など実効的な対策を何もしていないのではないのか。それとも、韓国の主張する通りなのか? それなら安倍総理が謝罪するべきである。
 
例えば「韓国が言っている、comfort womenとななんだろうか」と思って、現在世界中の一般市民の多くが、アクセスする情報源は、英語版wikipediaではないだろうか。そう思って見ていると、その冒頭には、旧日本の占領地域から慰安婦は集められ、証言によると自宅から誘拐されたり、騙されたりして、日本軍が管理する慰安所に集められたと書かれている。日本からは集められたとは書いてない。おまけに、わざわざ、人数は少ないがオランダやオーストラリアの西欧人も連れて行かれたと書かれている。

長文の解説のずっと後ろの方に、秦さんらの説も一つの反論としてあげられているが、マイナーな意見という印象をうける。つまり、何もしらない世界中の人たちが、この記事を読んで、日本が行った非人道的な行為に腹立たしく思う人が毎日増加し続けていることになる。

そのような状況で、誰が日本の主張など信じるのか?
 
このような記述をそのままにしておいて、韓国や中国を批判しても、潔くない日本という印象を世界中に広めるだけだと思う。wikipediaに対して日本の私的な団体(なければ作れば良い)が働きかけるとか、日本の例えば外務省の役人たちが、私人として直接執筆に加わるとか、やるべきである。外務省の役人たちは、国内的にはエリートのようなふりをしているが、給与相当分の働きをしていないのではないか。外交官試験を合格し、外国大使などとして破格の厚遇を国家からうけるのだから、相応の働きを公私にわたって日本のためにするのが人間として当然だろう。もちろん、外務省だけに限らない。国家の上級公務員全てに言えることである。
 
私も、ブログに英語でちょっと書いたりしたが、閲覧数はもちろんWikipediaとは8桁くらい違うだろう。ほとんど何の役にもたっていない。定年退職者一人では情報も作戦も限られていて無理だ。

正直言って、この文章を書いている時には、韓国の連中よりも日本政府の関係者に腹が立ってくる。
日本のマスコミは、社会における役割を正常に果たしていない。一億玉砕を紙面に踊らせながら、戦後は論調がコロッと変わって、自分たちが神輿を担いだにもかかわらず、その主を批判するのに何のためらいも見せない。になれば、昨の事は夢の中と言わんばかりに、韓国や中国に日本攻撃のネタを捏造し提供する。節操も何もない。
 
それは半島や台湾併合の後のことかと思えば、そうではないらしい。再度眺めた「明治維新という過ち」(原田伊織著、毎日ワンズ)の中に、福沢諭吉の次のようなことばがあった。「新聞記者は政府の飼い犬に似たり」
 
西南戦争の際、新政権が西郷隆盛の官位を剥奪した瞬間に、新聞各紙が西郷非難を始め、世論がそれに迎合したことを、福沢は怒って言ったセリフだという。
 
政治に節操を求めるのは、魚屋で野菜を呉れというようなものかもしれない。また、節操を保つ政府に命を託すことは、学者に政治をさせるようなものである。

しかし、そこにマスコミの出番があるのではないか。国民には“歴史の動きとその真実”を知る方法がないが、マスコミは現場に出かけてその正体の陰か気配を掴んで報道することが可能である。それが出来ないのなら、存在価値など何もない。
 
言論の自由とか、民主主義とかいうのは、日本では全く借り物である。100年暮らしても、その地が自分の故郷でないと言い張る一族のようなものだ。それはその一族に問題があるのか、それともその地に問題があるのか、どちらかである。

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西洋朝顔、霜の降りるころまで咲くという。大きな花をつける。