青山繁晴氏の、「エゴと愛、命の選別と反日政党への視線」との題での動画について:
この後半部分で、日本に反日政党があることの異常性について話されている。また、どこの国の一般市民も普通に持っている愛国心が、日本では特別視されていることの異常性を指摘しておられる。
 
以下に私の感想を書く。
自国を貶める国会議員たちには腹立たしく思う。そして、日本人が持つべき土台である愛国心を持っていないという青山さんの指摘にも同意する。しかし、それは日本国という共通の土台に立って生きているということを、日本人全てが実感できていないことが原因ではないのか。日本国というのは、もちろん国土だけでなく、精神風土や政治文化など全てを含む。
 
その原因には二つあると思う。
第一の理由:それは、日本国が未だに米国の占領下に近いことである。この動画でも、昨年末の従軍慰安婦問題に対する日韓同意について、反日的決断であると指摘されている。私もそう思い、幾つも投稿してきた。以下にその一部を記す。

安易な“慰安婦最終決着”は危険では:韓国との交渉は中国と米国を念頭に進めるべき

今回の米国の圧力による慰安婦問題の合意は禍根を残すだろう

2050年問題:日本国の弱点について

慰安婦問題合意:汚い韓国と米国、そしてそれに盲従する外務省

米国と韓国の歴史修正主義:米国の慰安婦問題干渉の目的は何か

慰安婦は存在したが、慰安婦問題は現在存在しない筈

 
安倍政権でもあのような日韓同意をするのは、今や日本は米国に逆らって生きる道がないという(多分米国派官僚たちの)考えに安倍さんが同意せざるを得なかったのだろう。つまり、それなりの理由と歴史的経緯があると考えるべきだ。

その日本の情けない姿は、吉田茂から佐藤栄作などの長期政権の時、変更できた可能性がある。しかし、国を代表する地位にいながら、自分の政治生命や生物的生命を賭けて、それをしなかったのである(補足1)。青山氏の河野洋平氏らだけを槍玉にあげるのは間違っていると思う。
 
第二の理由:過去の歴史に向かい合う努力をしなかったため、70年前の戦争により一旦壊れた日本人の土台である愛国心を、未だ修復も再建もできないことである。
 
あの戦争を、国家として国民全ての議論として総括していないのである。例えば、あの大敗した戦争が、関東軍の暴走(軍による天皇の統帥権の干犯である;補足2)を契機として起こったという史実さえ、国民に共有されていない。
 
その時の政治家や軍人は他国の人間により処罰された(東京裁判など)が、それを支えた当時の外務官僚は全て不問に付されただけでなく、戦後日本の外交をリードしたのである。(半藤一利、「ノモンハンの夏」文芸春秋、文庫p39-40)それは日本国が戦争の総括をしていない証拠の一つである。官僚の無謬性という言葉で片付けるのは、このケースでは間違いである。
 
戦争の総括が国民とその代表によって行われておらず、その結論が国民全てに周知され確認されていなければ、国民が共通の土台に立てる訳がない。あの様な大敗をした他の国では、このようなことは無いだろう。
 
また、今でも薩長や下級貴族など明治維新の功労者の末裔が、日本をリードしている。これも異常であり、新陳代謝が国の指導者の考え方において、皆無だということになる。その良い例が、安倍総理が岸信介元総理を過剰に意識されていることではないだろうか。
 
この「考え方における新陳代謝の無さ」は、大戦時の陸軍幹部が不自然なほど自信過剰であったことでもわかる。例えばノモンハン事件の際、関東軍がソ連軍の実力をあまりにも低く評価していたことがある。それは日露戦争の勝利の後遺症だというのである。(「ノモンハンの夏」参照)
 
