1)韓国政府は24日、大統領府で開いた政策点検会議で対北朝鮮政策の見直しを行った。政策点検会議は国政の重要政策を練り直すのが目的で、朴政権は2013年3月以来、2度目としている。24日の会議には関係省庁の閣僚や次官が出席。朴大統領は冒頭、「国際社会と力を合わせ、北核問題を解決する」と訴えた。

 

朴大統領は従来、人道支援や対話などを通じて北朝鮮との信頼醸成を図る「韓(朝鮮)半島信頼プロセス」を提唱してきたという。原子力安全や気候変動など協力しやすい課題から地域対話を始める「東北アジア平和協力構想」も掲げ、日中ロなどとの協力を模索してきた。しかし、今年2度核実験をしたことなどを考え、朴大統領はもはや北朝鮮は核廃絶の話し合いに出てこないと断じた。そこで、今後は制裁強化に動き出したらしい。また、8月末から9月初めにかけて起きた北朝鮮東北部での大規模水害に対し、人道支援は行わない方針だという。


一方、安倍総理はキューバを訪問して、兄弟国の誘導で北朝鮮に核兵器放棄を働きかけようとした。しかし、そんなことカストロ大統領はするわけない。パーフォーマンスとまとものな外交政策との区別がついていないのではないだろうか? そもそも、日本には北朝鮮の核に対する脅威などないのだ。まともな議論など、テレビでも聞いたことがない。


テレビでは高畑母子が話題になった後は、豊洲(築地市場の引っ越し先)の施設の下が盛土されていないとかいう下らない問題に斬りかかる、女剣士の姿を楽しんでいる。希薄なベンゼンなどより、北朝鮮の核兵器の方がはるかに恐ろしい。

 

2)日本の北朝鮮への対応と同様、韓国の北朝鮮に対する対応も不思議だ。北朝鮮を韓国も日本も国家として認めていないのに、何の対話をどこの国とするのだろう?両国の制裁と対話の間の往復運動は、子供がブランコに乗っているようで、頭の中には何もないのだろう。

 

以前から、何度も書いてきた。最初に書いたのはブログではなく知恵袋への投稿だった。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n62832?fr=chie_my_notice_note_good  この時には、日本国が一人前の国になることが先決だという趣旨でかいた。その後、朝鮮戦争の終結、平和条約の締結、北朝鮮の承認などが、拉致問題も核問題も解決する鍵だろうとかいた。

 

何度も同じことを書くのは嫌だが、敢えて繰り返す。

朝鮮戦争の休戦から60年以上たっているが、終戦にはなっていない。つまり、敵国であった米国や韓国は、北朝鮮が国連に加盟して久しいにもかかわらず、未だに北朝鮮の征服を諦めたということになっていないのだ。それにもかかわらず、何が「韓(朝鮮)半島信頼プロセス」だ。何もかも正直に言ったらどうか?

 

朝鮮戦争を終り、国境確定して講和条約を締結すること;そして、日本も日朝基本条約を締結して、韓国と同様に経済支援金(賠償金相当)を支払い、北朝鮮の経済発展を支援すること;などを引き換え条件にすれば、北朝鮮は核兵器の開発を放棄しただろう。今となってはそれも困難かもしれないが、それしかない。

 

現在の異常な北朝鮮の姿は、米国とその保護国ら(つまり、日本と韓国)がその存在を認めなかったからだと思う。なぜ、60年以上たっても、朝鮮戦争を終戦として、北朝鮮の体制をみとめないのか?

 

アジアに混乱の種を残したいという米国のエゴに原因がある。マッカーサーが本気で朝鮮戦争に勝とうとした時、司令官を更迭されたことに関係があると思う。その証拠に、マッカーサーは怒って議会で「日本の戦争は自衛の戦争だ」と証言している。

 

北朝鮮が中国にたいして持つ不満は、米国との仲立ちとなり、朝鮮戦争の終戦と韓国、米国、日本との関係正常化などの道を開いてくれないことだと思う。六カ国協議とは、ピストルを持った怖い人を含めて5人の警官が一人の男、怪しげな身なりの男を取り囲み、”命の保障をしないが武器を捨てろ”というようなものである。


こんな変な会議は歴史上他にないだろう。朝鮮戦争の当事国のみで講和を話し合うのが全ての出発点の筈なのに、米国がそれを誤魔化す為に作った会議だと思う。それに乗じて、或いは、主目的は日本と韓国に核開発させない為に作った会議なのかもしれない。

 

北朝鮮核問題は、米国が解決する気になりさえすればそれほど難しくなかったのだ。北朝鮮の承認で米国は一体なにを失うのか?世界に混乱をおこして、利益を得ようとするのは時代遅れだ。もう21世紀なのだ。

 

