1)最近、高島康司著「日本、残された方向と選拓」という本を読んだ。国際政治に関する国民向けの本で印象に残ったのは、この本と昨年読んだ北野幸伯著「クレムリンメソッド」である。どちらも、(“悪者”と評価の定まった)日本が中途半端な材料と覚悟で名誉回復(歴史変更)を図ることは危険であると述べている。それは、大戦の問題は国際的にはすでに評価済みと見なされているからだ。
 
クレムリンメソッドは表題だけを見ても参考になる。例えば第3章の表題、「国益のために国家はあらゆる嘘をつく」「世界の全ての情報は操作されている」を頭において、「日本、残された方向と選択」の中のジャパンハンドラーについての記述を見ると、日本政府のとるべき方向が定まるように思う。ジャパンハンドラーとは、米国で日本を操る脚本を書いている、知日派ジョセフ・ナイやリチャード・アーミテージらである。日本は彼らの書いた脚本通りに動いて(動かされて)いる。
 
日本の東北アジアでの外交は稚拙に見えるのは、日本が大きな力に継続的に操られていることと、国のトップ周辺や与党がその事実を十分認知していなかったからだろう。その流れの中で、安倍総理の年末の従軍慰安婦問題に対する決断もなされたのだろうと思う。結果として、この問題についても蛇行運転のようなことになってしまったが、今後はその合意に従って対応していくべきだと思う。
 
日本が世界の動きを的確に把握して諸問題に対処しておれば、この種の問題は数十年前に解決していたはずである。上記の本にあるように、世界の大きな流れを理解せずに、自国の比較的小さな事実や名誉に拘泥する人たちが国のトップ周辺を占めるようでは、国民が艱難辛苦に曝されることになる。(クレムリンメソッド、pp34-35; 補足1)つまり、政治の世界では、事実や真実は上手に使えば大きな味方になるが、下手に使えば自分の首を占めることにもなるということである。
 
2)従軍慰安婦問題については、終戦後多くの書類等が焼却されて証拠いん滅が行われた可能性もあることを考えると、(下位のレベルでの局所的な軍の方針としても)強制が無かったことの証明は非常に困難である。(歴史においても、無かったという証明は一般に非常に困難である。)世界が罪人を見る目で日本を見ている現状を認識せずに、“証拠が確定していないとみなされる事実”を政治的場面で主張することは、益々状況を悪くする。政治以外(歴史学)で日本に有利な諸項目についての証拠を確定する努力を継続すべきである。
 
日本の政治家でありながら、日本の政治的敗北をあざ笑う元衆議院議長や元社民党トップのような態度は、決して忘れず歴史の中に残すべきだろう(補足2)。
 
毎日の食も命も保証されない状況下の出来事を、豊かな時代になって過去の状況を完全無視し、今日的感覚で裁くような彼の国の態度は腹立たしい。実際、共に敵と戦うという姿勢でおられた女性の方も多かったし、また、報酬も支払われていたのも事実だろう(補足3)。しかし、そのようなことは学者の声として、国際社会で宣伝すべきであるが、政治では国際標準の外交を目指すべきであると思う。
 
マスコミで話題になることを予測しながら、「あれは単なる売春婦だった」とか、日韓合意の文書も読まないで「10億円の拠出は慰安婦撤去が条件だ」などとこの時点で発言することは、
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6187574 (腹立たしい思いをしている一定数の)国民の票を得ようとする売名行為だろう。本当にそう思うのなら、資料を集めて自分の考察を加えて論文や本を書くべきである。そのような人に限って何も勉強せずに、国会議員を職業としているのである。
 
私自身は、今回のケースで再び非常に腹立たしい思いに駆られているが、どちらに向いて怒りを投げつけるのが“正しい怒り方”なのか分からない状況である。
 
このあたりで日本の全ての有権者は、これまでの常識を排してもう一度原点から考えるべきであると思う。米国と日本の政治をほぼ一貫して支配してきた親米派官僚と政治家が行ってきた日本人への刷り込みを取り除くことが、東北アジアで生き残る上に必須である。慰安婦を始め、尖閣問題、竹島問題、全て一から考えることが大事だろう。(補足4)
 
補足:
1)19398月、時の総理平沼麒一郎が、「欧州の天地(世界)は複雑怪奇」と言って辞職したという。全く大局が読めない人が総理を務めるのが日本国であったという。(クレムリンメソッド)
2)河野談話の後でもこの問題が再燃したのは、この問題がなくなっては困る勢力が韓国にあったことと、日本人(+日系人)にもそれを利用して地位を確保しようとした人がいたことだろう。また当時、日本のトップに腹を決めるタイプの人がいなかったのも大きな原因であると思う(宮澤、細川、羽田、村山内閣)。
3)朴裕河著「帝国の慰安婦」にはこのあたりのことが詳しく書かれている。真実が知られることを恐れた韓国裁判所は著者に罰金支払いを命じた。(2015/1/13; ソウル東部地裁)
4)上記高島氏著の本には、1902年(日韓協約前)日本の漁師が竹島周辺で漁をするにあたって、税金を韓国側に納めたという資料が2012年に韓国より明らかにされているという(p60)。また、尖閣諸島については、1978年に福田総理と鄧小平の間で結ばれた福田密約の存在(p47)について触れられている。更に、ごく最近の出来事で、丹羽中国大使の後任で中国着任前に死亡した西宮大使の暗殺説についても述べている。「日中韓の東アジア共同体構想を破壊することが、米国の最優先課題である」という言葉を、頭の中に置くべきであると思う。
人格神と民主主義
 