当時の陸軍も薩長土肥の出身が多い。そしてかれらは、明治維新の際に孝明天皇を暗殺したように、昭和天皇が三国同盟に最後まで反対すれば、暗殺した可能性すらあった。実際、昭和天皇は三国同盟を認める際、もしそうしなければ内乱となり、日本国が一層危うい方向に走ることを危惧されたと、独白録にあるという。(半藤一利、「昭和史」平凡社、文庫p301
 
日本の再建は遠いと思う。

補足:
1)何も米国にとって都合の悪いことをしなかったから長期政権となったと考える方が正しいだろう。これは、元外務官僚の孫崎享の指摘である。
2)軍の内閣の決定を無視して、あるいは、待たずして陸軍が暴走したのは、明治憲法の構造にあるという指摘が普通なされる。大日本帝国憲法第1条の「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と「天皇は陸海軍を統帥す(第11条)」という規定である。内閣ではなく、天皇の決定に従うというのである。そして、内閣からも天皇からも自由になって、陸軍は暴走した。つまり、最初から天皇は眼中になかったというか、自分たちと天皇は一体であると勝手に決め込んでいたのだ。
負の利子が導入されてびっくりしている人も多い。しかし、経済発展が終わり、定常的な経済が実現したとしたら、負の利子はあたりまえではないか。
 
つまり、ある時点で1日働いて対価として金を受け取る。1年後に1日働いた時、以前より多くの仕事が出来るとすると、1日の労働の価値は時間とともに増える。従って、昨年1日働いた分の対価であるお金にも利子がついて、1年後に増加するのは当たり前である。1日(単位時間あたり)の労働の価値が増加することが、経済発展である。

一方、先進国となり経済発展が止まり、1日の労働の価値が1年後も変わらないのなら、昔の労働と交換して得たお金は過去の出来事の対価である分、減少しても不思議ではない。骨董品ではないのだから、古くなれば価値は減るのだ。(補足1)
 
しかし、1日分の労働がお金に変換された場合、1年後に量(金額)が減少する代わりに、何時でも必要な時に使えるというプラスの価値が、手に入るのである。例えば、食料でもなんでも蓄えることで、一般に時間とともにものの価値は減少するが、何時でも消費できるという価値が加わることに対応する。これが貯蓄の動機である。(補足2)
 
経済発展している時には、新しいビジネスを始めるというチャンスが多く存在する。その場合、多くの労働力(つまり、お金)を予め投入して、労働の価値を高めるシステムを作れる可能性が高い。そのシステムが完成した時、高くなった労働の対価で、利子付きの負債を支払うことは十分可能である。
 
以上から、単位労働に対する単価が上昇する場合に、利子がプラスになると理解できる。この説どうだろう。因みに理系人間ゆえ、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」という本は読んでいません。ひょっとして、この本の端に同じようなことが書いてあるとしたら、お許しを。

補足:
1)貸し倒れ相当の利子がつくだろうが、それは今回無視します。
2)この場合、タンス預金は卑怯なことになる。おそらく、遠くない未来にお金は全て電子マネーになるだろう。その場合、お金には日付が打たれる可能性がある。
1)今日の“特ダネ”(フジテレビ系)で放送された事件についての感想を書く。放送内容であるが、介護ヘルパーが世話をする老人(88歳)宅を訪れた際、数千円の現金を財布から抜き取った窃盗事件である。この件、財布からどうも現金が消えるらしいと不審に思った老人の言葉を聞いて、親族が天井に設置したカメラの映像により明らかになった。
 
このケース、私には介護ヘルパーだけを責めることに若干の疑問を持つ。生活がもし豊かであれば、実の子供でも嫌がる介護など仕事にしていなかっただろう。そして、密室とも言える高齢の要介護老人宅の手の届くところに財布があり、それを開けるだけで現金が手に入る状況は、罠を仕掛けられた動物のように見えなくもないからである。
 
同類の犯罪として被害額が百万円をこえるものもある。その場合には、通帳を持ち出してATMなどから引き出すなどのかなり高いハードルを越える必要がある。番組では金額の問題ではないと言っているが、金額はこのようなケースの場合大きな問題だと思う。
 