3)蛇足: 小泉さんが拉致問題解決しかけたとき、ブレーキをかけたのは米国だと私は勘ぐっている。多分、北朝鮮を承認して経済協力を約束すれば全てが解決すると直感的に考えたのだろう。しかし、米国の一言でサッと身を躱したのだろう。女性天皇容認を考えたが、悠仁親王の誕生でサッとその案を撤収したのと似ている。知に欠けるが直感力だけは天才的な人だと思う。


このあたりの真相は明らかにされていない。現在の世界の上層部は、混乱の中で権力を得たものたちなので、それが解決しては足元が揺らぐかもしれないと恐れているのかもしれない。テレビでは終始いい加減なことを言っている。

1)科学技術という言葉は誤解を招きやすい。元々科学と技術は一体の関係にはない。科学は、自然や自分自身を含めてこの世界の成り立ちや本質を考える哲学の一部であり、従って、役に立つとか役に立たないとかという価値観には馴染まない。一方、技術は人間や社会に役立つ新しい物やシステムを作ることや、その効率を高めることを目指す。勿論、人間は自然の中に生きるのだから、科学的知識は技術開発の基礎になる。(補足1)
 
自然科学は、ギリシャ文明においては哲学の中に含まれており、自然哲学という呼び方がなされていた。(補足2)当時の哲学はあまり分化が進んでいなかった為、プラトンの弟子であるアリストテレスは、所謂哲学(存在、認識、倫理など)の他に広範な自然科学的考察を行っている。
 
知識が高度になるに従って哲学の分化が進み、各分野の専門家が生まれた。それら専門での発展とそれらの統合により、人類は高度な文化を築いてきた。そのプロセスの中で自然哲学は、自然科学と呼ばれるようになった。そして体系的な自然科学の知識を基礎に、技術開発を目指す専門家も分化のプロセスで生まれたのだろう。(補足3)ここで大事なことは、「専門的知識の恩恵を社会が受ける場合、その専門の社会に於ける位置づけを正しく行う能力をその社会のリーダーが持たなければならない」ということである。
 
2)科学が現在の姿まで高度に発展したのは、技術開発を念頭においたのではなく、哲学の一環として行われたからである。「真実と論理に絶対の価値を置く人の集まり」を作ることで、緻密に科学的成果を積み上げるシステムを、利益とか愛憎の渦巻く人間の世界の中に作った。この科学の遺伝子が混沌とした人間界に生まれたのは奇跡だと思う。もし、利益や人間関係が科学的議論の過程で入り込むようなことになれば、科学の萌芽は生まれなかっただろう。「学問の自由」という概念も、政治や経済などの現実の人間界の侵略を、聖域としての学問(科学などの哲学)を守るためにできたのだろう。
 
一方技術の基本的発明は、中国で始まった。火薬や紙などの発明である。しかし、中国で高度な技術の発展がなかったのは、科学がなかったからだと思う。それは、役に立つことを直接考える姿勢では、大きな技術開発の流れ(遺伝子)を作れなかったことの証明である。
 
科学と技術が分化し発展の軌道に乗ったのち、産業革命後の“近代科学技術文明”の発展プロセスにおいて、両者は蜜月関係とでも言えるほど近くなった。その結果、一般には科学技術として一括りに理解されてきた。科学者に向かって「あなたの専門はいったい何の役にたつのですか?」と聞く場面をテレビでよくみる。科学と技術の本質的違いが一般に理解されていないのは、マスコミや政治の分野の人たちが理解していないことが原因だろう。(補足4)
 
3)純粋に哲学として発展した科学だったが、科学技術と一括りにされて経済や政治という利益や権力の世界と密に接触し、自然哲学としての科学の遺伝子も働かなくなり、進むべき方向も歪められた。科学の進むべき方向は、政府の支出する予算や企業が出す寄付金により決められることになったのである。
 
そして、科学の発展は人類の知の拡大であるから、それを国家が援助するのは当然であり、できるだけの予算をつけるべきであると考えられてきた。また、新規技術の開発は国家経済に必須であるから、その援助も国家の方針としてなされてきた。そして、科学のことがよく分からない一般大衆を代表する政治家たちにより、技術開発の一貫として科学の支援が行われた。
 
哲学が古代ギリシャにおいて、貴族社会により支援されたことと対照的である。貴族には知を愛する(哲学:phil= 愛する、sophy=知)感覚があっても、一般大衆には何時の時代でも利を愛する気持ちしかない。科学と民主主義は相性が悪いのである。
  
つまり、科学と技術という本来人間が別の姿勢で向かうべ領域を、政治と経済が乗っ取り融合した結果、両分野は政治と経済の意図する方向に大きく発展したのだと思う。ノーベル賞はその流れに棹さすのではなく、加速する役割を果たしたと思う。(補足5)
 
経済が資本主義の発達により、株式会社という名の法人(つまり資本)は自然人を支配するようになった。株式会社は資本の論理で動き、決して自動的に自然人の幸せを目指すものではない。それは昨今の急激なグローバリズムの”副作用”が示している。グローバリズムは本来巨大資本の意思で始まったことであり、国家の壁で囲まれた各国民のために始まったのではない。資本による科学の乗っ取りも同様である。昨今の“科学的”成果が将来人類にもたらすものが、発展なのか破壊なのか良くわからなくなったと思う。
 
