韓国の統一省報道官は31日の定例会見で、「教育担当の副首相、キム・ヨンジン氏が処刑されたほか、朝鮮労働党の金英哲(キム・ヨンチョル)統一戦線部長も(粛清され)革命化教育を受けている」と明らかにした。
 
高官の処刑が続いているが、その理由は明確ではないのかもしれない。このように粛清が続くのは、トップが体制の重臣にたいして疑心暗鬼になっているのだろう。国家の最高指導部の顔ぶれが一定の期間同じであると、謀反の危険性が高まるという風に考えているのかもしれない。

この情況は、恐怖政治とは若干異なる。恐怖政治は圧倒的にトップの権力が強く、時々その権力の絶大なるところを見せつけるために粛清が行われる。しかし現状は、トップの権力が圧倒的に強いのではなく、常に謀略の危険性が芽生える情況にあるのかもしれない。

仮にその様な情況を仮定すると、一定期間が過ぎるとまな板の消毒を行う様に、常に最高指導部のメンバーを入れ替える必要がある。トップがそのような考えに陥っているとすると、北朝鮮の体制は末期症状にあると言うことになる。
 
国家指導部の質が徐々にであっても、際限なく低下していくことになる。そして論理的な議論などなど抜きで、国家の操縦はトップ一人で行うことになり、暴走の危険性が非常に高くなる。
 
体制崩壊へ向けた謀略があるとすれば、このように仕向けることになるのだろう。日本や韓国にとって、非常に危険なことになってきたと思う。
1)テレビで有名な茂木健一郎のアハムービーというのがある。写真の一部が徐々に変化するのだが、どこが変化したかを発見するというゲームである。変化の前後を見ると明らかに大きな変化があるにも拘らず、ずっと見ているとその変化に気付かないのである。
 
また、ビジネスの分野でよく知られている言葉に、茹で蛙の法則というのがある。蛙は60度の湯の中では死ぬので、突然60度の湯に放り込むとすぐ飛び出るが、蛙が浸かった水を徐々に加熱して60度にすると、蛙は逃げるタイミングを逸して、死亡するというのである。事実は、蛙はどちらのケースでも逃げて死を免れるらしい。
 
しかし、この話がビジネスの分野で良く語られるのは、「人間は漸次的な化は万一それが致命的なものであっても、受け入れてしまう傾向が見られる」から、先細りの営業成績などに慣れない様にと警告する際に用いられるからだと、ウィキペディアに書かれている。
 
茹で蛙理論のモデルは、いろんな政治問題にも適用されうると思う。日本の対米従属姿勢は、まさに茹で蛙状態ではないだろうか。釜を茹でているのは、米国だろう。湯かげんが良い状態では、米国は日本の同盟国のように思える。しかし、単純な同盟関係ではなさそうである。それは、最近湯の温度が高くなってきたように思うからである。
 
2)日本の安倍内閣は米国の属国としての地位を徐々に強めつつある。集団的自衛権行使を可能にしたのは、日本防衛のための日米協調強化のためだと説明される。しかし、日米協調強化は日本にとって非常な重荷になる可能性がある。
 
北朝鮮が、核兵器の小型化、潜水艦搭載型ミサイルへの搭載、その多弾頭化と軍事大国の道を進みつつある現在、どこかの段階で、米軍は朝鮮戦争を再開するだろう。その際、日本はその戦争に巻き込まれることになるからである。
 
米国はクリントン政権の時に北朝鮮の爆撃を考えたことがあり、日本にも通知されたと言われる。http://www.asyura2.com/16/senkyo199/msg/545.html しかし、上記サイトによれば、韓国の反対で実行されなかった。その結果、今の北朝鮮の核保持国としての姿がある。
 
米国が、朝鮮戦争を早期に終わらせ、平和条約の締結から北朝鮮の承認まで進めていれば、我が国の拉致被害者も帰国できていただろう。小泉政権の時に、日本と北朝鮮の間にどのような取引があったのだろうか? それに対して、どのような他国(韓国と米国)との連絡や交渉があったのだろうか?
 
その拉致問題解決の試みの全容(失敗の理由をふくめ)を、明らかにしてほしいものだ。また、韓国の目の前に、半島統一という絵に描いた餅をぶら下げて、朝鮮戦争の終結(米、北朝鮮、中国の当事者による平和条約締結)に反対するように仕向けたのは、米国だろうか?
3)上に書いたように、朝鮮戦争が再開されれば、日本軍は集団的自衛権故にそれに参加することになるだろう。憲法9条の改訂は、その体制を完成することになる。安倍政権は日本国の真の独立のために、憲法を改訂するというが、それは米国が朝鮮戦争に日本を巻きこむ作戦の日本向けカタログの文章ではないのか。
 
茹で蛙理論で言えば、安倍内閣は蛙という仮の姿であった我々は人間の姿を取り戻すことを決意すると言って(戦後レジームからの脱却と言って)、集団的自衛権行使を可能にし、憲法改訂を目標に設定した。それは、米国が湯の温度を更に高くする戦略を代弁しているだけではないのか?二度と出られない、ズブズブの同盟関係(属国状態の完成形)のようになりはしないのか?
 