先に、精神的公空間と民主主義の関係を考えた。民主主義社会の維持には、各個人が公的活動に対する義務感を持つことが必須であるということ。そして、私的な利益追求と公的活動の両方が正常に動機付けされるには、精神空間に私的部分とともに公部分(精神的公空間)を持つことが必要であると書いた。(補足1)
 
そこで宗教と民主主義社会は両立するだろうかと疑問を持った。宗教における教義は、すべての精神的空間を支配するだろうからである。他人への配慮という考えはある。それらは例えば、仏教での慈悲の心やキリスト教でのアガベーである。しかし、これらの他人への愛は、自分が極楽往生をするため、或いは、神に認められるための愛であり、結局動機は私的、つまり、神と自分の一対一の関係で生じたものである。
 
これらの宗教が社会の中心に位置していた時代には、民衆は被支配者である。公とそこへの貢献という考えは、市民革命によりできた国民国家という制度とともに生じたと思う。つまり、国家とその下部にあるコミュニティーへの貢献が公的貢献である(補足2)。
 
ある地域には一般にいろんな宗教の人やいろんな人種の人たちが同居している。そこに共通の住処としての国家を建設して、互いに協力するのが民主主義社会である。人格神は、その宗教を信じる人達の心の全てにわたって支配するので、このような民主主義社会とは両立しないと思うのである。
 
近代国家は、いろんな宗教を持つ人たちで構成されるが、正常の運営には宗教から独立した“精神的公空間”での意志決定を行いそれに従う必要がある。しかし、人格神を信じる人たちの精神的空間は、宗教の教義により全体調和的に設計されているとすれば、それを私的な精神部分空間に閉じ込めるのは不可能であり、民主社会の決定に矛盾するだろう。
 
それが、例えば國際社会のルールに従うことを拒否する多くの西欧人、シーシェパードなど、が存在する主たる理由だろうと思う。彼らには国際社会を”公”とみる意識は皆無だろう。
 
米国のドル札には、In God we believeと書かれている。その人格神(補足3)と米国の自由と民主主義を尊ぶことを国是とする国柄とは矛盾しないのだろうか。その神はキリスト教の神だと思うが、国家にはほかにもいろんな宗教を信じる人たちがいる。大統領の就任式の際に、新しく大統領になる人は聖書に手を置いて宣誓する。その聖書はキリスト教の聖書だと思う。イスラム教、ユダヤ教、或いは現地の神などを信じる人たちもいる。米国の人たちはそのことをどう思っているのだろうか?
 
つまり、民主主義国家においては、人格神を信じる宗教は形骸化していると思う。しかし、それをわざと追求しないで、放置しているのではないだろうか。
 
補足:

 

1)単に「人のためになる働きをしなければならない」ということをわざわざ難しく言うメリットがあるのか疑問が湧くかもしれない。しかし、明確に二つの意識を準備することで、フト湧いて出る「なんで自分を犠牲にしてまで」という疑問を予め封じることができる。政治外交における表裏も同様で、予め公の立場と裏の立場を明確に分けることで、西欧諸国は諜報活動を有効に利用して利益を得ている。つまり、The art of politicsの追求が可能になる。日本の外交はnaturalである。裏を考えるのは不純であるという政治評論家も、テレビで活躍している。
 
2)もちろん、ここでいう国家は現政権とは必ずしも一致しない。
 
3)唯一神だから問題はないというかもしれないが、他の宗教を信じる人も同じセリフを言うだろう。
公空間または公的空間をウィキペディアで見ると、一般に公開された空間、図書館などと簡単に記述されている。英語版では、多少詳しくかかれているが、物理的な空間にほぼ限られている。

ここでは公空間と民主主義の関係を短く論じるが、その場合、精神的空間としての公空間を定義する必要がある(補足1)。つまり、民主主義社会の維持発展には各個人が、公的活動に対する義務感を持つことが必須であるということである。君主制では一般民衆にとっての公的空間は物理的なものに限られ、それを維持するのは君主側であり民衆側ではない(補足2)。つまり、一人一人が公的貢献を意識すること、つまり心の中に公的空間を持つことは、民主主義と不可分である。
 

現在すべての国民は、選挙活動、社会福祉、社会奉仕などの面で一定の公的活動をしている。その際に義務感を持って自発的にそれらの活動に参加しているだろうか? もし答えがYESなら、心の中に公的空間をもっていることになる。


時として私的な利益や感情と衝突する公的活動を遂行するためには、一定の公的貢献意識つまり精神的公空間を持つことが必要である。ここで言いたいことは、それが民主主義社会における市民として必須要件であるということである。

 

一般に用いられる公会堂やら市民会館、それに図書館などの公的空間は、単にそのような公的活動を行ううえに必要な物理的空間である。つまり、精神的な公的空間がなければ、物理的な公的空間は私的な用途にのみ奉仕する行政によるバラマキに等しいことになる。

 
選挙で政治家を選ぶだけでは、“与えられた民主主義”である。与えられた民主主義下では、行政が君主として機能し、選挙は単に君主側が出したメニューから選ぶだけである。日本はまさにこのような状態に近いとおもうのである。

補足:
1)従って、宗教の意味が重要である。民主主義と宗教は両立するのか、両立するとしたらどのような宗教なのか。それについては別途考える。
2)君主側が物理的公空間の管理を民衆側に命じるだろうが、それは責任が民衆側にあることを意味しない。
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米ドル札には裏に In god we trust (我らは神を信じる)と書かれている。人格神を心から信じて、民主主義が可能なのだろうか?