人格神と民主主義
 
先に、精神的公空間と民主主義の関係を考えた。民主主義社会の維持には、各個人が公的活動に対する義務感を持つことが必須であるということ。そして、私的な利益追求と公的活動の両方が正常に動機付けされるには、精神空間に私的部分とともに公部分(精神的公空間)を持つことが必要であると書いた。(補足1)
 
そこで宗教と民主主義社会は両立するだろうかと疑問を持った。宗教における教義は、すべての精神的空間を支配するだろうからである。他人への配慮という考えはある。それらは例えば、仏教での慈悲の心やキリスト教でのアガベーである。しかし、これらの他人への愛は、自分が極楽往生をするため、或いは、神に認められるための愛であり、結局動機は私的、つまり、神と自分の一対一の関係で生じたものである。
 
これらの宗教が社会の中心に位置していた時代には、民衆は被支配者である。公とそこへの貢献という考えは、市民革命によりできた国民国家という制度とともに生じたと思う。つまり、国家とその下部にあるコミュニティーへの貢献が公的貢献である(補足2)。
 
ある地域には一般にいろんな宗教の人やいろんな人種の人たちが同居している。そこに共通の住処としての国家を建設して、互いに協力するのが民主主義社会である。人格神は、その宗教を信じる人達の心の全てにわたって支配するので、このような民主主義社会とは両立しないと思うのである。
 
近代国家は、いろんな宗教を持つ人たちで構成されるが、正常の運営には宗教から独立した“精神的公空間”での意志決定を行いそれに従う必要がある。しかし、人格神を信じる人たちの精神的空間は、宗教の教義により全体調和的に設計されているとすれば、それを私的な精神部分空間に閉じ込めるのは不可能であり、民主社会の決定に矛盾するだろう。
 
それが、例えば國際社会のルールに従うことを拒否する多くの西欧人、シーシェパードなど、が存在する主たる理由だろうと思う。彼らには国際社会を”公”とみる意識は皆無だろう。
 
米国のドル札には、In God we believeと書かれている。その人格神(補足3)と米国の自由と民主主義を尊ぶことを国是とする国柄とは矛盾しないのだろうか。その神はキリスト教の神だと思うが、国家にはほかにもいろんな宗教を信じる人たちがいる。大統領の就任式の際に、新しく大統領になる人は聖書に手を置いて宣誓する。その聖書はキリスト教の聖書だと思う。イスラム教、ユダヤ教、或いは現地の神などを信じる人たちもいる。米国の人たちはそのことをどう思っているのだろうか?
 
つまり、民主主義国家においては、人格神を信じる宗教は形骸化していると思う。しかし、それをわざと追求しないで、放置しているのではないだろうか。
 
補足:

 

1)単に「人のためになる働きをしなければならない」ということをわざわざ難しく言うメリットがあるのか疑問が湧くかもしれない。しかし、明確に二つの意識を準備することで、フト湧いて出る「なんで自分を犠牲にしてまで」という疑問を予め封じることができる。政治外交における表裏も同様で、予め公の立場と裏の立場を明確に分けることで、西欧諸国は諜報活動を有効に利用して利益を得ている。つまり、The art of politicsの追求が可能になる。日本の外交はnaturalである。裏を考えるのは不純であるという政治評論家も、テレビで活躍している。
 
2)もちろん、ここでいう国家は現政権とは必ずしも一致しない。
 
3)唯一神だから問題はないというかもしれないが、他の宗教を信じる人も同じセリフを言うだろう。