仮の姿から本来の姿を取り戻すのなら、一旦湯から出て体を冷ましてから頭も冷まし、曇っていない鏡に自分の姿を写してみることが大事である。しかし、それができたのは佐藤内閣までだったと思う。今湯から出れば、病気になるだろう。しかし、出なければ茹で上がるだろう。このような状態を作ったのは、自民党と官僚独裁体制である。しかし、攻撃すれば済むというものではないところが悲しい。
 
==素人の駄文に付き合いくださりありがとうございました。==
 
 
日本社会の特徴は、人と人の間に不可解な「空気」が濃く存在することである。その結果、ある集団の構成員の破廉恥な罪は、他の構成員に連帯責任がを強要する。また「空気」を過剰に意識し、支配された集団は、論理的に設定された筈の目標を見失って迷走する。それらは全て、個人の自立が大人になっても達成されていないことによる。その背景には、日本文化があると思う。
 
1)ここ数日間、ある俳優による強姦事件がテレビの報道バラエティ番組を占拠したように報道されていた。その異常とも言える報道頻度と時間は、日本の報道界のレベルの低さを示しているが、別の視点で見れば、日本社会がそれを要求しているからである。更に驚いたのは、母親が記者会見を行い、謝罪し、更に今後の俳優としての活動の自粛に言及したことである。
 
その事件と相前後して報道されたのが、埼玉県で高校一年生が殺され河川敷に埋められた事件である。この事件では、地元のカラーギャングが犯人で、その理由は連絡を取らなかったからというものである。http://mainichi.jp/articles/20160825/k00/00e/040/155000c
 
この種の集団は、個人では出来ない目立った行為や時として不法な行為を集団で行い、瞬間的な優越感に浸るのだろう。チーム内では”個人の壁”をある程度持つのはリーダーのみであり、あとの構成員は個人とは言えない筈である。殺された被害者はそのチームの使い走りたなって一週間ほどして、チームから逃れようとしたのだろう。個人としての行動をすれば、厳罰が下るのがその種のチームの姿である。
 
2)上記二つの出来事は同根である。人間は集団で生き、集団にはボスがいる。小さい集団では、集団の意思はボスの意思である。そこで重要なことは、その集団の意思を知ることであり、敏感に感じることである。日本社会というような大きな社会では、その意思は山本七平風にいえば「空気」ということになる。
 
最初の例では、高畑淳子さんは鋭敏に空気を察知して、謝罪会見を行った。もちろんそれは、将来の仕事と自分達の生きる空間の確保のためである。決して、自分が社会に対して責任を負うべきだとは思ってない筈である。悪いと思っているとしたら、片親という家庭環境しか息子に与えることが出来なかったことが、息子の性格に影響したのではないかとの思いだろう。

 

あの会見は、社会への謝罪の形をとっているものの、今後の社会によるイジメを回避するためのものである。そこでは論理的なことを決して言ってはならない。空気が嫌うのは論理であるからである。ひたすら、詫びて涙を流すのが正しいやり方である。
 
二番目の例は、もっと強く結びついた小さな社会の出来事である。この種の小さな集団は、社会からは浮いた存在である。そのため、常に構成員が社会に吸収されて集団が分解してしまう危険性があり、その危険の自覚がその小さな社会の結束力となっている。

 

その集団では構成員の間での互いの存在確認が頻繁にラインなどのスマホツールを用いて行われていただろう。準構成員とみなされていた被害者が、この集団から一般社会に逃避しそうになったため、集団のルールに反したことの罰と、(同じことであるが)その集団の団結力の確認のために、殺されたのだと思う。殺したのは個人ではなく、集団である。唯一個人として責任を負うのは、その集団のリーダーである。
 
3)中学校などでのイジメの典型でもあるこのような傾向は、人間である限り共通して持っている。しかし、特に日本でその傾向が強いのは、この国の人々は殆ど“個人の自立”を感覚的に理解していないからである。個人の自立とは、例えば独自の意見を自分の言葉で発言することである。

 

この国のどのような社会でも良いから、新参者(評価がプラスマイナスゼロである)が独自の意見を集会などで言ってみれば良い。その発言者はその社会でただちに孤立し、その社会の構成員に陰口の種を提供することになる。
 
「個人では構築し得ない深い論理的モデルを、集団での議論を通して構築し、難問を解決すること」は西欧が築いた一つの文化の形式である。この「万機公論に決すべし」と明治時代にうたった理想が、未だ実現していないことをすべての日本人は知っている。そして人々は、ひたすら“世間”の空気を読むことに専心し、その空気の支配を受ける。それが、あの大きな社会である筈の東京都議会で一人のつまらない議員が、ボスとして君臨できた理由である。ボスは空気を支配する祈祷師である。東京都議会は、日本国のモデルでもある。