例えば、遺伝子工学や一旦分化した細胞を初期化する技術の発展は、生と死の関係を変えつつある。あたかも、死の克服が人類の究極の課題かのような錯覚を人々に与えてしまったと思う。また、宇宙空間での現象の科学的解明とか、宇宙の謎の解明とかいう科学の名でなされる膨大な事業は、科学というより国家が進める軍事技術開発である。科学技術の発展と人間の未来について、真剣に考える時期である。
 
補足:
1)大学では、技術は工学部において、そして、科学は理学部において研究される。
2)理学博士の称号を持つものは、ph. D. (Doctor of Philosophy;つまり哲学博士)を名乗る場合がある。
3)古代ギリシャのアルキメデスは、科学者であると同時に技術者であった。アルキメデスの原理で有名である。
4)9月11日のそこまで言って委員会で、ゲストのロボート・ゲラー氏が、「先生の研究は何に役立つのですか」と聞かれて、説得力のある答えができなかった。「基礎科学なので」というところだけで十分なのだが、それでは納得してもらうのは困難であった。その場面では“特別に”ギクシャクした会話が交わされていた。質問の主は素人であったが、その他の出演者は政治評論家など一応の知識人レベルにあると見做される人たちであったが、このやり取りに口を挟める者はいなかった。
5)イグノーベル賞というのがある。昨日のNHKでその候補として紹介されていたのが、総合大学院大学の助教の「カラスに方言があるか」という研究である。予算が集められずに苦労している研究者の姿は、この興味ある科学的課題が政治や経済の意思から遠いことを示している。ノーベル賞のパロディーといわれるが、本来の科学的興味に近いのはイグノーベル賞の方かもしれない。ノーベル賞の受賞基準である「人類の役に立つ研究」は、決して自然哲学の視点ではない。
時事通信の昨日の記事によると、中国外務省は「南シナ海問題での日本の姿勢は、アジア地域で益々孤立する結果になるだろう」と日本に警告している。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160919-00000091-jij-cn

中国外務省の陸慷報道局長は19日の定例会見で、稲田朋美防衛相が南シナ海問題で中国を批判し、海上自衛隊と米海軍の共同巡航訓練を行う方針を示したことを受け、「日本はますます孤立する状況の下、うそもいとわず、自国の観点を関係国に押し付けようとしている」と強く非難し、南シナ海への日本の「介入」をけん制した

陸局長は南シナ海問題に関する7月以降の東南アジア諸国連合(ASEAN)側との交渉の成果を誇示し、「地域の国家は何が自国の根本的利益かを最終的に理解し、適切に問題を解決することに同意した」と強調。「日本は大きな流れがはっきり見えていないか、あるいは直視したくないのだろう」と批判した。  

米国は、今後軍事的に世界の警察官から一般国家へ後退する姿勢をとるのは確実である。その状況下で、日本は中国と正面から米国の犬となって吠えるのは、得策ではない。今回の南シナ海での日本の姿勢はまさに、アメリカの犬として行動しており、安倍内閣の対米追従姿勢は非常に危なっかしいと思う。 

マスコミは、客観的立場からこの安倍内閣の姿勢を報道すべきだが、それが全くなされていない。例えば、今回のハーグ仲裁裁判所の決定のある部分について、日本では十分報道されていないのではないか。それは太平島に関する裁判所の判断である。 

今回中国が領有権を主張している南沙諸島の最大の島である太平島は、日本が戦前支配していた島であり、現在台湾が実効支配している。島には淡水が湧きでており、森もある。また、空港もあり人も200人ほど住んでいる。写真で見る限りどう見ても島である。その島を含めて、岩礁であると判断した今回の裁判をそのまま支持することは、どう考えてもおかしい。

南シナ海での紛争は、シーレーンの問題はあるが、それより前に領有権の問題であり、日本はその裁判の当事国ではない。したがって、日本は将来アジアの一員として国家の生きのこる道を考えるのなら、客観的な姿勢をとるべきである。当事国のフィリピンが中国に一定の配慮をしている状況で、日本のみが強硬に対米追従をするのは馬鹿げている。 

日本のマスコミは、「中国が沖ノ鳥島は岩礁であり島ではないと主張している」と報道してきた。この主張の背景にあるのは、仲裁裁判所による太平島を岩礁だとする判断である。私の見てきたテレビニュースなどでは、沖ノ鳥島に対する中国の主張をこの背景に言及した形で放送した局はなかった。日本のマスコミは客観的に報道しないだけでなく、日本政府(つまり米国政府)の視線のみを意識し、事実を曲げて報道する。日本のマスコミは親米であり従日本政府であるが、反日本国民である。