「信じていたのに裏切られた気持ちである」という被害者の感想は良く理解できるが、しかしなお被害者と親族の対応には疑問を持つ。もともと介護人と介護を受ける側には、労働とその依頼人としての関係しかない。それ以上の、「人間的思いやりをこめた、明るい態度での暖かい介護」を要求をするのなら、西欧圏でのチップのようなものが必要だろう。
 
このケースにはいくつかの美しくない点がある。それは、犯行が明らかになったあととった被害者の親族らの対応に、人間的な思いやりが不足していると思われることである。介護ヘルパーの犯行を疑って、カメラを天井に仕掛けるまでに何かすることはなかったか?数千円の行方を明らかにするために行った努力の大きさも不思議な点である。
 
その映像を介護ヘルパーに見せて、追求したところ、その介護ヘルパーは「返却しますから、警察には内密に」と泣いて頼んだ。しかし、被害者は警察に告発し、警察は検察に書類送検したという。そのフィルムや音声データを警察だけではなく、テレビ局にも渡したのである。その対価については放送では触れられていない。
 
 
この番組を観たほとんどの人は、介護ヘルパーを非難して被害者の味方になるだろう。しかし、自分が見ている映像や音声データをテレビ局に渡す際に、お金や品物の授受が絡んでいたのではないかと想像するだけで、少しその“味方の程度”は変わるのではないだろうか。
 
その一件がなければ、信用できる良い介護人であったと言うのなら、被害者は良い介護ヘルパーを失ったことにもなり、その犯行と犯行の露見は双方にとって損であったのではないだろうか。そのようなことの無いように、現金を置かない工夫はできなかったのか?また、現金が必要になることがあれば、代わりに親族がそれを代行することは出来なかったのか?などの疑問を持つ。その程度の努力もなく、「人間的な思いやりを持った、明るく優しい介護」を低い金額で望むのは、そもそも無理ではなかったのか。
 
あくまでもテレビを観た限りのことではあるが、この種のケースを刑法である窃盗罪で処罰することは裁判官にとっても難しいと思う。何故なら、犯罪人を多く作ることは社会にとっての損害になるからである。
 
 
2)以下に、一般論として法あるいはルールを如何に考えるべきかを書く。
犯罪はルール違反であるが、ルールは絶対ではない。ルールは全体が差し引き幸せになるように設定し適用すべきである。罠をいたるところに仕掛けるような法は悪法である(補足1)。もちろん、犯罪を犯した人は罰を受けるべきということは確かであり、それは「悪法も法なり」という論理、つまり、法により社会を運営するという大前提を守るためである。
 
「悪法も法なり」という言葉を批判する記事がネットにかなり存在するが、この言葉は本来罰せられる側の論理ではなく、法により秩序を守る社会の側の論理を表現したものである。ソクラテスが毒杯を仰いだのは、自分の思想:「法秩序を守ることが社会全体の益となる」を守るためだったのだろう。

 

したがって、その社会に自分が属していると考えれば、自分も社会の一員として法に従うだろう。しかし、その刑が社会と自分の繋がりを切るのなら、社会側の論理が「悪法も法なり」だとしても、裁かれる側はその法に従う必要はない。
 
補足:
1)田舎の直線道路で交差する田舎道があるとしても、制限速度を40kmに設定したところがある。そこを日曜の朝、60kmを少し超えたスピードで通りかかった自動車を、速度違反で罰金刑に処することが、法の適用として合理的だとは思わない。予算稼ぎ業績稼ぎの交通警察の悪業である。国家公安委員長が、「流れにのっていれば、現在行われている20km超えの速度取り締まりはいかがなものか」と言ったのに、警察官は知らん顔である。一般市民と警察の不信感は、社会にとっての損害であるなどという高遠な論理は、警察官には般若心境と同様眠たくなるだけだろう。